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スマホがブルッと震えた。
今どきメールを入れてくるのは一人しかいない。
いつもは素無視するのに今日は何となくメールを開いてみた。
たった一行だけのメッセージは母親からのものだった。
"今どこにいますか?"
大学生にもなって母親からメールが来るなんて周りの奴らには言えないけれど、たった一人だけ、今隣でスヤスヤと眠っている恋人には不思議と打ち明けることが出来る。
それはきっとこの恋人が俺の全てを受け入れてくれると信じているからだろう。
悟と出会ったのは、大学の図書館だった。
家に帰りたくないと、閉館まで図書館で時間を潰すことが増えていた中で、何となく感じていた視線。
その先にいたのが悟で、引き寄せられるように俺たちは恋に落ちた。
そして家に帰りたくない一心で、一人暮らしをする悟の家へと転がり込んだのだ。
決して自分からは詮索してこない。ただ何事もないように側にいてくれる。そのことが嬉しかった。
「俺ん家さ、母子家庭なんだ」
「へえ、そうなんだね」
「親父がさ、酷いDV男で……毎日のように母さんのことを殴るんだよ。顔が腫れ上がるくらいにボコボコなの。それなのに、母さんはいつも俺の前で笑ってたんだ。何事もなかったかのように……」
「そっか……辛かったんだね」
「辛い……そうなのかな? 俺はただ……母さんを守りたかった……」
「そうなんだね。ちゃんと守れたの?」
「どうなんだろう……。わかんないや」
初めて誰かに話をした。今まで誰にも言えなかった家族のこと。父親は亭主関白で自分の言うことは絶対という人だった。少しでも気に障ることをすれば、地獄の時間が始まる。まずは罵倒することから始まり、何も答えないでいると平手打ちへと変わった。パーだった手がグーへと変わり鈍い音が部屋の中へ響き渡る。それでも気分が収まらなければ倒れた母さんの体を思い切り蹴りあげていた。怒りの矛先が俺に向かないように、母さんはいつも必死でその仕打ちに耐えていた。
早く別れてしまえばいいのに……と何度も心の中で思ったけれど、言葉にすることは無かった。それはきっと、母さんが精一杯俺を守ろうとしてくれているのが子供ながらにわかっていたからだ。
何十年もそんな光景の中で生きていた俺は、いつの間にか自分の感情を表に出すことをしなくなっていた。
「大地……」
「悟、おはよ」
眠っていた悟が目を覚ました。
そっと手を伸ばし顔を撫でるとビクリと体を震わせる。
「母さんからメールが来たんだ」
「そうなんだ。返事はしたの?」
「ううん。まだだよ」
「そっか。たまには連絡してあげてもいいかもね。お母さん、きっと喜ぶよ」
「そうかな?」
「そういうもんだよ。それにもうずっと帰ってないんだろ?」
「確かに。ちょっと返信してみようかな……」
珍しくストンと入り込んできた言葉に、俺は何となく前向きな気持ちになっていた。
"久しぶり。元気? 明日、そっちに顔出すよ"
"待ってます"
短い文のやり取りはあっけなく終わった。
帰るのはどれくらいぶりだろう?
胸の奥がソワソワと落ち着かない。母さんは元気だろうか?
きっと玄関の扉を開ければ、いつものように笑顔で迎えてくれるんだろう。悟と同じように何事もなかったかのように……。
「悟、明日実家へ顔出してくるよ」
「そっか。じゃあ、帰って来たら美味しいものでも食べよう」
「うん」
洗い物をしていた手を止め振り返った悟が、天使みたいに笑った。
久々に戻ってきた見慣れた道を歩いていく。だんだんと家が近づくにつれ、ゾワゾワと背筋が痒くなる。我ながら緊張しているのかもしれないなんてことを考えながら足を進める。
一ピンポーン一
インターホンを鳴らしたけれど、なかなか反応がなくて俺は少し苛立っていた。鍵を持ってくれば良かったのに、鞄ごと悟の部屋へ置いてきてしまったのだ。財布だけをデニムのポケットに入れて深く帽子を被り玄関の前で左足をカタカタと揺らす。
待っていられなくなり悟の部屋へ帰ろうと背を向けた瞬間に、カチャリと玄関のドアが開いた。
「おい、遅せーよ。いつまで待たせれば気が済むんだ」
「ゴメンね、大地……おかえり」
「ったく……久々に帰ってきたのに待たせるなよ」
「そうだね。けど、元気そうで良かった」
「変わんないよ。母さんは、少し窶れた?」
「ううん、大丈夫……。さあ、入りなさい」
「ああ……」
何かがおかしい……
俺の予想は当たらなかった。帰ったらきっと、笑顔で迎えてくれると思っていたのに、俯いたまま俺と視線が合わない。
そう感じながらも、ゆっくりと母さんへ近づいていく……
玄関へ入ると、ガチャンと音を鳴らし鍵がかかった。
これはいつもの光景で少しホッとする。
「さっきは怒鳴ってゴメン……」
「ううん……母さんも出るの遅くなっちゃったから。久しぶりに帰ってきたのに、ゴメンね」
「ううん」
「何か温かいものでも飲む?」
「じゃあ、ホットミルクもらおうかな……」
「わかった。ソファにでも座ってて」
「うん」
母さんのホットミルクが俺は大好きで、父親が暴れ倒して寝静まった頃に母さんがよく部屋まで持ってきてくれた。
それを飲むと、嫌なことスーッと忘れられるし、よく眠れた。
体がポカポカと温まって、まるで優しく抱きしめられているみたいに休まるんだ。
母さんがキッチンのドアを開けて中へ入ったことを確認すると、俺はダイニングのドアをスライドさせる。
「さ、悟……」
「大地……やっと来たね」
「お前……な、んで……」
「門倉大地、門倉修三殺害の容疑で逮捕する」
「はっ? 殺害容疑って……」
目の前の恋人の言葉に、俺は唖然としていた。
さっきまで一緒の部屋にいたはずの恋人は、髪を整えカッチリとスーツを身に纏い俺の前に立っている。
その顔は元型がないほどに腫れ上がっていて、それが間違いなく俺のつけたものだということがわかる。
「君は、半年前の5月1日、父親である門倉修三さんを殺害しました。覚えていますか?」
「悟……なに言ってるんだ……前にも話しただろ? うちは母子家庭で父親は酷いDV男だったって……」
「覚えていないんですね?」
「覚えてるも何も、一緒に住んでなかったし、俺は父親がどこに住んでいたかも知らないんだ。殺すなんてこと……出来るわけがない」
「門倉大地さん、あなたは父親を殺したんです」
「まさか……」
自分の中にない記憶に漠然としていると、視線の先に母さんを見つけた。
「母さん……ウソだろ?」
俺の問いかけに、母さんは首を横に振った。
どんな時でも笑顔で俺の前にいたはずの母さんが笑わない。悲しそうに、今にも涙を流しそうな表情で俺を見ている。
俺が、父さんを……殺した……?
記憶を辿っていく……
そうだ、俺が父さんを……殺した……
もう、うんざりだった。
母さんのことを罵倒する声も、母さんを傷つける手も足も全てが汚らわしかった。俺のために母さんだけが苦しむことなんてないんだ。俺のせいで母さんが傷つけられることなんてないんだ。
今まで細い一本の糸で繋がっていただけの感情がプツンと弾けた音がした。
俺は、いつでも覚悟は出来ていたんだ。自身で買ったナイフを机の引き出しに隠し持っていて、いざという時はこれを手に取り父親のことをねじ伏せてやろうと……
それが俺に出来る唯一の母さんへの恩返しだから……
そんな大切なことを忘れてしまっていたなんて……母さん、ゴメン……
「俺が、殺した……」
逃げも隠れもしない。だって俺は自分のしたことを後悔していない。
ねえ母さん、俺は母さんを悪魔から守ることが出来たよね……そう信じてもいいよね?
そうじゃなきゃ、ここへ戻ってきた意味がないよ。俺はずっと母さんの笑顔を守りたかったんだから……
「母さん……俺は今どこにいますか……?」
「大地はずっとここにいますよ。ずっと待ってるからね」
母さんが優しく微笑んだ。
俺は一筋の涙を拭い、悟へと視線を戻した。
「まさか、刑事だったとはな……」
「半年も凶悪犯と生活するのは、もうゴメンだ」
「傷つけて悪かった……。何度も何度も殴って、こんなに腫れ上がるまで……」
「悪いと思うなら、ちゃんと罪を償ってここへ戻って来い。お前のお母さんのことは、俺がちゃんと守るから」
「ありがとう」
捕まえようと思えばいつでも捕まえられたはずなのに、そうしなかったのは記憶のない俺を捕まえても意味が無いと判断したからだろう。
フラッシュバックして暴れる俺を、悟は自分の身を挺して守ってくれていたんだ。
他の誰かを傷つけさせないように……
いつか自分の犯した罪を償える日が来たら、またこうして笑顔で会いたい……
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