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2.屋上
2025年 榊原龍一
恐らく多くの親が同じことを言うだろうが、目を離したのはほんの一瞬だったのだ。
デパートで妻が会計をしている間、四歳の娘と広めの通路で待っていた。その時スマホが鳴り、一瞬それに目をやる。仕事のメールではないことを確認し、もう一度スマホをしまい、隣を見たら、
「美実?」
娘の姿が無かった。
「美実!」
慌てて周囲を見回す。油断してた。
土曜の昼過ぎということもあり、人は多い。パッと見回した限り、娘の姿はない。ああもう、この一瞬でどっちに!
その場を離れて探そうとしたところで、
「パパ?」
会計を終えた妻が合流する。
「美実は?」
「ごめん! 目を離したらいなくなって」
さっと妻の顔色が変わり、走り出そうとするのを慌てて止める。
「俺が探すから沙耶はここにいて。美実が戻ってくるかもだし」
「でも!」
最近は落ち着いているとはいえ、体調が不安定な彼女を走らせたくなかった。
そんなこちらの思いなんて簡単に見透かし、彼女は少し怒ったように俺の手を払って走り出そうとしたところで、
「あ」
通路の一角に視線を移す。
つられてそちらを見ると、お爺さんの幽霊がいた。
「見てないですか? うちの子」
お爺さんの目を見て、しっかりと妻が話しかける。
『上だよ、屋上遊園地の残りものに連れていかれたよ』
沙耶が小さく舌打ちし、
「ありがとうございました」
『いいや、この前のお礼だ』
お爺さんの返事の前に沙耶が駆け出す。今度は止められなかった。
「沙耶!」
エレベーターがタイミングよく来て乗り込む。運良く、あるいは奇妙なことに誰も居なかった。
「沙耶、あのさ」
何から聞けばいいのか。
「……屋上遊園地は、もうないよな?」
考える前に言葉になったのはそれだった。
遊園地はあった。あったけど、それは美実が生まれるずっと前、それこそ俺が子供の頃に無くなったはずだ。
「そう。だから、そういうこと」
こちらを見ずに沙耶は答える。
エレベーターの操作盤に触れ、小さく何かを唱える。
「そうか」
つまり怪異的なこと。それに俺はもう慣れてるからいいが、美実は大丈夫だろうか。なんだって急に引きずり込まれたのだろうか。そんな心配と。
「着いた」
エレベーターのドアが開く。そこにあったのは最近見慣れた広場ではなく、昔の遊園地だった。ゴーカートや鉄道の乗り物があって……
「美実!」
パンダの乗り物に美実が乗っていた。楽しそうな、笑顔を浮かべて。
そして、美実の周りで誰もいない乗り物が動いている。
沙耶が駆け寄り、美実を抱き上げる。
「美実!」
名前を呼び、顔をのぞき込むと、
「……ママ?」
ぼんやりと美実が沙耶の顔を見た。それにほっと安心したような顔をすると、
「お願い」
ぼけっと眺めることしかできない俺に美実を渡してくる。
「沙耶、その」
「大丈夫」
少しだけ沙耶は笑うと、何もいないのに動いているパンダに触れる。
「パパ?」
「大丈夫だよ」
見せてもいいものかわからず、美実の顔を隠すように抱き直す。
この状況に不安はある。でも、沙耶ならどうにかしてくれるだろうという安心感もある。昔と、同じように。
幽霊を祓うときの妻は、悲しくなるぐらい美しい。
屋上遊園地から抜け出し、一度デパート内のカフェに入る。
「いちごぱふぇー」
歌うようにデザートを頬張る美実は、先程の遊園地のことは何も覚えていないみたい。
「……それで?」
問いかける自分の声は、我ながら冷え冷えとしていた。
「寂しがり屋の捨てられた遊園地の話、ということ」
「それは大体分かったけど」
聞きたいのはそっちじゃない。
「この前のお礼と言っていた、お爺さん」
「前来た時、絡まれてたから助けただけ」
「だからなんでそういうことをっ」
声を荒らげかけたとき、正面の沙耶が俺の手にそっと触れた。窘めるように。
「……けんか?」
美実が困ったような顔をしてこちらを見るから、慌てて呼吸を整える。
「けんかじゃないよ」
「美実、ここ生クリームついてるよ」
沙耶が左手を拭く。
「けんかだめだよー」
「ごめんごめん」
きっと今回もこのまま有耶無耶にされてしまうのだろう。だけど。
あの屋上遊園地で、沙耶が助けてくれることに安心感を抱いていた。
そんな自分が嫌だった。
幽霊を祓う。かつて沙耶はそれを仕事にしていた。今でも出来る。
でも、今は幽霊を祓う行為が彼女を蝕む。記憶を、体を。
それなのに、なにもできない。
今も昔も、俺は無力だ。
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