入り口のそばにいるスパイ

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入り口のそばにいるスパイ

 ふとしたときに、その男の存在が意識された。  駅前の日陰がちな路地裏、いかにも(ものぐさ)いバーの入り口付近にその男は立っていた。  私はそれまで、その路地を特に選んで通ろうとしなかった。汚い(つた)でも生えそうな陰気臭さのせいではなく、また初見の客を歓迎しそうにないそのバーの近寄り難い印象のせいでもない。  単に通る必要がなかった。駅を出て、前の通りを右に折れると繁華街に出る。曲がり角にはコンビニもあり、そこを経由する方が格段に便利で快適なのである。  最初にその路地を通ったのがいつだったかは思い出せない。しかし、その男に対する意識が急激に膨らんでいったときの感覚は、今なお鮮やかに残っている。  昨日、大学からの帰り、いつものように駅の改札を抜けた。繁華街へ向かう途中、左へ顔を向けると、あの薄暗い路地が視界に入った。  雲が青みがかる夕方頃、風俗店の客引きが声をかけてくる時間でもなく、私は吸い込まれるようにそこへ進んで行った。  朽ちていく建物一棟一棟に隠された、異形のものの匂いを嗅ぎ取ったからだろうか。気まぐれの好奇心と言えば都合良く伝わるかもしれないが、それ以外の何か日常からの小さな逸脱がそこにあった、今ではそのように感じている。  路地を数歩行ったところで、男に最も近づいた。薄手のトレンチコートと革の中折れ帽には随分年季が入っていて、ほつれや色の()げた箇所が多く見られた。  ゴルフ関連らしい雑誌に落とされた男の視線は、ついに私には向けられなかった。私は歩く速度を落とさず、そのまま路地を抜けた。はたから見れば何事もなかっただろう。路地を出た直後は、私にとってもそうだった。  家に帰り、食事を取り、シャワーを浴びても、心境に大きな変化はなかった。夜も更けベッドに入ったとき、突然その考えは訪れた。  さっき見た男はスパイではないか。  頭の奥にしまわれた数少ないあの路地の記憶を必死で掘り起こした。あの男は常にあそこにいた。驚くべきことに、あの男は風景と完全に同化していた。そこにいることを通行人に感じさせないのである。奇抜に思える服装も、まるでバーの壁と共にずっと風雨にさらされてきたような劣化を帯びていた。  そうとわかると、あの店とあの男は私の意識の最前に陣取り、そこから離れようとしなかった。私はベッドに寝たまま携帯を取り、友人にメッセージを送った。 「駅前に潰れそうなバーあるけど、あれ何なんだろう」  友人からの返信はすぐに届いた。 「あまり危ないところに首を突っ込まない方がいいんじゃないか」  友人は忠告の後、交際女性と過ごす夜の様子を映した写真まで送ってきた。 「お楽しみのところ、悪かったな」  その後返信はなく、私は徐々に眠りに落ちていった。夢にまであの男が出てくることはなかった。ただし、眠りの合間にちらつく夜の寂寥(せきりょう)を、良くも悪くもあの路地界隈(かいわい)についての想念が確かに満たしてくれた。
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