31 対決

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31 対決

 珈涼は父のつてを借りて、虎林組に手紙を送った。  先般、こちらの若頭が麻薬を盛られた件で、そちらは虎林組の作為ではないと主張している。その言葉に変わりがないのであれば、もう一度私を会食にお招きください。  ……ただし今度の場所は、虎林組の屋敷と指定させていただく。そう締めくくった手紙は脅しには違いないが、珈涼が下手に出る必要はなかった。  虎林組からの返事は三日の後にやって来た。雅弥本人から、珈涼に招待状が届いた。  美しい奥方様から申し出をいただき、大変嬉しく思う。もちろんこちらにはお招きする用意がある。若頭も同席しよう。心躍る、特別な夜になりそうだ……。  芝居がかった手紙に月岡が麻薬を盛られたことへの反省はなく、兄の真也は憤慨していた。 「最大限の警戒をして行けよ、珈涼。おそらく前回麻薬を盛ったのは組長本人だ。あいつは猫元のメンツをつぶすのも構っちゃいねぇ」  真也の言葉はもっともで、珈涼もその日に向けて準備を整えた。警備に当たる部下を選び、兄の力を借りて周囲の組の動向を見張った。  けれど日時が一週間後の夕方六時と決まった後、月岡の偽物の命令はぴたりとやんだ。父や兄が訝しむ中、珈涼はそれも雅弥の演出の一つなのだと思った。  急に時間が空いた珈涼は、産婦人科に向かった。かつて月岡に初めて抱かれた翌日に駆けこんで以来、生理不順の珈涼は時々そのクリニックにお世話になってきた。  今回も生理不順の一つかもしれない。そう思いながら、勧められるまま検査を受けた。  院長は診察室に珈涼を入れると、少しためらいがちに口を開いた。 「あなたは妊娠されています。三月にさしかかろうというところです」  珈涼はそれを聞いて、泣き笑いの顔になった。院長はその表情を見て安堵したようだったが、ふいに問いを重ねた。 「よく一緒にいらっしゃるパートナーの方は、このことを知っていますか?」  珈涼は首を横に振る。院長が何か言う前に、珈涼は院長に問いかけた。 「……先生、安心のために一つお聞きしたいです。周囲に知られずに出産できる病院はご存じですか?」  院長はつと息を呑んで珈涼をみつめる。 「珈涼さん……言いにくいことですが、今なら」  珈涼は院長が医者の使命として提案しようとした選択を察して、それにも首を横に振る。 「産んで、育てたいんです。私はもうこの子を愛していますから」  窓の外に、じきにやって来る深い夜が見え始めていた。  院長はそれ以上珈涼を引き留めることはできず、一つの病院を珈涼に紹介してくれた。  虎林との会食が目前に迫った、ある日の夕暮れ時のことだった。  送迎の車から降りて、珈涼は四年ぶりに虎林組の屋敷に足を踏み入れた。  兄の真也は自分も一緒に行くと言ってくれたが、姐はそれを許さなかった。母になろうとする珈涼は、それが姐のメンツだけで収まらない愛情なのだと感じていた。  以前来たときよりますます屋敷はさびれて見えた。庭木は手入れされず、廊下にもほこりがつもっていて、警護に当たる組員さえ老人ばかりだった。  かつて龍守組と双璧を成していた虎林組は、雅弥が襲名し、後継者に瑠璃を指名したときから、落ちるように衰退していったと聞いている。  静寂の廊下をたどり、珈涼は古風なテラスに招かれた。天窓には明治の頃に大邸宅が誇っていたステンドグラスで覆われ、絵画とビロードの絨毯であつらえられた見事な客室だった。 「いらっしゃい、わが家へようこそ」  雅弥は今日も白いスーツ姿で、笑顔で珈涼を出迎えた。珈涼は警戒しながら歩み寄って、ふとその隣の瑠璃に目を留める。 「若頭は座ったままで失礼するよ。体調が思わしくないのでね」  雅弥が言う通り、瑠璃は顔色が悪く、以前より痩せて見えた。けれどそのやつれたさまが凄艶でもあって、珈涼は彼女の変わりように驚いた。  珈涼は使用人に椅子を引いてもらいながら、瑠璃に声をかける。 「体調がお悪いなら、瑠璃さんは休んでいてくださっても」 「そうはいきません。僕は若頭ですから」  凛とした声色は、珈涼の知る瑠璃のものだった。珈涼は気づかわしげに瑠璃を気にしながらも、席について雅弥に向き合う。  双方の部下たちも壁際に控えているが、圧倒的に虎林組の方が少なかった。組員もほとんど老人ばかりで、雅弥たちを警護する力に欠けて見えた。  雅弥は珈涼の視線に気づいたのかあえて無視したのか、朗らかに言う。 「さて、料理を運ばせよう」  虎林組の現状は事前に調べて知っていたことだったが、これから珈涼が始めることを思うと心が痛んだ。  けれど珈涼には覚悟があった。何としてもここで月岡を取り戻すと決めていた。  珈涼は顎を引いて言葉を切り出す。 「雅弥さん。私は会食をしに来たのではありません」 「ふうん、では?」  雅弥はからかうように首を傾けて珈涼を見やる。  珈涼は席を立って、ドレスの隙間から用意した道具を取り出した。 「……今すぐ月岡さんを帰してもらいます」  珈涼は雅弥に拳銃を突きつけて、低く告げた。  珈涼の合図で部下たちも武器を構えて、場は殺気で凍り付いた。  雅弥は珈涼を見返して彼女に問いかける。 「君が撃てる?」  珈涼は雅弥を見据えたままうなずいて答えた。 「あなたの体の、どこでもいいのなら。それに」  眉を上げた雅弥に、珈涼は微動だにしないまま続ける。 「あなたは座っているだけでいい。……さあ、ボスを探しなさい」  後半は背後に控える月岡の部下たちへの言葉だった。  月岡の部下たちと言うが、ここ二か月間、彼らは珈涼の部下同然に動いてくれた。月岡の人徳と人選のおかげで、彼らは実に優秀だった。  制止する虎林組の組員たちに構わず、月岡の部下たちは一斉に屋敷を駆けた。珈涼は最低限の慈悲は持つようにと命じたが、鍵を破壊するくらいは一人でもやってみせた。  十分もしないうちに、彼らは珈涼に朗報を持って帰ってきた。 「ボスをみつけました。拘束を外しましたので、まもなくここへいらっしゃいます」  珈涼は待ち望んだその答えに、震えそうになる体を抑えた。  部下たちはすぐさま雅弥と瑠璃を取り囲んで、珈涼から離してくれる。  珈涼はまだ声を低めたまま、部下に問いかける。 「ボスの意識は? 怪我をされているの?」 「……珈涼さん」  珈涼はその声に時間が止まったような思いがして、ごくんと息を呑む。  部下に支えられながら、月岡が戸口に姿を見せていた。ひどく痩せて、手首には手錠のあざも刻まれているが、自分の足で歩いていた。  珈涼はあふれそうな思いで胸をいっぱいにして、月岡に駆け寄る。 「月岡さん……っ!」  珈涼は思わず抱きつく前に立ち止まって、はらはらしながら月岡の全身を見て言う。 「怪我は、体の具合は? 私のことがわかりますか?」 「一瞬見間違えてしまいました」 「えっ……あ」  月岡はそんな珈涼をふいに腕の中に収める。  彼は珈涼の背をそっと叩いて苦笑してみせた。 「珈涼さんが、あまりに凛々しくなられたから。何て無茶を……と叱りたいところですが、きっとそれだけのことがあったのでしょう。苦労をかけましたね」  珈涼はひととき懐かしい彼の声に、全身の力が抜けそうなほど安心した。  けれど月岡の目はまだ鋭く前を見据えていた。珈涼もまた、月岡のみつめる先に目を向ける。  雅弥は月岡の部下たちに取り囲まれながらも、まだ席について微笑んでいた。傍らの瑠璃は暗い表情のまま、何も言わなかった。  雅弥はふいに顎を上げてくすくすと笑う。 「せっかく来たんだ。ディナーくらい振舞わせてくれよ」  ドンと何かが爆発するような音がして、屋敷中が震えた。  慌てて月岡の部下たちが周囲を確認して、声を上げる。 「ボス、逃げてください! ……厨房から火の手が!」  火薬の匂いと共に、煙が部屋に入り込んできていた。  厨房から上がった火は、まもなく屋敷中に広がった。  ここでも優秀な月岡の部下たちは安全に珈涼たちを誘導してくれて、珈涼はまもなく月岡を支えながら屋敷の外に出た。  混乱の最中、虎林組の組員も龍守組の組員も混じっていたが、月岡は部下たちに、虎林組の組員も逃がすように指示していた。  けれど珈涼は脱出する組員たちの中に、雅弥と瑠璃の姿がないことに気づいた。テラスを出るときも、二人は椅子に座ったままだったのを思い出す。  瑠璃さんはお腹に赤ちゃんもいるのに。珈涼はふいに心を衝かれて、月岡の腕を振りほどいていた。 「月岡さんをお願いします」 「……珈涼さん!」  背後に月岡の制止の声を聞きながら、珈涼は屋敷の中に走った。  歴史のある建物が火の粉にまみれて燃えていた。珈涼は庭から上がって、脱出経路を確保しながら瑠璃を探す。  瑠璃は四年前、珈涼を誘拐した座敷で座って目を閉じていた。珈涼はそんな瑠璃に駆け寄って叫ぶ。 「瑠璃さん! 逃げましょう!」  瑠璃は目を開いて、信じられないものにするように珈涼を見上げた。  けれど彼女はすぐに哀しい微笑みを浮かべて立ち上がる。 「いいんです。僕はもうこの世界から帰れない。……お気持ちだけいただいて、行きます」  そのとき、瑠璃の上の柱が折れて落ちようとしていた。珈涼は瑠璃を引き寄せようと手を伸ばす。 「こっちに……あっ!」  瑠璃は柱に気づいていながら、瑠璃の方から強く珈涼を押しやる。  珈涼は縁側に押し出されて、瑠璃と珈涼の間は火の柱で閉ざされた。  なお手を伸ばしかけた珈涼を、強く引き寄せた腕があった。 「珈涼さん! いけません!」  追いついて来た月岡は、珈涼に自らを盾にして告げる。 「あなたが戻らなければ後を追いますよ。それでもいいなら、もう一度私を振り払ってください」  月岡にそう言われて、珈涼はようやく彼の腕の中に戻った。  二人で縁側から屋敷の外に出て、部下たちに取り囲まれる。  炎に巻かれる虎林の屋敷は、吠える声も失った老虎のように、朽ち果てていった。  屋敷の中から人の気配が消えた後、瑠璃はテラスに戻ってきた。  瑠璃は雅弥に笑いかけて言う。 「ありがとう。兄さんは全部叶えてくれた。……最後に私を殺すところまで」  炎の中で、雅弥と瑠璃はまるで食事中のように向かいの席につく。  雅弥は答えがわかっているとばかりに、苦笑して問いかけた。 「兄さんは瑠璃の満足のいく舞台を上演できたかな?」  瑠璃は頬杖をついて、首を横に振る。 「兄さんの言った通りだ。最初から上手くいくはずがない舞台だったんだ」  瑠璃は戻らない過去をみつめるように虚空を眺めて言う。 「月岡は私を気にも留めなかったよ。麻薬で地に伏しても、その後にここで甲斐甲斐しく看病しても、月岡が私に言ったのは、「珈涼さんに手を出すな」だけだった」  瑠璃は苦笑して目を伏せる。 「私も……初恋の珈涼さんだけには、最後までいい顔をしてしまった。ほんとうに、私こそ道化だ」 「瑠璃は自分のことだけわからないんだなぁ。瑠璃はこの世で一番綺麗な子だよ」  雅弥は手を伸ばして、瑠璃の前髪をかきあげてささやく。 「野心家で、清らかで、儚くて、強くて。……だからあの男が瑠璃にしたことを、許せなかったんだ」  瑠璃は感情を消した目でそれを聞いていた。雅弥は初めて笑顔ばかりだった顔に憎悪を浮かべた。 「私たちの父と言われていた男。でもけだものと呼ぶのが正しい」  雅弥は底をつくような声でうなるように言う。 「……瑠璃を踏みにじった。あんな男は、俺が地獄でも苦しませてやるよ」  瑠璃は目を伏せて、どこか安心したようにつぶやいた。 「知ってたんだ。ずっと隠してたつもりだったのに」 「そりゃあね。……おいで」  雅弥は瑠璃に向かって腕を差し伸べる。その腕の中に収まって、瑠璃は幸せそうに言った。 「あの男が命より大切にしていた組も、兄さんが滅ぼしてくれたんだ。ありがとう、兄さんは私に何でもしてくれるんだなぁ……」 「うん。私は瑠璃より大切なものはこの世にないからね」  雅弥は瑠璃の背をさすって、優しく瑠璃を見下ろした。 「私は成りすましの偽物だけど」 「そんなことはもうどうでもいいよ」  瑠璃は首を横に振って返す。 「兄さんは、私と血がつながった父や兄なんかより、ずっとずっと私を愛してくれた。兄さんと終われるなら、もう」 「実はもう一つ、お前にプレゼントがある」  ふいに雅弥は腕を緩めて瑠璃を見た。瑠璃は首を傾げて雅弥を見上げる。  雅弥はひざまずいて瑠璃の手を取ると、足でテラスの床を踏み抜いた。そこに、地下に通じる道が続いていた。  驚く瑠璃に、雅弥はにやっと悪戯っぽく笑いかける。 「お前が私の子を宿してくれたことへのプレゼント。受け取ってみないか?」  雅弥はからかうようで、目は真剣に瑠璃を見上げていた。 「もう表の世界には戻れないけど、地の底でだって家族は作れる。私を信じて、一緒においで」  瑠璃はその愛の言葉を聞いて、少しの間震えていた。  やがて瑠璃は屈みこんで雅弥の首筋に顔を埋めると、深い安堵のため息をつく。 「……うん、いいよ。連れてって、雅弥」  そうして、表の世界から一組の兄妹が姿を消した。
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