君と歩くノンフィクション

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 映画館はいい。  一人でボーッとしていても誰にも気にされないし、感動的な内容の映画だったら男が泣いていても不自然じゃない。  ──というわけで、俺は三本の映画を立て続けに観ながら、欝々と考え込んだり、みっともなく泣いたりしていた。  憂鬱の原因は、実にくだらないことだ。  今朝、同棲している恋人を怒らせてしまった。──まぁ、端的に言えばそうなる。  俺の恋人──篤史(あつし)は、男で、おそらくは植物系の、よく分からない研究をしている。男同士で付き合っているっていうだけでもそれなりに弊害があるが、俺はしがないサラリーマンで相手は不規則な生活の研究者っていうライフスタイルの差が結構しんどい。  学生の頃から付き合っていて、それなりの年月を共に過ごしていることもあってか、青くさい感情やら甘い雰囲気やらもいつしか置き去りになって、同棲というよりも同居という現状だ。それも、顔を合わせる機会がある日の方が圧倒的に少ないという、すれ違い生活。  いつも研究第一の篤史は割と無表情のことが多いし、喜怒哀楽も分かりにくい。そんな彼が、昨日は珍しく嬉しそうに早めの時間に帰宅し、得意気な顔で何かの鉢植えを持ち帰った。  よく分からないけど、なんだか俺まで嬉しくなって、今朝起きてから、窓辺に置かれていた鉢植えに水をあげた。──それが、篤史の逆鱗に触れてしまった。  俺は、篤史とひとつの約束をしていた。  それは、彼の研究に関わるものには一切手を出さないこと。俺にはよく分からないけど、篤史にとっては大切なものだと理解していたから、リビングにどんな書類や資料が放置されていても絶対に触らなかったし、彼の部屋を掃除するときも何も置かれていない場所にしか手を出さなかった。  でも、その鉢植えが大事な研究に関わるものだとは、思わなかったんだ。観賞用として買ってきてくれたのかな、だから得意そうにしていたのかなって、そう思ってしまった。  ──篤史がそんなことをするような男じゃないって、少し考えれば分かることなのにな。久しぶりに彼の顔を見ることが出来て、俺はきっと浮かれていて、判断力が鈍っていたんだ。 『俺の研究のモノは触らないって約束だっただろ!?』 『勝手に水をやるなんて……! 研究結果に狂いが出ちまう!』  篤史は今までに無いくらい烈火の如く怒り狂って、俺はひたすら謝った。取り返しのつかないことをしてしまったという自覚はあったし、本当に申し訳ないと思った。  ──でも、 『せっかく、ちゃんと喜ばせてあげられると思っていたのに……!』  その言葉を聞いて、俺は「あーあ」と投げやりな気持ちになってしまった。  篤史が「喜ばせてあげたい」と思っている相手に、心当たりがあったから。  ──もう何ヶ月も前の話になる。  篤史の論文が何かで表彰されたとかで、やたら豪勢な花束を贈呈されたらしいことがあった。でも、篤史は花束を持ち帰らなかった。だから、俺はその花束をどうしたのかと尋ねた。大した意味も無い、何気ない質問だった。  それに対し、彼は「早川さんにあげた」と笑って答えた。早川さんは、俺たちの大学の同期生で、篤史と共に大学院へ進学し、卒業後は同じ研究所に勤めている才女だ。俺は彼らとは全然違う学部に在籍していたのだが、彼女のことはそれなりに知っている。嫌味の無いサバサバとした美人だ。  なんとなく、……本当になんとなく、モヤッとした気分になった。そして、本当に本当になんとなく、どうして早川さんに花束をあげたのかと訊いてみた。そうしたら、篤史はこう答えたんだ。 『早川さんには花が似合うし、あげたら喜んでくれると思ったから』 『実際に、すごく喜んでくれたし。俺も嬉しくなったよ』 『うちに持ち帰ってすぐ枯らしちゃうよりはいいだろ?』  喜ばせてあげたい、なんて。  それで喜んでもらえて嬉しい、なんて。  それは別に、普通の感情かもしれないけど。でも、なんだか、面白くないなと思った。そう思ってしまう自分のことを、嫌な奴だなとも感じた。  そもそも、篤史は基本的に他人に無関心だ。  俺のことだって、たぶん今は大して興味は無いと思う。なんとなく一緒にいる日々が続いているというか、そういう感じなんじゃないだろうか。  研究が第一で、それ以外は割とどうでもいいような男が、わざわざ彼女を喜ばせてあげたいと考えるだなんて。──それって、それこそ恋なんじゃないのかな、って。あれ以来、俺はずっとモヤモヤしている。  ねちっこく悶々としているところに、今朝の一件だ。  自分勝手に傷ついた俺は家を飛び出して、日曜日の映画館に入り浸っているというわけだ。  篤史は冷めた人間に見られがちだけど、そういうわけでもない。分かりにくいだけで、優しいところもある。  そう、それなりに情が深い人間だから、……だから、俺を切り捨てられないのかもしれない。本当は早川さんに惹かれているのに、惰性でズルズルと付き合い続けている俺がいるから、素直にそうなれないのかもしれない。  篤史が喜ばせたい人間は、俺じゃない。──早川さんだ。  そんなことをあれこれとグルグル考え込んで、家族連れとカップルばかりの映画館にひとりぼっちで引き籠もって、ぐずぐずと泣いている今の俺は、たぶん日本一どころか世界一、下手したら宇宙一かっこわるい。  女子じゃあるまいし、フラれそうになっているくらいで泣いているだなんて、いい年した男が情けなさすぎる。──情けないけど、仕方がない。自我を見失って泣き兎になってしまうくらい、俺は篤史を愛している。  三回観たのにちっとも内容が頭に入ってこない約二時間半の映画が、エンドロールに入った。──そろそろ、帰るか。  篤史の気持ちも多少は落ち着いただろうし、俺だって明日からまた仕事の日々だ。篤史はまだ家にいるだろうか。それとも、研究所に行っただろうか。分からないけど、とりあえず二人分の夕飯の材料を買って帰ろう。足りないより、余るほうがマシだ。  ……夕飯をどうするのか連絡すればいいんだろうけど、そんな気分になれない。なんとなく。  地元のショッピングモール内の映画館を出て、夕暮れの遊歩道を歩く。どこもかしこも幸せそうに連れ立って歩いている人たちばかりで、憂鬱な気分に拍車がかかる。  人通りが少ない場所に出ると、少し呼吸が楽になった気がした。いつも買い物をしている商店街へ向かってダラダラしたペースで歩いていると──、 「桜耶(さくや)!」  後ろからでっかい声で名前を呼ばれて、思わず跳ね上がる。振り向くと、まさかの篤史が俺へ向かって走ってきていた。おお、あいつ、意外と足が速い。というか、妙に顔色が悪い。夕焼けに染められた赤い景色の中でもハッキリ分かるほど、青い顔をしている。  何かあったのか? あ、もしかして、俺が水をあげた鉢植えが更にまずい状況になったとか? 「篤史、あの鉢植え、」 「お前、どこに行ってたんだよ! 連絡も取れなくて……、心配しただろ!?」 「えっ?」  てっきり鉢植えのことを責められると思いきや、俺の両二の腕を鷲掴みする篤史は予想外のことを言い出した。 「電話もメールも何十回したと思ってるんだよ。それなのに、お前、無反応で……」  そういえば、映画館に入ってから今に至るまで、スマホの電源を切りっぱなしだ。映画館を出た時も、ボーッとしてたから、スマホには一切触っていない。 「あー……、電源切ってた。ごめん。何か用事あった?」 「いや、用事とか、そういう問題じゃなくて……」 「鉢植えのことは、本当に悪かったと思ってるよ。もう、篤史の邪魔はしないから」 「桜耶?」 「もう、これ以上は邪魔しないから、だから、」  だから、これ以上は嫌いにならないでほしい。  だから、別れたいとか言い出さないでほしい。  だから、他の人を好きにならないでほしい。  映画だったら、そうやって素直な気持ちを泣き叫べるのかもしれない。剥き出しの感情をぶつけあって、ハッピーエンドを迎えられるのかもしれない。  でも、俺がいるのはノンフィクションの世界だ。人目だとか、自分の立場とか、変な意地とか、なけなしのプライドとか、そういったものが邪魔をして、どうにもならずに立ち尽くすしかない。  泣き出すことも、駄々をこねることも出来ず、曖昧な表情で黙る俺を見て、篤史はどう感じたんだろう。俺をじっと見つめた篤史は、静かに口を開いた。 「……俺の方こそ、悪かった。自分勝手なことを言い過ぎた。この鉢植えは大事なものだから触らないでくれって、事前にちゃんと具体的に言っていなかった俺にも落ち度がある」 「いや、それは……、」 「ようやく自宅で実験できる段階まできて浮かれてたから、そういうことが意識から抜け落ちていたんだ。……家を出て行くときのお前、すごく傷ついた顔をしてた。俺も頭が冷えてきてから最低なことしたって思って、それですぐ連絡したけど反応無いし、お前に何かあったんじゃないかって……」  篤史なりに反省して、心配して、探してくれていたわけだ。優しい。……そう、篤史は優しい。だから、俺のことを見捨てられない。  嬉しい気持ち、半分。その他、素直に喜べない雑多な感情が合わせて半分。複雑な心境の俺の目元に、篤史の指先が遠慮がちに触れてくる。 「桜耶、泣いてた?」 「……別に、なんてことない」 「嘘だな。お前、クールぶってるけど泣き虫だから。……ごめん」 「篤史のせいじゃない。映画を観て泣いてただけ」  手を振り払って歩き出すと、篤史も隣を歩いて付いてきた。 「……あの苗木さ、家庭で鉢植えでも育てやすいようにって俺が品種改良の研究を続けてきてる桜なんだけど、やっと研究室以外の場所で経過観察できる段階になったんだ。それで昨日、個人宅での観察用にってことで持ち帰った」 「……そっか。悪かったな」 「いや、それはもういい。……ただ、あれが一番育ちが良さそうなやつだったから。他のやつは、ちゃんと花が咲くようになるまでまだ時間が掛かりそうだし。喜んでもらえるのが先送りになっちゃいそうで、それが残念」  いつになく饒舌な篤史に対し、俺の気分は下降する一方だ。胸の中を、ざらりとした感情が這い回っている。  とうとう堪えきれず、俺は醜い感情の欠片を吐き出してしまった。 「篤史がそこまでして喜ばせたいのって、早川さん?」  思わず立ち止まった俺につられて足を止めた篤史は、本気で驚いたように目を見開いて凝視してくる。  どうして分かった? って訊きたいのだろうか。分かっているなら別れてほしい、なんて言われたらどうしよう。……いや、どうしようもないだろ。別れるしかない。一方通行な気持ちのまま付き合うなんて、出来ない。  密かにそんな悲壮な決意をしている俺に対し、篤史は首を傾げた。 「なんで、そこで早川さんの名前が出るんだ?」 「……だって、篤史は早川さんを、……喜ばせたいって、前にも花束をあげてただろ」 「はぁ? ……ああ、そんなこともあったな。だって、花瓶も無い俺たちの家に持ち帰ったって、仕方ないだろう。あんなどうでもいい花束と俺の研究を一緒にするなよ」 「……えっ?」 「俺の研究は、お前のためだよ。当たり前だろう」  ──は?  ちょっと待ってくれ。思考がついていかない。 「桜耶は、桜が好きだって言ってたじゃないか。自分の名前に花の名前が入ってるのって女の子みたいで少し恥ずかしいけど、桜は日本が世界に誇れるようなかっこいい花だから好きだ、って」  ああ、うん。そんなことを言ったような気がしなくもないけど、──それってどんだけ前の話だよ。たぶん、大学に入ったばかりの、篤史と出逢ったばかりの頃だぞ。  なんで、そんな話を覚えてるんだよ。 「かわいいな、って思ったんだ。それで、俺の研究テーマは桜にしようって決めた」 「は、はぁ……」 「俺が手掛けた品種改良の桜が完成したら、桜耶の名前を付けるって決めている。早く桜耶に『桜耶』が咲いているのを見せたくて、何年も前からうずうずしてた。……だからって、その桜耶本人を傷つけていたら、何にもならない。今朝のことは、本当にごめん」  どうしよう。──どうしよう、顔がにやけてしまいそうだ。  さっきまでは苦しくて上手く言葉が出て来なかったのに、今度は嬉しくて言葉にならない。単純だなぁ、俺。  でも、人からの貰い物の花束と、一から作り上げている新種の花。どちらに籠められている想いが強いかなんて、一目瞭然の結果だろう。 「篤史」 「ん?」 「その『桜耶』がちゃんと咲くまでは、俺がお前の隣にいてもいいってこと?」 「いや、そんな期限を決められても困る。いつまでとかじゃなく、いつまでも隣にいてもらわないと」 「……うん、そっか」  いい年をした男同士、好きだの愛しているだの、そうそう口に出したりはしない。でも、今の言葉だけで、十分だ。明確な単語が無くても、彼の気持ちは十分すぎるほど伝わってきたのだから。 「そういえば、桜耶は何の映画を観ていたんだ? 面白かった?」 「んー、大した内容じゃなかったかな。所詮は他人が演じているフィクションだよ」 「そっか」  そんな絵空事よりも、篤史と一緒に歩いているノンフィクションの方が、ずっと胸を熱くさせる。  そう思いながら、俺は「今夜は何食べたい?」と浮かれた声で尋ねるのだった。
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