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 婚約者が死んだとき、人はどのような反応をするだろうか。  最初は信じられなくて呆然としたりして、それから泣いたり喚いたりして、絶望の果てに自殺を考えたりするかもしれない。『婚約者の死』とはつまり、『夢見ていた幸せな未来は二度と手に入らない』ということを示すのだから絶望して然るべきだ。それが普通というものだろう。  過去の経験もあってか俺はそう思っていた。だから清山紗香が電話を終えて「春日が死んだ」と呟いた瞬間、驚きながらも脊髄反射で気の毒そうな顔を作っていた。  来年の六月に春日辰巳と結婚をすることになったと清山紗香から聞いたのは九月の半ば、つい一週間前のことだった。 「誰かに殺されたんだってさ。ヤクザってのも大変な商売だね、まったく」  最初の呟きから続いた彼女の言葉は予想に反して非常に軽いものだった。俺の困惑を煽るようにバー『ヤネウラ』の店内では軽快なBGMが流れている。  冗談だとすれば意図がわからないし、冗談でないとすればその態度が腑に落ちない。だからお悔やみの言葉よりも先に疑問を口にしていた。 「亡くなったって、本当に?」 「倉庫街で刺されて死んだってさ。ドライバーみたいなので背中を十か所ぐらい。どうしても殺したかったって感じだね」  俺はカウンターの内側で作業の手を止めて彼女を見つめた。咄嗟に繕った『気の毒そうな顔』は既に『怪訝そうな顔』へと変貌している。  婚約者の悲報に接した直後だが、彼女は座ったまま立ち上がろうとする素振りを見せない。まったくいつもと同じ様子の彼女を前にすると、質の悪い冗談のように思えた。  その後も彼女は、いつものようにグラスになみなみと注がれたハイボールを五分とかからずに飲み干して、いつものように二杯目を注文し、いつものようにしっかりと煙草の煙を肺に巡らしながらスポーツ新聞の競馬欄を睨みつけていた。  訃報が事実ならば彼女にとって婚約者の死は明日のレース以下の情報だったということになる。わけがわからない。 「まだここにいていいのか? そろそろ行った方がいい」 「どこに?」 「どこって、春日さんのとこ」 「死んだ人に用事とかないし。生きている時もなかったけど」
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