大福漢方薬局

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「じゃあ、そろそろ行こうか」 「はい」  春休みの初日、約束した時間通りに平順が迎えに来た。ずっと暮らした寮とも今日でお別れだ。石橋さんをはじめ、スタッフや仲間たちが総出で見送ってくれた。柄にもなく鼻の奥がツンとした。皆にもう一度挨拶をして、俺は養護施設の門を出た。 「日本語、お上手ですね」  平順はぷっと吹き出した。 「そりゃあ。僕は日本で育ったから。お母さんと僕の父親が友達同士でね。日本に来て間もない頃、同郷会で知り合ったそうだ」 「同郷会って何ですか?」 「同じ郷里の出身者同士が力を合わせようっていう親睦会だよ。集まって食事をしたり映画を見たり。ゴルフコンペとかもある。異国の地で老華僑は苦労したから。情報交換の場が必要だったんだね。業種ごと、姓名ごと、仕事中心のオフィシャルなものから趣味の集まりみたいなプライベートな会まで、色々な会があるんだよ。華僑って分るかい?」 「中華街の人とか? 施設の遠足で行ったことがあります」  中華街は、朱に塗られたでっかい門とかゴテゴテ彫刻で飾られた寺があったりして、外国みたいだった。 「そうそう」  平順は微笑みながら頷いた。 「母とは、あの、ええと、仲がよかったのですか」 「小さい頃、同郷会で顔を合わせたことがあるよ。父と一緒に映画を見た時だったかな」  平順も母のことはよく知らないらしい。話はそれきりだった。  会ったこともない母親の死を悼む気持ちよりも、自分のルーツを知った喜びのほうが大きかった。今凝っているのは三国志をベースにした対戦型のバトルゲームで、お気に入りのキャラは趙雲子龍だ。諸葛亮孔明も格好いい。孔明はバトルには向かないけどな。あの英雄たちと同じ大陸の血が、少なくとも半分は流れているのだ。母親は貂蝉みたいな絶世の美女だったりして。なんだか格好いいぞ、俺。 「君の養子縁組が成立していたら会えなかったね。運がよかった」  並んで歩いていると平順が急に立ち止まった。 「左の足、痛むのかい?」  息が止まりそうになった。  乳幼児は受け入れ先の家庭がスムーズに決まる。養父母が少しでも早い時期に手元に引き取って我が子として育てたいと願うのは人情だ。施設で育つよりも養い親のいる家庭で育ったほうが情操教育にもいいから、職員も積極的に受け入れ先を探す。無垢の赤ん坊は受け入れる側の条件として最高なのだ。但し、健康ならば、という条件がつく。  股関節の形成不全があって子供の頃はひどい跛を引いていた。跛というのは差別用語らしいが、跛の本人が使う分には構わないだろう? 腰全体を覆うような大げさなコルセットをつけて、肩をゆするようにして歩く俺は〝障碍〟がひどく目立った。  一人、二人と受け入れ先の家庭が決まる中で、俺のように瑕疵のある子供は行き先がなかなか決まらない。何らかの障碍があると分かって育児を放棄する親も少なからずいる。結果、児童養護施設は一般的な学校よりも身体や心に障碍のある児童の割合が高くなる。それが現実なのだ。  ちびの頃はナイーブだったから、何度も交流会に出席するのが耐えられなかった。ずっとここにいたい、と涙ながらに訴えて規定年齢ぎりぎりまで施設にいることになったのだ。  形成手術もリハビリもとっくに終了して普通に歩いていると思うのだが、油断すると昔の歩き方の癖が出るらしい。 「ずっと座っていてちょっと痺れただけです。なんでもありません! 大丈夫です!」  折角のチャンスを逃してたまるか。急きこんでいうと、  「そんな顔しなくてもいいよ。寮長から話は聞いている。ほれ、乗って」  平順が言った。平順の車は濃紺のハイブリッドのレクサスだった。いかにもオヤジが好きそうな渋いセダンだ。 「前に座ったら?」  ゆったりとした革張りのシートに腰掛けて、触りたくなるのを堪えながら飛行機のコックピットのような液晶画面が並んだフロントパネルに熱い視線を送っていると、 「大学生になったら免許も取らないとな。最近の車はコンピューターだらけで訳がわからんよ。この車にも色々ついているみたいだから、圭佑君が研究して僕に教えてくれ」  そう言って平順がにこり、とした。  車はみなとみらいのビル群を抜け、山手の閑静な住宅街に入っていった。ハイブリットのレクサスは加速時にシュオンっと微かな音がして、地面に吸い付くように走る。エンジン音や振動が車内はほとんど響かない。空調もいいらしく車独特の鼻につく臭いもない。お金があるっていいことだ、としみじみ思った。  
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