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プロローグ
時は二十一世紀になって二十数年経った頃。
空を飛ぶ車も、心を映し出すモニターもまだ開発されていないが、それでも遠くの人と話せる機械や、歩きながら音楽を聴ける端末が生み出された近代日本。
ノストラダムスの予言もはずれ、地球は今日も自転しながら公転し、日々テクノロジーは進化している。
そう、そのはずなのに。
目の前には馬の尻。
合戦ござれの戦国時代ならまだしも、現代日本でこんな近くに馬をお目にかかれるのは動物園ぐらいだろうか。
砂利の上でしっぽを振っている馬を横目で見ながら、藤川春奈はこんな状況になった自分の運命を嘆いた。
春奈は大きなタライに水を張り、砂利道に座りこみじゃぶじゃぶと洗濯をしている。
洗濯機なんてあるわけもなく、無論手洗いだ。
洗っているのがハンカチなら良い。しかし現実はああ無情。誰の物かも分からない、おそらくはいかつい武士のおじさんたちの履いていた、股間に一日中付けている布、そう、フンドシだ。
何が悲しくてこんな大量のフンドシを洗わねばならないのか。ああ、ばっちい。
太陽がさんさんと降り注ぐ昼下がり。春奈のむなしい気持ちを察したのか、目の前の馬がひひん、と鳴いた。
固く絞ったフンドシを目の前の物干し竿に一つ一つ丁寧に干していく。
うっすらと額には汗が浮かび、主婦顔負けな完璧な家事姿。
なのに、いたずらな風。
爽やかな風は今まさに干していたフンドシを青空高く飛ばしてしまった。
ああめんどくさい。見なかった振りもできるが、そしたら誰か一人がノーパンならぬノーフンドシでこれからずっと過ごす羽目になってしまう。
拙者のフンドシが一枚足りないでござる。ああなんという武士の恥。切腹いたす。御免。
とされたら困るので、春奈はしぶしぶ立ち上がった。
一反木綿のようにひらひらと飛んで行くのを追いかけ、木の枝に引っかかったのをやっとその手に掴んだ。
安堵した束の間、
「――そこの御仁、危ない!」
という声がかかり、顔を上げた刹那。
ひゅん、と目にもとまらぬ速度で、矢が飛んできた。
十メートルほど先には兜をかぶり甲冑を着こみ、帯刀をし、馬に乗った侍が弓を構えていた。
春奈の背後には、黒と白の丸い的。放たれた矢は的の中心に刺さっており、お見事! と言いたいところだが、もう数センチずれていたら完璧に額を射ぬかれていたことだろう。
頭の上のリンゴを射抜くウィリアム・テル状態。風圧で頬が切れ、たらりと赤い血が垂れた。
見る見るうちに血の気が引き顔が土気色になる。瞼の裏ではさっきの矢の軌跡の残像が映り、心に一生消えないトラウマを負ってしまっただろう。
騒ぎを聞きつけ周りの者が集まってきた。みな、腰には刀、袴に陣羽織。
上等な髭を生やしたものもいれば、ちょんまげ姿の者もいる。
「師匠、御無事ですか!」
そう言ってはるか遠くから、ものすごい速さで駆けてくる金髪の侍が一人。目鼻立ちのはっきりした堀の深い顔を悲しげに歪めて、心配そうにしている。
その後ろからは、黒髪を一つに束ねた、精悍な青年がじっと見つめてきていた。
声は聞こえなかったが、呟いた唇の形は完璧に「間抜け」と言っていた。
意識が飛んでいく瞬間、春奈は強く思った。
――なんで令和の時代に、侍が当たり前のようにいるのよ!
片手にフンドシを握りしめたまま膝から崩れ落ちる。
春奈は自分の運命を悔やんだ。
順風満帆な人生を送ると思っていた自分が、どうしてこんなことになったのか、と。
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