level.1

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 イベントが終わるより先に本が無事完売し、それ以外の荷物は作者宛に宅配便で送る段取りをして、桐谷は手ぶらで会場を後にした。  本が完売したことを作者本人に業務連絡し、売上から約束のバイト代である三万円を抜き、昼飯を少し奮発するかと桐谷は駅へ向かって歩く。  都心から遠く離れた辺鄙な場所にある会場から電車を乗り継ぎ都心部まで出ると、日曜の駅前は相変わらず人で賑わっていた。  だが、普段の日曜とは比べ物にならない異様な人の溢れ具合に桐谷は怪訝な顔であたりを見渡す。人混みは若年層を中心としたほとんどが男性で、彼らはある一定の方向を見ながらこれから起こるであろう何かを今か今かと待っているようだった。 「ゲリラライブだって!」と、桐谷の隣をスマホを片手に若者たちが追い越してゆく。 「──ゲリラライブ?」  桐谷はしまったと思ったが、時すでに遅し。騒ぎが騒ぎを呼び、桐谷の周りはすでに人だかりの塊と化していた。抜け出そうにも大勢が前に進もうとしてる中、桐谷一人だけが逆流するにはかなりの無理があった。  桐谷の背後で突然大音量の音楽が流れだし、周りは一気に歓声に包まれる。 「うるせっ……」桐谷は片耳を手で抑え、肩をすくめながら必死に人混みから抜けようと進み続ける。 「皆さーんっ、こんにちはー!! LOVE(ラブ)6(sicks)でーす!」  大型のステージトラックの扉が開き、中から6人組の女性アイドルたちがマイク越しに声を上げた。人々の歓声はさらに膨れ上がり、一気にその場の温度すら上がったように感じた。  それは芸能界に疎い桐谷がとある理由から唯一知っていたアイドルグループで、国民的アイドルと呼ぶにはまだまだではあるものの、グループ名はそれなりに世間に浸透しており、最近ではCMやドラマなどにもよく起用されている。  桐谷は少しずつではあったが、人混みから次第に抜け出すことができ、勢いをつけて最後に残った肩を前に出したその瞬間、人の身体が桐谷の前に突然遮断機のように降りてきた。 「うわっ!」と桐谷は驚きながらも反射的に両腕を出し、その身体をどうにかキャッチすることが出来たが、ほとんど意識がないのか思った以上に相手の体重が重く腕にのし掛かり、桐谷はそのまま膝を崩し、ギリギリ尻もちはつかない一歩手前でどうにか踏みとどまった。  腕の中に落ちてきたのは、空から降ってきた来た可愛いおさげの女の子でもなんでもなく、ただの地味な男だった──。内心ガッカリした桐谷ではあったが、腕の中で青い顔をした男を見捨てるわけにいかなくて、肩に担ぎ直し、引き摺りながらようやく人混みから脱出することが出来た。  歩道にあるガードパイプに意識朦朧な男をもたれさせ、何度か肩を揺らしながら声をかけると男はうっすらと目を開けた。  そこで桐谷は相手の正体にようやく気付く。 「──(みね)?」  峯と呼ばれた男は桐谷と同じ大学の学部に通う同級生だった。同じグループでも何でもないが、講義が幾つかかぶっていて、辛うじてその苗字だけは知っていた。 「……きり、や……」  どうやらそれは向こうも同じだったようで、今日初めて口をきいた二人ではあったが、お互い名前だけは知っていたようだ。  峯は一切染めていないであろう真っ黒い癖毛をさらに際立たせるような、日光に当たったら死ぬんじゃないかというくらいに青白い肌をしていた。  その肌の色に殆ど桐谷の偏見ではあったが、普段の休日の過ごし方が伺えた。大学で見かける服装とほぼ変わらない、まさに特徴のない大手衣料量販店で揃うようなごく平凡な普段着姿に峯の関心の比率が見える。 「お前大丈夫か? どっか病気?」 「──うぅん……ちょっと、人酔い、して……」 ──嗚呼、やっぱり。と桐谷は己の偏見に納得する。 「水買ってこようか?」 「大丈夫……カバンに、入ってる……」と峯はよろよろしながらバックパックの中からペットボトルの水を出した。その時うちわらしきものが中に見え、「うちわ? 丁度いいじゃん、扇いでやるよ」と手を伸ばした桐谷に峯は明らかに動揺したが、意識がぼんやりしていたせいで、反応があまりにも遅すぎて、そのうちわは既に桐谷の手によってバッグから出された後だった。 「──"ゆりあ推し"……」 「あああっ、それはっそのっ……」  黒地のうちわにピンクの蛍光カラーで貼り付けられたその言葉を桐谷は素直に口にして読んだ。峯は動揺のあまり水を落としそうになっている。 「お前もLOVE6(あのアイドル)見に来てたうちの一人だったのか」 「……うん」  もう逃れることのない事実を前に、峯は何とも言えない渋い表情で素直に自白した。 「ゆりあ……って、白野(しろの)柚莉愛(ゆりあ)?」 「えっ、桐谷、柚莉愛ちゃんがわかるんだ?」  顔色が悪い癖に峯は少し表情を明るくして、妙に嬉しそうに反応してみせた。 「──まぁ、あの真ん中の巨乳だろ?」 「きょっ……、そ、そうだけど……でもっ、それだけじゃなくて、柚莉愛ちゃんは歌もダンスも上手いし、それに何よりすごく可愛い!」 「……お前女の見る目ねぇな」  その言葉に峯は明らかに傷付き、腹を立てた様子だったが、自分が好きで心から応援しているアイドルを否定されれば当然の反応だろう。  余計なことを言ってしまったと、桐谷はやや後悔したが、すでに口から出たものを今更取り消すことはできない。居た堪れない空気から脱するべく、ここは早々に立ち去るしかないと桐谷は腰を上げた。 「──悪い。人の趣味に口出すことじゃなかったな。ここからでも歌は聴こえるし、ギリ見えんだろ。そんな身体で無理してまた中に戻ったりするなよ、じゃあな」 「桐谷!」  さっさといなくなろうとする桐谷を峯が呼び止め、少しだけ間を開けて桐谷は振り返った。 「ありがとう。助けてくれて」 「──いや。お大事にな」  こんな無礼な男相手に、それでも素直に礼が言える峯に感心しながら桐谷は再び歩き出した。
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