92人が本棚に入れています
本棚に追加
/42ページ
42 ๔๒ 桟橋
西陽が容赦なく健一を貫いた。
ワット・ラカンはいつもよりひと気が少ないように感じられる。間もなく午後三時になるとは言え、本堂に人が誰もいないのは珍しいことだった。
腰の曲がった老婆が軒先に幾つも下げられた小さな鐘を一つ一つ鳴らしながら祈りを捧げている、その不規則な音色が境内に鳴り響いていた。
お供え物を並べたテーブルの奥に顔見知りの尼僧が腰かけていた。健一は彼女にプラ・ルアンポーチャイ僧の居場所を尋ねたが、微笑むだけで何の答えも返って来なかった。すれ違った他の老僧にも尋ねてみたが、その老僧も首を横に振り、来た方向へと戻って行った。
健一はワット・ラカンの敷地を出て、隣接した小さな公園へと足を伸ばした。頭上に青々と茂る木々が束の間、太陽を遮ってくれる。そこはいつかプラ・ルアンポーチャイ僧と初めて出逢った場所。タイ建国の父、ラーマ一世生家を再現した高床式住居の前まで来たその時、建物の中から人影が現れた。
それはチャムロン・レイモンド・ワチャラポン――。この猛暑の中、黒いスーツを着て汗一つかいていない。チャムロンは階段の上から健一を見下ろしていた。
「お前、随分と顔つきが変わったな」
健一は黙って睨み返した。
「今日は木曜日だから、お前はきっとワット・チャイモンコンに来るものと思っていた」
「嘘だ。俺が生きて帰ってくるとは思っていなかったんだろう」
チャムロンは不敵な微笑みを浮かべた。それはタイ人の微笑みではない、氷のような微笑だった。健一は続けた。
「知ってたんだろ、あんたは――。あの村は用なしだ。しかもガウモンコンにとっては闇に葬らなければならない秘密がある。だからチェンライ警察を使って襲撃させたんだろう。俺達があそこで何を見ようが、何を知ろうが、殺してしまえば関係ない、そう思ったんじゃないのか?」
チャムロンは答えずに階段の上に腰かけた。
「お前、あそこで何を見た?」
健一はチャムロンから視線を逸らさなかった。
「写真だ。あんたによく似た男の写真――。でも、あれはあんたじゃない。あれはあんたの父親、セーニー・ワチャラポンだ」
「ああ、その通りだ。けれどそれだけか? 父の隣の男には気付かなかったのか?」
隣の男? セーニー・ワチャラポンと肩を組んで笑顔を見せていた同じ中国系の若い男。あれはいったい――。
チャムロンは不敵に微笑んだ。「ソンチャイだ。若き日のソンチャイ・プックガパン首相――」
健一は目を剥いた。ソンチャイだと? この『麻薬撲滅戦争政策』という名の大虐殺劇の首謀者であるソンチャイ首相とセーニー・ワチャラポンが、かつて仲間だったと言うのか。まさか、その二人がガウモンコン帝国を作ったのか?
「お前は信じないだろうが、あの日、村を襲撃したのはソンチャイの独断だ。俺は止めたし、父も止めた」
その時、遠くから微かに鐘の音が聴こえてきた。健一は一歩前に出た。木々の影から抜け出た健一は、また強い日差しに照らされた。
「その、セーニー・ワチャラポンは今、どこにいる?」
チャムロンは答えない。答えるつもりもないようだ。
「だったらこう聞けばいいか? あんたの父親であり、このワット・ラカンの高僧でもある、プラ・ルアンポーチャイ僧は今、どこにいるんだ?」
チャムロンの磨き上げられた靴先が太陽を跳ね返して光った。チャムロンは立ち上がると階段を下りてきて、健一のすぐ傍で立ち止まった。その声は小さく、かろうじて聞き取れる程度だった。
「俺には偉大な父がいた――。父は十五歳の時、中国からこのタイにやって来て誰よりも苦労し、誰よりも働いた。当時、ソンチャイは父の片腕だった。二人があの村を作ったのはアメリカの為だ。ベトナム戦争――、その為に政府は軍資金を必要としていた。父達は政府に言われるがままあの村を作ったんだ。そして戦争が終わった後、ソンチャイは日の当たる道を選び、父は裏社会に留まった。それでも二人は常に表裏一体だった。タイ社会の表と裏。そうやってこの国の基盤を作ってきたんだ。だから俺はずっと尊敬していた。父を――、ガウモンコンの皇帝セーニー・ワチャラポンを――」そう言ってからチャムロンは刺すような視線をケンに向けた。「だがな、俺が尊敬していたのはあんな老いぼれた僧侶じゃない」
あの忌々しい村のプレハブで見たセーニー・ワチャラポンの写真――。今よりも数十歳若く、豊かな頭髪の上に汚れた軍帽を被ってはいたが、それでも面影は色濃く見てとれた。
それはまさしく健一の知るプラ・ルアンポーチャイ僧の若かりし頃の姿、そのものだった。そして健一はこの何日間かの出来事を、順を追って見つめ直した。
何故、俺はチャムロンと会えたのか? チャムロンは何故、俺に協力したのか? そのすべての答えはルアンポーチャイ僧に繋がった。ボーウィとサラを除けばルアンポーチャイ僧以外、誰にも今回のことを話していなかったからだ。
それなのに家主のタン夫婦はチャムロンに会うよう俺に伝言を届けた。チャムロンは「神に等しい人物からの頼みだ」とも言った。そして警察官のピー・コーが教えてくれた、今では消息の分からないガウモンコン帝国の創始者セーニー・ワチャラポンと、健一を見守り、悟し、長い間導いてくれたプラ・ルアンポーチャイ僧の姿が自然と重なり合ったのだ。
「俺は二十歳になるまで父と離れ、香港で育った。それでもいつか父の役にたてるよう、自分なりに努力してきたつもりだ。ところが父はガウモンコンを終わらすと言った。父は自分の糞みたいな人生をやり直したいのだと――。どうしてそうなったのか俺にはわからない。父は出家し、仏門に下ると決めていたんだ。だから俺はガウモンコンを合法企業にすると約束し、父の跡を継いだ。それは俺が二十二歳の時の話だ。それ以来、父とは袂を分かったままだった。お前がチェンライに行ったあの日まではな――」
「あの日、何があった?」
「父が俺の前に現れて今度のことから手を引けと言った。つまりこの戦争のことだ。けれど俺は出来ないと答えた。ソンチャイとの約束がある。今は表の商売よりもユーロマンやロシアの連中をこの国から叩き出すことのほうがよほど重要だと俺は父に言った。すると父はそのままソンチャイに会いに行った」
「会えたのか? いくら昔の仲間だとは言えこんな時期に首相が会ってくれたのか?」
「ああ、当然だ。何故なら――」そこでチャムロンは言い淀んでしばし逡巡し、結局諦めたような顔をして健一を見つめた。「何故なら、ソンチャイは父の弟だからな」
「なんだって?」
健一は頭を強く殴られたような衝撃を覚えた。
「弟? 二人は、本当の兄弟だってのか?」
「そうだ。母親は違うが、同じ父親を持つ血をわけた兄弟だ。だから父は弟を安全な表社会に行かせ、自分が裏社会で業を背負ったんだ」
中国系という共通項はタイ政財界ではむしろ主流派である。ましてや闇社会の大物と一国の首相――。その二人に血の繋がりがあるなどと誰が想像できよう。
「それでルアンポーチャイ僧はどうなったんだ?」
チャムロンは目を閉じて唇を強く噛み締めたが、それも束の間のことだった。
「消えた――。父は、この世から完全に消えた」
「どういうことだ? まさか弟が実の兄を殺したと言うのか?」
「もっと悪い。ソンチャイは父のすべてを消し去ったんだ。ガウモンコンを作りあげた歴史も、僧侶になってからのこの十数年の時間もすべてだ。隣に行ってワット・ラカンの誰に尋ねても父の存在を否定するだろう。そんな僧侶はいなかったと言う筈だ。ソンチャイは一日も早く、あの村を消し去りたかったんだ。自分と麻薬密売の過去を消し去る為に――。兄の存在も、あの村も、首相であるソンチャイにとってはいつ爆発してもおかしくはない時限爆弾だったんだ」
そこまで話すとチャムロンは公園の出口へ向かって歩き出した。その先には茶色い水をたっぷりと湛え、悠然と流れるチャオプラヤ川がある。
健一はチャムロンの背中に質問をぶつけた。
「それで、あんたは何もしないのか? このまま黙っているつもりか?」
チャムロンの足が止まった。
「俺は覚えてるぞ。プラ・ルアンポーチャイ僧がこのバンコクにいたという事実を――。その存在や、俺にかけてくれた言葉のすべてを――。それに――」
チャムロンが振り向いた。
「それに、なんだ?」
健一は、太陽を弾き返した。
「いつか俺が、ソンチャイを殺してやる」
すると一瞬の沈黙の後、チャムロンは声をあげて笑いだした。狂ったような大声で――。その笑い声はチャオプラヤ川の向こう岸にまで届きそうなほどに大きかった。
やがてチャムロンはどうにか笑い止むと、健一に振り返って言った。
「父は自分の人生をずっと後悔していた。娼婦とナックムエとアヘンを作り出すあの村は父にとって忌まわしい人生の象徴そのものだったんだ。だから父は出家して仏門に下り、そこで出会ったお前に運命を感じたんだ。最初は物珍しい日本人だと思っていたようだ。しかしその日本人が見様見真似でムエタイをやり、不器用にもこのバンコクの一員になろうとしていた。だから父はお前の存在こそが現世における最後の審判だと、そう感じたんだろう」
健一はプラ・ルアンポーチャイ僧と過ごした日々を思い返していた。そこにはただの信者と高僧の関係とは次元の違う温もりがあった。健一はルアンポーチャイ僧にもう一度会いたかった。
「もしお前が戯言じゃなく、本気でソンチャイを殺すと言うのなら、この先、俺とお前は同じ目的を持って生きていくことになる。……覚悟しておけ。出家していない、半人前の日本人よ」
チャムロンはそう吐き捨てると、また健一に背を向けて歩き出した。そしてその背中はすぐに見えなくなった。
◇
ワット・ラカンの船着き場で水飛沫が上がっていた。誰かがタン・ブンで逃がしてやった亀を狙って子供達が飛び込んだのだ。岸壁にいる杖をついた男が、泳ぐ子供達に指示を出していた。
「右だ、もっと右――。そう、そこの桟橋の下だ。そこに今、潜った。急がないと、もっと深く潜っちまうぞ」
男の後方には無人の車椅子があり、その傍らに髪の長い女が日傘を差して佇んでいた。子供の一人が水面に顔を出し、続けて大きな亀を掴んだ右手を高々と掲げた。
「よくやった、よくやった!」
男は地面に杖を叩きつけて喜んだ。その胸元で三つのプラクルアンが揺れていた。そこでようやく男は健一のほうを振り向くと、その顔いっぱいに無邪気な笑みを浮かべた。
男は杖に頼らずに、片足を引きずりながら急ぎ足で歩いてきた。左腕が腰にくっ付いたままで、あまり自由が利かないように見えた。
健一も急ぎ足で男に近付き、出会い頭、強く男を抱きしめた。ところが男が脇腹をくすぐるので、健一のほうからすぐに離れた。
そして互いに照れ臭くて、はにかんで笑った。
やがて男と健一は肩を組んで、桟橋に向かって歩き出した。
「ケン、どうしてたんだ? ずっと長いこと顔を見せなかったじゃないか」
「ああ、ボーウィ、俺はとても忙しかったんだよ」
「忙しかったって? だったらケン、いったいどこで何をしてたんだよ?」
「ボーウィ、その話を聞きたいのかい?」
「もちろんだ。聞かせてくれ。何があった?」
健一は岸壁に腰掛けると傷だらけのボーウィの顔を見つめた。前よりも鼻が折れ曲がっている。左目はまともに見えていないようだ。額や眉間の傷口にはまだ糸が残っている。それでもボーウィがこうして生きていることが、笑っていることが、健一には無性に嬉しくてたまらなかった。
「ボーウィ、話せば長い話なんだよ」
「ああ、構わないよ、ケン。話してくれ。時間ならたくさんある。なあ、サラ」
ボーウィはそう言って、振り向いた。
サラは穏やかな微笑を浮かべ、小さく頷いた。
健一は立ち上がると顔の前で両手を合わせてサラにワイを送った。
その慈悲なる愛に――、多大なる敬意と感謝を表して――。
サラもまた健一にワイを返した。
友に、親しみと永遠の友情を誓って――。
そして健一とボーウィは互いにワイを送りあった。
さあ、どこから話せばいいだろう。
ボーウィ、これはね、とても複雑で、とても長い話なんだ。
〈了〉
最初のコメントを投稿しよう!