$陰雨

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$陰雨

雨が降っている。 僕は、ぼんやりと床に寝転んでいる。 視線は右手に握られたスマートフォンのモニタに向けられているが、何を見ているわけでもない。 液晶モニタから発せられた光の粒は、脳内に何の像を結ぶこともなく溶け散っていく。 そこには、何かしらの意味ある情報が載せられているはずだ。 でも、それらは僕にとって何の意味も持たない。 雨音に耳を澄ませる。 じっと聴いていると、そこには様々な音が含まれていることがわかる。 空からこぼれ落ちた雨が屋根やアスファルトを叩く。 雨樋を伝い、水滴がぽたぽたと垂れ落ちる。 時折車が走り抜けて行き、水溜りの水をタイヤが跳ねる。 傘をさす親子の足音。 長雨にはしゃぎ回る子供達を、母親がうんざりした声でたしなめている。 しつこい雨だ。 6月の半ばから降り始め、未だ降り止む気配がない。 このままいくと、東京は海の底に沈んでしまうかもしれない。 実際、湾岸区域では海面が上昇し、マンションの一階部分が水に浸かったという被害が報告されている。 何かがおかしくなってきている。 誰もが頭の片隅でそう感じている。 でも、誰もそれを口にしようとしない。 口にしたら終わりだと、心のどこかで思っている。 一体何が「終わり」なのかは、誰にも分からない。 突如、スマートフォンが鳴る。 けたたましくもどこか間抜けな感じのする奇妙な着信メロディ。 大勢の人だかりの中でその音色を耳にすると、誰もが自分の懐を探り始める。ひとたびそれが自分に向けられたものでないとわかると、人々は決まり悪そうに、ありふれた日常へ回帰するーーそんなメロディ。 着信画面には「桃井さやか」の名前が表示されている。 一瞬、「拒否」ボタンを押そうかとも思ったがやめておいた。 後々、面倒なことになる。 「もしもし」僕は言った。 「久しぶり、ブルー」スマートフォンの向こう側からよく通る、ハイトーンの澄んだ声がした。本人はともかく、この声はまだ嫌いじゃない。 「その呼び方はやめてくれ」僕は言った。 「レッドが変なの」ピンクが言った。 「あいつが変なのは、今に始まったことじゃない」 「そういうのじゃないの。何って言ったらいいか......かなり危ない感じがする。毎日どこかに出かけていくんだけど、どこに行ってるのか教えてくれない」 「ほかの女の子のところじゃないか」 「それならまだいいの。でもね、そういうのじゃないの。部屋にいるといつもイライラしている。」 「イライラしてるのも、いつものことだろう」 レッドは直情的な男だった。 自分が正義のヒーローでいられるうちは気分も良く、人助けをする余裕もあるのだが、少しでも気に入らないことがあると、途端に塞ぎ込んでしまう。 はっきり言って僕は、レッドが大嫌いだった。 「そうね。でもね、出かけて帰ってくると、すごく機嫌が良いの。ドアを開けるなり私に抱きついて『愛してる』っていうのよ」 「結構なことじゃないか。のろけを聞かせたいのかい?」 「おかしいと思わない? あいつ、そういうキャラじゃないでしょ」 「覚えてないな」僕は言った。「興味ないしね」 「ちょっと冷たくない? 同僚なのよ、私たち」 「仕事とプライベートはきっちり分けるのがポリシーなんだ」 「だとしても、よ。人としてどうなの?」 『今の男についての相談を、前の恋人に持ちかける方が、人としてどうかと思うよ』 危うくそう言いかけたが、面倒くさいことになりそうなので、やめておいた。 「もしかして、まだ未練があるの?」 「何に?」 「私に。」 次の言葉が見つからなかった。 図星なような気もしたし、そうでないような気もした。 異性とそういう関係になるのはピンクが初めてだった。 だから判断がつかない。 絶対的に経験値が足りていない。 「ひと月に一度くらいならいいわ」 「何が?」 「わかるでしょう。でも避妊はちゃんとして。あと、貴方の部屋は嫌。きちんとホテルをとって。もちろんホテル代は貴方持ちで」 やっぱり次の言葉が見つからなかった。 是が非でもお願いしたい気はしたが、提示された条件は、懐事情を考えると厳しいものがあった。 「考えておくよ」そういうと、僕は電話を切った。
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