白き友をけわう

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 谷に位置する小さな街セルナータには坂の上に仕立て屋がある。看板に描かれたマーガレットの花が示す通り、その店の名は「マーガレット」。レンガの坂道に似合う、落ち着いた色合いの小さな仕立て屋だ。  谷の朝は冷え込む。夜に冷え込んだ空気が朝日のあたたかさを得て、発生した霧が谷全体を覆い尽くす。鼻先を冷やすような肌寒さ――街が白く覆われる頃がケイトの仕事始めの時間だった。  静かで冷える、ケイトの朝。  カラン、とベルを鳴らして正面の扉を開ける。扉にかけた「CLOSED」と書かれた板をひっくり返して「OPEN」にする。 「あの」  ふと、すぐそばから声が上がった。そちらへと目を向ければ、少女が緊張した面持ちで店の前に立っている。赤毛を二つ結びにした学生らしき少女だ。扉の横のガラス越しに飾られたマネキンを見つめていたのか、その目は近くのものをまじまじと見つめていたかのように大きく見開かれていた。 「ここのお店の方ですか?」  彼女の息は霧のように薄く白い。それを眺めて、彼女が見ていたガラス面へと視線を移して、そうしてしばらくの後、ケイトは少女へと顔を戻して静かに頷いた。 「……そうですけど」 「あの、このドレス」  寒さで冷えた指先がガラスの向こうを指差した。 「綺麗ですね。ウェディングドレスですか?」 「そうです」 「あ、あの、私、服を見るのが好きで」  ケイトがあまりにも素っ気なかったからか、少女は慌てて両手をわたわたと振り回して説明じみたことを言った。 「学校にも通っているんです。服飾専門学校。セルナータの坂の上の仕立て屋さん、噂に聞いていて、一度来てみたくて」  ほら、と彼女は再びガラスの向こうを指差した。 「このドレスなんて腰から裾へのラインがすごく綺麗。ドレスにフリルを重ねて単調なラインにならないようにして、でも白い布地同士で汚い影を作らないように間にレース生地を挟んでる。まるで透き通ってるみたい。妖精の女王様みたいで素敵。布の白も、普通使われるクリーム色に近い色じゃなくて本当の白を使ってて、それでも影色が灰色にならないの。胸元は控えめにしてるけど全体が完全に白色だから花嫁の顔に自然と目が行く。素敵なウェディングドレス。これを着た花嫁はとても嬉しいんだろうなあ」 「そんなに良いものじゃないですよ」 「とても素敵ですよ。フリルの重ね方が単調じゃないのにうるさくない。見入ってしまってました」 「本当に、そんなに良いものじゃないんです」  ケイトはゆっくりと顔を横に振った。少女の不思議そうな顔から逃げるように目を伏せ、呟く。 「……誰にも着てもらえないウェディングドレスなんて、良いものじゃないんですよ」 「……売れないんですか?」 「売ってないの」 「どうして?」 「売り物じゃないから」  ケイトは再度首を横に振った。そしてそのまま、扉を閉めて店の中に戻ろうとした。 「あの!」  引き止めるような声にケイトの動作が止まる。 「見てて良いですか? スケッチしたいんですけど」 「……なら、中でどうぞ。その方が見やすいでしょう」 「良いんですか! あ、私ミランダです。よろしくお願いします」  赤毛の少女はにこりと笑って元気よくケイトへ頭を下げた。 ***  ミランダのためにウェディングドレスの横へ椅子を準備し、ケイトは自身の作業を始めた。店は作業場と店頭とで区切られているわけではなく、一つの大きな部屋となっている。ミランダの様子は常に視界に入っていた。  ミランダは真剣な面持ちでドレスを見つめ、スケッチブックへ鉛筆の先を滑らせていた。デッサン慣れしている手つきだった。その手つきのまま、ミランダは顔を上げてはドレスの形を見、顎をほぼ動かさずに視線だけを落としてスケッチブックへ線を引いていく。  その横顔をケイトは見つめていた。 「こんにちは」  カラン、と扉のベルを鳴らして客が入ってくる。あらかじめこの時間に予約をしていた客だ。この街で仕立て屋を始めてから今まで、長いこと世話になった顔見知りの客だった。 「こんにちは、いらっしゃいませ」 「昨日はごめんなさいね、孫が採寸を嫌がってしまって」  客は上品に口元に手を当てながら微笑んだ。そうしてデッサンに夢中で来客に気付いていないミランダとウェディングドレスを視界の隅に収めつつ、店の奥に置いた打ち合わせ用のテーブルへと歩み寄ってくる。 「いえ」  ケイトは店の奥から紅茶のポットを持ち出した。ティーカップへ琥珀色のそれを注ぎ、そしてテーブルで待つ客へと差し出す。互いに椅子へと向かい合って座り、ケイトは用意していた資料を広げ、客はケイトが準備した紅茶を口にした。 「幼い子には採寸は怖いものでしょうから。問題ありませんよ、結局全部採寸できたので」 「ふふ、ありがたいわ。これで孫のピアノの発表会もどうにかなりそうね。あの子が大きくなったらウェディングドレスも頼もうかしら。あの店頭のドレス、何度見ても素敵だもの」 「嬉しいお言葉です。是非その時は」 「ええ、もちろん。……ねえ、ケイト。あのドレスを買っても良いのよ」 「えっ」  突然ミランダが跳ねた。聞いていないと思っていたのに、彼女はデッサンに夢中になっていると見せかけてその実、しっかりとこちらの会話を聞いていたらしかった。 「売るんですかこれ!」 「いくらでも良いわよ、いくらでも出すわ。そのくらいあのウェディングドレスは素敵だもの。とても気持ちがこもってる。花嫁の幸せを願う気持ちが。だから」 「申し訳ございませんが、そればかりはできないのです」  ケイトはゆっくりと首を横に振った。 「あれを着てもらうはずだった花嫁はあのドレスを着てくれませんでした。あのウェディングドレスは彼女のためのものです。彼女のためだけに作った唯一のものです。他の方にお譲りできるものではないのです。必要でしたらその都度、その方に合わせてお作りいたします」 「けど、ケイト。それじゃあなたの店、いつまでたってもあのウェディングドレスに戒められたままよ。時は流れゆくのに、季節は変わり巡るのに、あなたの店だけがずっと止まったまま」 「それで良いのです」  ケイトは椅子から立ち上がって頭を下げた。 「どうかお許しを」 「……あたしが許す許さないを口にする立場ではないわ」  客は小さくため息をついた。それは呆れではなく、心配を込めたため息だった。 「あなたにその気がないのならあたしは何も言うことはできないもの」 「……すみません」 「謝らないで。あなたの心がそれで良いと決めたのなら、あたしはそれを見守るだけよ」  客の微笑みにケイトもまた、微笑む。 「……ありがとうございます」  椅子に座り直してデザイン決めを進めつつ、ケイトはウェディングドレスの横からの視線を感じ取っていた。
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