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 役員による夜間の見回りが始まった。  ほとんどの住人は外出自粛要請に従ったようで、午後七時を過ぎると集落内が死んだように静まり返る。たまに、仕事から帰宅しているらしい車が集落の外から内に向かって入ってくるエンジン音が聞こえてくるが、集落の外に向かう音はほとんど聞こえない。  しかし、やはり殺人現場を見にこようとするものや、不謹慎な動画配信者などがやってくることはあるようだ。  美咲は少しだけ気に掛かっていたこともあり、昼間に金田一基の居酒屋店舗兼自宅の前まで行ってみた。表の横開きの和風玄関には、赤提灯に「お持ち帰りできます、お昼十二時から営業中」と手書きの油性マジックで書いた紙が貼ってあった。夜に営業できないぶん、開店時間を昼に前倒ししたのだろう。しかし、客がいる様子は感じられなかった。  前回の臨時役員班長会議のちょうど一週間後の夕方、パソコンでのその日の作業を終えてリビングでテレビを見ていると、固定電話が鳴った。 「はい、古瀬です」 「あ、どうも。自治会長の五島です。古瀬敏子さんはいらっしゃいますでしょうか」 「いえ、まだ帰ってません。もうすぐ帰ってくると思います」 「そうですか……」五島はそう言って黙った。 「何かあったんですか?」 「いえ、ちょっとしたトラブルが発生して、役員の皆さまに相談したいことが出てきたので、お手隙の方がいらっしゃれば集まっていただこうかと思っておったんです」 「トラブルって、何ですか?」 「いえ、ややこしいのでちょっと電話では説明しにくいことでして」  美咲は右耳に当てていた受話器を左手に持ち替えた。 「もしよければ、母の代わりに私が行きましょうか? 問題なければ。どうせ、回覧板の文書を作っているのは私ですし」 「ああ……、今回は回覧板に関することにはなりそうにはないんですが、古瀬さんに来ていただけるなら、ありがたいです。ご迷惑ですが」 「それじゃ、今から自治会長さんのお宅に行ったのでいいですか?」 「お願いします」  テレビを消して、いったん自室に戻って薄手のニットをシャツの上に羽織った。  五分後には五島宅に到着し、玄関を通ってリビングに案内された。前の役員班長会議のときは壁に立て掛けられていたテーブルが部屋の真ん中にあり、東と佐藤が向かい合う形で座っている。東の前には、手書き字で数字が書かれた小さなメモ用紙があった。 「お座りください」  五島にそう言われたので、美咲は佐藤の隣の座布団の上に座って、 「母がまだ帰宅しておりませんので、代わりに私が伺いました」誰に言うともなくそう言った。  東が美咲の姿を見て、 「古瀬さんのお嬢さん、あんたが正しかったよ。私が馬鹿じゃった」と言った。  意味がわからず、美咲はきょとんとするばかりだった。  東はなぜか、疲労困憊と言った表情をして顔色も少し悪い。いつも声が大きく強気な物言いをする東だが、今日は身体が一回り縮んだように感じる。 「いったい、何があったんですか?」 「大山田さんへの義捐金の返還の件、あったでしょう」 「はい」  大山田宛て義捐金の返還については、「返還を希望する人は会計の東宅へ申し出ること、その際封筒に入れた金額も告げる」という内容、そして「預かった義捐金はいったん自治会の口座に入金しているため、後日、東が現金を引き下ろしてから希望者に返還する」ということを回覧板で住人に報知していた。 「合計して、二十六人から返還の請求がありました。もちろん、どこの家が請求してきたかは言えませんが」  合計百五十戸のうちの二十六戸。二割弱の世帯が返還を要求したということになる。この数字が多いのか少ないのか、比較対象とするべきものがないため、判断できない。  東は続けた。 「で、その二十六人が言うてきた金額を合計すると、五十五万円になってしもうたんです」 「え? なんでそんなことになるんですか?」  隣に座っている佐藤は、美咲が来る前にその情報を知らされていたのか、困り果てたような表情をしてはいたが、驚いた様子はない。 「集まったお金、合計いくらでしたっけ?」美咲は確認するように問う。 「三十三万円です」  少し考えて、ようやく理解が追いつく。  約百五十戸が出したお金は合計三十三万円。しかし、そのうち二十六戸が出したお金が五十五万円になるという。  明らかに、自分が出したお金よりも大きな額を返還してもらおうとしている人間がいる。 「あさましい……」思わず口に出して言ってしまった。  あまり品のよい言葉ではないが、この状況をほかのどういう言葉で修飾すべきか、探しても見当たりそうにない。もちろん、封筒に入れた金額を正直に申し出ている家もあるだろうが、それを確認するすべはない。 「前の会議のとき、古瀬さんが『性善説でやるのは大丈夫か』みたいなことを、おっしゃっておったでしょう。私は大丈夫じゃと思っとった。ここの住人は、みんな真面目で誠実だと思っとった。お金のことになると、人間こんなに意地汚くなるんじゃ」  東はなぜか美咲に対して敬語を使いながら、目頭に涙を浮かべた。自分の見通しが甘かったということよりも、住人の本性を見せつけられたことにショックを受けているようだった。  しかし、集めた金額を超えるまでの返還請求があるとは美咲も予想していなかった。人の羞恥心というものは、ここまで脆弱なものなのか。  天に向かって金額を告げれば金が振ってくるというなら、誰もが大きな額を叫ぶだろう。しかしそんなことは有り得ないのだ。誰かの金が増えたぶん、誰かの金が減らなければならない。  五島宅のインターホンが鳴った。五島が玄関に行き、衛生担当役員の玉木とともにリビングに戻ってきた。  東は先ほど美咲が聞いた話と同じ内容を、玉木にも話した。  聞き終わって玉木は、嫌悪感を隠さない表情を見せた。 「で、どうしましょう? 今さらお金返すのを止めるとも言えんでしょう」佐藤が言った。  五島が、 「東さんは、こんなことになったんは自分の責任じゃから、足らんぶんは全部自分が負担するって言いよるんじゃが、それは違うじゃろうと。何かええ知恵がないかと、来てもろうたんですが」と言った。  手元にあるお金は三十三万円、請求された金額は五十五万円。その差額は二十二万円。決して安い金額ではない。つつましく生活している人間にとっては、大金と言ってもいい。 「集まった三十三万円を、請求してきた人数……、二十六人でしたっけ? で割って、全員に同じ額を返すっていうのはどうですか? 事情を説明して」美咲が言った。  そんなことではどうにもならないだろうと思いつつも、ほかには良い解決方法は何も思い浮かばない。 「来年度ぶんの自治会費を値上げして、それで賄うという方法もあるのでは……」玉木が言った。  それを聞いて、先日の会議で「百円でも自治会費を上げてほしくない」と訴えた三田の姿を思い出す。  自治会役員、あるいは役員と班長で分担するという方法もあるかもしれないと思うが、意思決定は参加する人間が多くなればなるほど調整が難しくなる。役員八名のうち、あるいは班長と合わせて十五人のうち、必ず「なぜそんなお金をうちが負担しなければならないんだ」と言い出す人間が出てくるだろう。 「やっぱり、私が全部負担します。私が言い出したことですし……」東が言った。  それを聞いた五島が、東の肩に手を当てて、 「いや、それはいかん。自治会長の私にも責任がある。ほんなら私に半分持たせてください」 「そんな、申し訳ない」  ふたりがしばらくそんなやり取りをしていたが、その様子を見ていた佐藤が、 「警察に相談してみたらどうじゃろか。だましてお金を多く取ろうとしとる人間が確実におるんじゃけん、詐欺で間違いないでしょう」  第二新光集落内で、このところ警察沙汰が続いている。最初の殺人、大山田家の放火、そして大山田の殺人。今回の返還金の詐欺……。 「水上さんに相談してみようか」いきなり警察署に通報することが憚れるのか、五島がそんなことを言った。  水上はすでに引っ越して行った。官舎というのがどこにあるのかは知らないが、市内に住んでいることはほぼ間違いない。  五島が畳の上においていた二つ折りタイプの携帯電話を操作して、電話を掛けた。 「もしもし、水上さんですか。五島です。お世話になっております。ちょっと相談したいことがあるんですが、今よろしいでしょうか」 「かまいませんが、なんですか?」部屋のなかが静かなため、五島の耳に当てた電話のスピーカーから水上の声が漏れて聞こえてくる。  五島は義捐金集めと、その後のことを水上に説明した。 「……ということで、こういう場合、警察に通報して、なんとかなるんもんかどうか、教えていただこうと思って」 「難しいんじゃないでしょうかねえ」水上が答える。 「難しいですか? 犯罪が起こっとることは間違いないと思うんですが」 「と言っても、最初の封筒にいくらの金額が入ってたのかすらわからないんじゃ、捜査のやりようもないでしょう。証拠がなければ、どうにもなりませんよ」 「証拠がないと、警察には動いてもらえんのでしょうか」  少し間があってから、 「当たり前だろ!」水上が怒鳴る声が、はっきりと聞こえてきた。  五島が身体をのけぞらせた。 「あのね、あんたたち。根本的に勘違いしてるようだけど、警察ってのは市民の使いっ走りじゃないんだよ。わかる?」丁寧語だった口調が、ぞんざいな言葉遣いに変わった。  水上は続ける。 「警察っていうのは、犯罪があったら捜査をして被疑者を検挙して、証拠を揃えて身柄と一緒に送検するのが仕事なんだよ。証拠が得られる見込みがないのに、捜査をして逮捕なんかしたら、大問題になる。そんなこともわからないのか。住人どうしのトラブルは住人どうしで解決してくださいよ。そもそも私はもうそっちの住人でもなければ、刑事でも駐在でもない、単なる白バイ乗りなんだよ。もう面倒ごとは二度とこっちに振ってくるなよ。もしこれ以上ゴタゴタ言ってきやがったら、お前ら五キロの速度超過でも切符を切ってやるからな。覚悟しとけよ」  電話は切れたようだった。  部屋のなかが一気に静まる。誰もが困った、というより大人に叱られた子供のような顔になっている。  近隣住民に税金泥棒よばわりされ、息子と娘が学校でいじめられた水上にとっては、この集落の人間は敵という認識になったのだろう。水上の怒りには正当な理由がある。  五島がなぜか小さく頭を下げて、 「やはり、私と東さんで負担しましょう。この件は内々で処理したいと思いますので、皆さん、これ以上のトラブルを招かないよう、内緒にしていただくよう願います」と言った。  帰宅すると、午後五時半を少し過ぎたところだった。敏子はすでに帰って来ていて、台所で夕飯の準備をしている。 「どこ行っとったん? 電話も持って行かんと。あんたに電話したがね」  五島宅に向かう際、すぐに帰って来れるだろうとスマホはリビングのソファの上に置きっぱなしにしていた。スマホを操作すると、敏子の携帯電話から一回だけ着信履歴があった。 「自治会長さんのとこ」 「何しに?」 「長くなるから、後で話す」  美咲は自室に戻ってニットを脱ぎ、タバコに火を点けた。  集まった義捐金は三十三万円、返還すべき金額は五十五万円。五島と東が差額を折半で負担するとして、各十一万円となる。余計な衝突を回避するためのコストとしては出せない額ではないのかもしれない。インチキをしている人間を儲けさせるのは不本意だが、ほかにどうしようもない。しかし、自治会長や役員に選ばれたからと言って、こんな負担を強いられるいわれもないはずだ。何をやっても理不尽なほうへしか事態は動かない。 「もう晩ごはんよ、下りておいでえ」敏子が一階から大きな声で言った。  美咲はまだ長いタバコを灰皿にこすりつけて部屋を出た。  夕食は生姜焼きとみそ汁、そして小松菜の煮物だった。味は申し分ないのだが、小松菜の煮物だけは、やはり雄一郎の家でごちそうになったものと比較してしまう。なぜこんな単純な料理なのにこれほどの差が出るのか、皆目見当もつかない。  食べながら、美咲は先ほど五島宅においてあった出来事を敏子に話した。 「そんなことになっとったんじゃね……。まあ正直言うて、役員全員で負担とかにならんかって、ありがたいというか。そんなお金、誰も払いとうないじゃろ。自治会長さんと会計さんには申し訳ないけど」 「ねえ、自治会って、本当に要るの?」  いつかの役員班長会議で、福井が同じような疑問を口にした。第二新光集落は合計約百五十世帯、役員と班長の数は合計で十六人、現在は水上が抜けたので合計十五人になっているが。役員や班長に選ばれる確率は、一割強。役員など誰もやりたがらないが、仕事の少ない班長でさえ敬遠されている。  たしか会議では、行政の観点からは「自治会があるほうがコストは低い」みたいなことを水上が言っていた。しかし今回の義捐金についての問題は、自治会がなければ発生していなかったはずで、はたして自治会が住人にとって本当にプラスになっているのだろうか。 「さあ、どうなんじゃろね。自治会を無くして困ることは出てくるんじゃろうけど、この集落のなかで自治会が無くなったことは一回もないんじゃけん、なんとも言えん。でも今もやっとるような、これ以上犠牲者が出んように外出を禁止するとかいうのは、自治会がないと決められんことじゃったとは思う」  夕食を終えて、午後八時になると、敏子は懐中電灯を手に持って厚いジャンパーを羽織った。外出自粛要請を守っているか見回るという役員の仕事は、二人組で月水金の夜に行われることになっている。 「今日は三田さんと見回り当番じゃ、もうだいぶ寒なったわい。冬みたいじゃ」  そう言いながら敏子は玄関を出た。  大山田殺害の犯人が逮捕されたのは、その翌日十一月十一日のことだった。  昼過ぎにコーヒーを飲みながらスマホをいじっていると、ポータルサイトのトップニュースに「【速報】H市男性殺害事件 女を逮捕」という見出しが出ていた。  画面をタップしてそれを開くと、 「県警は十月上旬にH市に住む大山田誠三さんが逮捕された事件で、近所に住む女を逮捕したと発表した。女は容疑を認めているという。九月にも近くで男が殺害されるという事件があったが、こちらについては容疑を否認している」  いかにも速報らしく簡易にそう報じている。  そのニュースを見てから、美咲は仕事が手に付かなくなり、ブラウザでニュースのページを何度も更新しながら続報を待った。  やがて最初に報じた通信社に続いて、大手の新聞社やテレビ局のニュース記事が、次々とアップされていく。 「H市で十月三十日未明に大山田誠三さん六十六歳が殺害された事件で、県警は近所に住む吉岡永子(よしおかえいこ)容疑者、五十三歳を逮捕したと発表しました。  事件現場はH市の北部、山のふもとに位置する閑静な住宅街です。  大山田さんの住む戸建ての住宅は、十月十四日に放火に遭い、全焼しました。その後大山田さんは地域の施設で寝泊まりをしていたということですが、そこで刃物で刺されて死亡しました。  吉岡容疑者は、大山田さんの道路を挟んではす向かいに住んでおり、互いに面識があったということです。吉岡容疑者は、放火・殺人ともに容疑を認めています。  同じ地区で、九月下旬に若い男性が殺害されるという事件がありましたが、吉岡容疑者はこちらについては容疑を否認しています。  警察では、動機やふたつの事件の関連について慎重に調べを進めています」  テレビの全国ニュースをテレビ局の公式アカウントがそのままネット上にアップした動画で、有名な局アナがそう報道した。  画面には、焼けた後の大山田の家などが映されている。  美咲はサンダルを履いて表に出て、大山田の家があったほうへ歩いて行くと、遠くにマスコミのハイヤーがすでにやってきているのが見えた。近寄るとインタビューを求められるかもしれないので、そこで引き返して家に戻った。  吉岡永子は、大山田と班は違うが、すぐ近所に住んでいる。美咲は道端で吉岡の顔をちらと見たような記憶はあるが、はっきりとはわからない。もちろん言葉を交わしたこともない。  いったい、動機は何なんだろう。こういう場合、警察は事件について近隣住民に知らせてくれるのだろうか。そして、最初に起こった公園での殺人事件との関連は……。  ふつうに考えると、最初の事件も吉岡が関わってると推測するのが妥当のような気もする。しかし、これで全て解決したと言えるのだろうか。  判断するだけの材料はない。待つしかないだろう。美咲は自室に戻って、スリープモードになっているパソコンを起動させた。  夕方になり敏子が帰ってくると、どこかから連絡を受けたのか、すでに吉岡が逮捕されたということを知っていた。 「なんかね、吉岡さんとこは、ずっと大山田さんと近所でトラブルになっとったらしいんよ。吉岡さんがよう車庫に車入れんと表に停めっぱなしにしとったんが発端やったらしいんやけど。吉岡さんの旦那さんが退職して大きい車に買い替えてから、車庫に入れるんが面倒になったとかなんとか」どこから仕入れてきた情報かはわからないが、やや興奮しながら敏子が言った。 「吉岡さんとこって、旦那さんと二人で住んでるの?」 「いや、たしか二十代半ばくらいの息子と、息子の嫁と住んどる。孫はまだおらんはず」  家族と同居しながら、近所に放火したり殺人を犯したりは物理的に可能だろうが、ご近所トラブルでそこまでやるものだろうか。家族は吉岡永子の犯行だとは知らずに、ここ数日を過ごしてきたのだろうか。  しかし容疑を認めているということなので、それをやってのけたのだろう。  この先、吉岡の家族がこの集落に住み続けるのは可能なのだろうか。建前では犯罪は家族に連座しないことになっているが、現実的にそれは難しい。 「最初の公園の事件も、吉岡さんの犯行なの?」美咲は母に問う。 「さあ、どうなんじゃろね」と敏子は言った。  吉岡逮捕の翌々日の日曜日、十一月十三日。  朝食を終えた後、美咲はタバコを買いに徒歩でコンビニに向かった。曇り空のもと、朝夕はもう冬の寒さで空気が重くなっている。  吉岡が逮捕された後も、午後七時以降の外出自粛の要請は継続された。吉岡がかたくなに一件目の事件への関与を否認しているので、最初の事件の犯人がまだ近くに潜んでいるかもしれない、というのがその理由だった。  とにかく美咲としては、外出自粛中の夜の間にタバコを切らさないよう、買い溜めしておく必要がある。  コンビニで、ペットボトルの緑茶とチョコレート菓子を手に持ってレジに行き、店員にタバコの銘柄を告げ、ワンカートンを購入する。やはり最近タバコの消費量が増えた気がする。 「ありがとうございます、またお越しくださいませ」という店員の声を背後に聞いて退店し、コンビニの広い駐車場を歩いていると、 「すみません、古瀬美咲さんですね?」と不意に背後から声を掛けられた。  振り向くと、美咲と同い年くらいだろうか、三十代前半の短髪黒髪のきつい目つきをした女が立っていた。紺色のパンツスーツを着ており、身長は高く、百七十近くあるだろうか。 「そうですけど、何かご用ですか?」美咲は答えた。  女は胸ポケットから何かを取り出し、それを美咲に提示する。 「県警本部刑事部捜査一課の川本と言います。少しお話したいことがあって参りました」  警察手帳の顔写真の下には「警部」と書いてある。  事件以降、美咲も全く無知だった警察組織の部署や警察官の階級などについて少しだけ調べて知識を得ていた。地方採用の警察官は、巡査部長あたりで定年を迎える人も少なくないらしく、警部や警視に就任できるのはかなりの少数派、さらに県警のトップである本部長や、本部の部長は国家公務員一種の合格者いわゆるキャリア組が就くことが多いということだった。  目の前の川本は、この歳で警部というのはかなり出世の早いほうなのだろう。  いったい何の用なのだろうか。美咲にはまったく心当たりがない。  川本警部は、駐車場に停まっていた銀色のマークXの後部座席のドアを開けて、 「お乗りください」と拒絶を許さないような口調で言った。  車内には誰も乗っていない。 「……どこに行くんですか?」 「どこにも行きません。ちょっと車内で話をするだけですので。すぐにすみます」  ためらいながらも、買ったばかりのものが入っているレジ袋を持ったまま後部座席に乗り込んだ。川本は車の前方を回って、運転席に乗り込む。運転席には無線機らしきものが上部に設置してある。ペーパードライバーの美咲は車にはまったく詳しくないが、普通の車にはなさそうなスイッチもハンドルの向こう側に付いている。どうやら覆面パトカーというものらしい。 「すみません、もう一度ご確認させてください。第二新光集落にお住まいの古瀬美咲さんで間違いないですか?」 「ええ、そうです」 「𠮷岡が大山田氏殺害の被疑者として逮捕されたということは、ご存知ですね?」 「はい、ニュースになってたし、近所で噂になってますから……」 「実は、吉岡は何度か警察署に電話を寄越していたんです。『公園の殺人事件の真犯人は大山田だから早く捕まえろ』みたいな。また、近所の人にもそんなことを吹聴していたようです」 「え……、それはどういうことですか」 「𠮷岡の取り調べを引き続きやっていますが、吉岡は大山田氏が公園の事件の真犯人と今でも思っているようです。『自分は身を守るためにやった、あいつが犯人に違いないんだから正当防衛だ』みたいなことを言っているんです。最初は火を着けて焼殺を試みたようですが、それが叶わなかったために刺殺した、ということのようです」 「……それ、吉岡さんは何か根拠があって言ってるんですか? 吉岡さんは大山田さんとちょっとしたご近所トラブルがあったって話もありますけど」 「それはまだ捜査中で、何とも言えませんが、捜査本部は大山田氏が最初の事件の犯人だった可能性は、極めて低いと見ています。とにかく吉岡は、きっかけはご近所トラブルかもしれませんが、正義感を暴走させて犯行に及んだようです。『警察がトロトロしてるから、私がやるしかないと思った』などと供述しています。もちろん仮に大山田氏が犯人だとしても、そんなことが許されるはずはないんですが」  うわさで聞くところによると、吉岡の夫と息子夫婦は、早くも引っ越しの準備を進めているらしい。殺人犯を出した家と周囲に知られながら住み続けるのは難しいのだろう。 「……で、それを私に知らせて、どうしようと言うんですか? 私にはあまり関係ないことのように思いますけど」 「実はね、古瀬さん。警察署に『公園の殺人事件の犯人は古瀬美咲だ』と電話で言ってきた人間がいるんです。もちろん吉岡とは別の人間です」 「え……?」  集落内で美咲が犯人ではないかという根も葉もないうわさが立っているということは、美咲も前に酒本から聞いて知っていた。誰もがそういううわさを流される可能性もあるし、流す側になることもあるだろうと全く気にしなくなっていた。  しかし、警察署にまで通報するとは、その人間はかなり強く美咲を疑ってるに違いない。もしくは、美咲に嫌がらせをする目的で通報したのだろうか。 「ですので、大丈夫とは思いますが、古瀬さんも大山田氏のように、逆恨みというか、犯人と誤認されて攻撃を受ける可能性がゼロではないので、身の回りにお気を付けくださるよう、ご注意いただきたく思います。地域課のほうでもパトロールの回数を増やすようです」  つまり川本警部は、美咲に身辺気を付けるよう忠告しにきたのだろう。 「ご注意と言われましても……、正直、気分悪いです。私、何もやってません。それに、そもそもその通報をした人間が誰かわからないんじゃ、注意のしようもないじゃないですか。いったい、誰なんですか、そんな通報したのは」  川本は、内密に願いますと言ってから、 「窪園光江さんです」と言った。  雄一郎の母だ。  美咲は雄一郎の母の光江に対して、あまり良い印象を持っていない。昔から、子供ながらにずっと嫌われている、少なくとも好かれてはいないと感じていた。面と向かってそういうことを言われたことはないし、露骨な嫌がらせを受けたこともないが、美咲を雄一郎から遠ざけようとしているのは子供だった美咲にも明白だった。  いったい雄一郎の母は、何を根拠に美咲を殺人犯だと言うのか。 「あの……、集落のなか、このところずっと変なんです」美咲は川本に訴えた。 「変、と言いますと?」 「水上さんのことは、ご存知ですよね?」 「……どなたでしょう?」 「交通課の警察官の水上さんです。つい最近まで第二新光に住んでた」 「いえ、私は県警本部からこっちに来ている人間なんで、所轄のことはあまり知らないんです。その警察官がどうかしたんですか?」  美咲は水上が近隣住民から嫌がらせを受けていた事実を簡単に説明し、続けて大山田に対する義捐金の顛末について話した。 「それだけじゃないんです。みんな疑心暗鬼になって、誰々が犯人だみたいなうわさは私に限らずいろいろ流れてるみたいで。自治会で防犯カメラを設置するみたいな話も出たり、夜間は外出を自粛するように決まって、見回りをしたり……」  言いながら、美咲は住人に不安が広まったのは、自分が作成している回覧板の文書もひとつの要因になっているのではないかという気がしてきた。回覧板の情報に接した住人が過度に警戒するようになり、そして自治会で行き過ぎた対処法が決議され、その内容を回覧板がさらに拡散する……。そうやって住人の間で、まるで感染症のように次々と不安が再生産されて行く。吉岡が大山田を殺害したのも、その不安が原因のひとつとなったのかもしれない。  川本は聞きながらも表情を変えない。 「そんなことになってるんですね。犯人検挙が遅れているからそうなった、と言われても仕方ありません。申し訳なく思っています」 「公園の事件の捜査、どれくらい進んでいるんですか? 言えないことがあるのはわかりますけど」 「実は、ぜんぜん進んでないというのが正直なところです。マルガイが誰かも特定できていないんです。身分を証明するようなものは持っていなかったので、歯の治療痕を手掛かりに探しているんですが、掴めていません。聞き込みの範囲を拡大しているんですが、有力な情報は得られていません。この店の」  川本は車の窓からコンビニの店舗を指さした。 「防犯カメラの映像もお借りして、事件発生日時の一か月前までさかのぼって確認したんですが、被害者や被疑者の姿は見つかりませんでした。手詰まり状態です」  警察がサボっているとは思わないが、事件からこれだけ時間が経ってもそんな状況ならば、もう犯人を見つけ出すのは無理なのではないか。だとすると、事件のことなど誰もが忘れて風化するのを待つしかないのだろうか。 「話はそれだけですか? じゃあ、私は帰らせてもらってもいいですね」  覆面パトカーから下車しようとすると、 「ご自宅まで、お送りします」と川本が言った。 「いえ、いいです。歩いて帰ります。運動不足なものですから」  美咲はドアを開けて外に出た。警察の覆面パトカーで帰って来たなどと近所でうわさをされると、何を言われるかわかったものではない。  コンビニのレジ袋をぶら提げて帰途を歩く。第一新光集落を抜けて、第二新光集落に入ったところで、とある家の中から表の道路まで喧嘩をしているような声が聞こえてきた。  勝手なことをするな、話が違う、ほかにどうしょうもないじゃろ、あんたがどんくさいけんこんなことになるんじゃ、わしが稼いだ金じゃろうが、安月給を節約して貯めたんは私じゃ……、そんなふうに男女が罵り合っている。家の窓は閉じられているようだが、それでも外まで聞こえる怒声だった。おそらく隣家にも聞こえているに違いない。  その家には、郵便受けの横に石製の表札が壁に埋め込まれていて、一文字だけ「東」と彫られている。  心配と、少しの興味もあり、立ち止まってその様子を聞いていると、やがて鬼のような形相をした六十代らしい女が何かを絶叫しながら表に出てきた。女は美咲に目もくれず車庫に行き、軽自動車に乗って発進させた。  続いて、東が表に出てくる。去っていく軽自動車を見ると、東は大きく舌打ちした。 「どうかなさったんですか?」  そう声を掛けると、東は振り向いて驚いたのか、少しのけ反るようなしぐさをした。 「ああ、古瀬さん。お見苦しいところを、すみません」と小さく頭を下げた。  そして声を潜めて話を続ける。 「まあ、夫婦喧嘩と言えば夫婦喧嘩なんでしょうが……。義捐金の返還のことで、ちょっと夫婦で揉めておりまして」 「まだ、何かあるんですか?」  義捐金返還の超過分は、自治会長と会計である東が負担することで決着したはずで、今さら何があるのだろう、そのようなことを東に問うと、 「返還した人には、内密にとお願いしたんですが、やはり『自分が封筒に入れた額よりも大きな金額を請求したら、言い値でもらえた』と吹聴してまわった人間がおるようなんです」  人の口に戸は建てられない。そうなるのもやむを得ないだろう。 「まあ、それ自体はええんですけど、今度は、『うちは不幸に遭った大山田さんとその息子さんの支援のためにお金を出した、そんな詐欺師のところに自分のお金が行ったのは納得できんから、うちにも返してほしい』と言い出す者が現れて……」  同じ気持ちは、一万円を封筒に入れた美咲にもあった。しかし、事情を知っている美咲としてはほかにどうしようもないことは明らかだったので、何も言わないことにした。もちろん返還も求めていない。 「その言い分はもっともです。お金を返すしかない。で、自治会長さんにこれ以上ご負担してもらうわけにもいかんし、もううちでかぶるしかない、と。最初の返還ぶんには、女房もしぶしぶ賛成しとったんですけど、さらに追加となると、承服できんと言うてきまして……」  言いながら、東はがっくりと肩を落とした。東の額には深いしわが刻まれていて、ここ数週間で一気に老け込んだように見える。 「さすがにそんなことにまでなると、一度役員の皆さんで集まってご相談されてはいかがですか?」 「いや、もうええです。納得いかんという人に好きなだけ金を握らせて、黙っといてもらうんがいちばん気苦労がないです」  先ほど出て行った東の配偶者は、それでは納得するまいと美咲は勘ぐる。しかしそれは家庭内のことなので、口出しすべきではないという気がした。このトラブルにこれ以上巻き込まれたくない、という気持ちのほうが強かったが。 「こんなことになっとるの、どうかご内密に願います」東は頭を下げた。  帰宅して自室に戻ると、午前九時を過ぎたところだった。コンビニのレジ袋をベッドの上に放り投げるように置いた。  月曜日の朝までに仕上げなければならない仕事が溜まっている。本来なら金曜日の夕方までに済ませなければならないはずなのだが、実際に稼働するのは翌月曜日の朝なので、許可をもらった上で締め切りを遅らせてもらっている。  しばらく悩んだ末に、 ≪聞きたいことがあるんだけど、ちょっといい?≫と雄一郎にメッセージを送った。  すぐに既読マークが付いて、 ≪なに?≫と返信が来た。 ≪ちょっと人に聞かれたくないんで、迷惑じゃなければ直接会って話したいんだけど≫  既読が付いてから、数分してようやく返事が来る。 ≪なんじゃろ。何か知らんけど、ほなちょっとだけドライブにでも行こか?≫ ≪うん。ありがとう≫ ≪今からそっちの家に行ったんでいい?≫ ≪お願いします≫  五分もしないうちに雄一郎はやってくるだろう。タバコを吸おうかどうか、一本口にくわえてしばらく逡巡したが、箱に戻した。  脱いだばかりのブルーのニットを羽織って、一階に下りる。リビングで敏子が見ているテレビの音が聞こえてきた。日曜日の朝の討論番組らしく、流行りの新型ウイルス感染対策について、にわかに名前が売れて頻繁にテレビで顔を見るようになった専門家が、政府の政策を激しく糾弾している。  美咲はリビングに顔は出さずに、 「ちょっと、出掛けてくるから」と大き目の声で言った。 「お昼は帰って来るん?」 「たぶん」  スニーカーを履いて表に出ると、間もなく雄一郎の運転する軽自動車がやってきた。 「おはよう。いきなりごめんね」そう言って助手席に乗り込む。 「まあ、暇な身じゃけん」雄一郎は自虐的にそう言って車を発進させた。 「仕事探し、やっぱり難しそう?」 「あれから二件、面接行ったんじゃけど、どっちも倍率二十倍超えとるらしい。二件目のはまだ結果待ちなんじゃけど。こうなりゃ、やっぱり大型か何か免許でも取って、別業種に行くことも考えにゃいかんかもしれん」  軽自動車は公民館前のコンビニを通り過ぎた。 「どっか、行きたいとこ、ある?」雄一郎が尋ねた。 「いや、別に……」  はたして雄一郎の母のことを、どのように聞き出したらよいものか、美咲は迷っていた。 「金田さんとこの居酒屋、知っとるじゃろ?」いきなり雄一郎が言った。  美咲は数日前に金田の居酒屋の様子を見に行ったことを思い出した。ひとつ筋外れるのだが、その居酒屋は雄一郎宅の近所になる。 「うん。それがどうしたの?」 「この前、ちょっと店の前で一悶着あって。夜の八時くらいかなあ、何人かの怒鳴り声みたいなんがうちまで聞こえてきて、表に出てみたら、金田さんの店の前で、もめごとみたいなんが起こっとるんじゃ」 「なぜ? 何の理由で?」 「自治会で、夜七時以降は出歩かんよう自粛せいということになっとるじゃろ? じゃから、七時が来たら店は閉めいと、何人かが集まって抗議しとったみたいじゃ。店の前でずいぶんもめとったみたいで」  この前の役員班長会議では、外出を自粛というのはあくまでも「要請」ということになっていた。しかし、たかが自治会とはいえ公的な決定がなされれば、それを金科玉条のごとく崇めて利用する者が現れる。 「金田さんは、補償もないのに店を閉めれるかいと言うとったけど、抗議しとる人のなかに、『お前のせいで集落でこれ以上、人が死んだらどうするんだ』みたいなことを言う人もおっての。しまいにゃ、『お前の店に出入りする客、全員ぶち殺してやる』みたいなことまで言い出す人もおって……、最終的には金田さんのほうが折れる形になったようじゃが、もう目も当てられんかったわい」 「何、それ。立派な脅迫と威力業務妨害じゃない。自治会で決定したのは、自粛したい人はしてくださいってことなのに、そんなの許されるはずがない。誰が言ったの、そんなこと?」 「それがの、金田さんとこの常連客だったような人も、抗議しとる連中に混じっとったんじゃ。つい最近までは店の大将と客という、良好な間柄じゃったのに、いきなり敵対するようになってしもうた。……でもいちばん激しく抗議しとったのは、集会所の近所にある美容院のお姉さんじゃったかな」  集落に美容院はひとつしかない。 「酒本さんが?」 「そう、その人。俺も大将の店は好きで、こっち帰ってきてから何回かお邪魔させてもろうとった。年下の俺が上から目線でこういうのも違うんじゃが、大将はええ腕しとる。特に揚げもん、天ぷらの盛り合わせは、専門店で長年修行した人間でも敵わんもんがある。ほんで、店に行ったとき、何回か美容院のお姉さんも客で来とって、大将と仲良さそうにしゃべっとったんじゃが……、こんなことになってしまうんじゃな」  役員班長会議では、酒本が強行に午後七時以降の外出自粛を主張していた。髪を切ってもらっているときの様子から想像もできないくらい、激しく感情を露わにしていた。 「金田さんとこの居酒屋、ご夫婦でお店やってるんだよね? やっていけるのかな」 「大将と奥さんと、ほんで近所に住んどる金田恵子さんの三人で店をやっとるみたいじゃ。カウンター席が八つで、四人座れる座敷がふたつだけの小さい店じゃから、もともとたくさん儲かるような店ではないようじゃったが、このところ飲食店は厳しい上に、さらにご近所から攻撃されたんじゃ、たまったもんじゃないじゃろうな。正直、難しいと思う。あんな腕のええ職人さん、なかなかおらんのに、もったいない」  雄一郎は難しい顔をしている。 「そういや、金田恵子さんはだいぶ昔に旦那さんを亡くしているんだよね」 「ああ、そうみたいじゃ。旦那さんが亡くなったくらいに大将があそこで開業して、お店で働くようになったって」 「たぶん亡くなったときって、今の私たちとおんなじくらいの年齢でしょ。なんで亡くなったのかな」 「自殺」赤信号で停まっている車内で、雄一郎はあっさり言った。 「え?」 「だいぶ前やけど、オカンから聞いたことあるわい。ある日、家で首括って死んどったんじゃと」  美咲は訝しく思った。母の敏子は、金田恵子の配偶者の死因を、「おぼえとらん」と一蹴した。義捐金を集める文書を作った当時の書記であった敏子が、自殺などという珍しい死因で亡くなったことをおぼえてないなど、有り得るのだろうか。 「たしか、みっちゃんのお父さんがおらんなったんも、同じ年じゃなかったかな。オカンがそんなこと言いよったような記憶がある」  美咲は少しのあいだ思考が停まった。  行方不明となった父、古瀬光俊について、美咲はほとんど何も知らない。失踪したのは美咲が三才もしくは四才だったので、直接の記憶はまったくない。父の姿を思い出して懐かしいなどと思ったり、父が不在で寂しいなどと思ったこともない。つまり、美咲にとって父とは、最初からいないも同然の存在なのだ。ただ、母の敏子が毎日、仏器に炊き立て飯を盛って供えて冥福を祈っている対象、美咲にとって古瀬光俊とはそれ以外の何者でもない。  その存在について、雄一郎から語られるとは、まったく想定していなかったので、いったい何と反応していいのかわからなかった。  もちろん美咲と同い年の雄一郎が、古瀬光俊について直接何かを知っているということはないだろう。雄一郎の母もしくはその付近の人物からの伝聞以上の情報は持っていないはずだ。 「ほいで、話って何じゃ?」雄一郎が言った。  信号が青になったので、雄一郎は車を発進させて左折する。役所のある市の中心部が近づいてくる。かつてあった地場のデパートは何年も前に倒産しており、廃墟化した六階建ての建物が巨大な幽霊のような姿で佇んでいる。商店街の入り口のスクランブル交差点に、信号待ちをしている歩行者はほとんどない。 「うん、あの、実は」美咲は少し口ごもった。  しかし勇気を出して続きを言う。 「あのね、ゆうちゃんのとこのお母さんが、公園の殺人の犯人が私だって思い込んでるって、ちょっと耳に挟んで……」  ハンドルを握る雄一郎の顔が、これまで見たことないくらいに歪んで、 「みっちゃんとこまで、耳に入ってしもたか。すまん」と言った。  雄一郎はしばらく黙っていたが、やがて、 「うちのオカン、何の根拠があるんか知らんけど、『公園の犯人は古瀬さんとこの子に違いない』みたいなことを言うんじゃ。そして、それに類することを、近所の人にも言うとるみたい。証拠もなしにそういうことを言うのはやめいと何度も言うたんじゃが、『ぜったい間違いない』みたいに言うて、ぜんぜん聞かんのじゃ」 「じゃあ、やっぱりゆうちゃんのお母さんが、私が犯人という説をばらまき出した張本人なのね?」 「そのとおり。申し訳ない」雄一郎はハンドルを握ったまま頭を下げた。 「あのね、知ってるかもしれないけど、大山田さんを吉岡さんが殺したのも、吉岡さんは公園の事件の犯人を大山田さんだと勝手に思い込んで、犯行に及んだみたいで……。もう住人どうしが疑心暗鬼になってる状態で、誰が誰を疑ってるか、蜘蛛の糸みたいに絡んでわからなくなってるから」 「まあ、俺も疑われとるんじゃろうな。無職の中年っていうだけでも十分不審者扱いされる世の中じゃのに、DVでバツイチとなりゃあ、立派な容疑者候補者じゃ」  酒本から、雄一郎が犯人ではといううわさがあることも、美咲は聞いていた。  しかし、自分の場合は警察にまで通報されている。近所でうわさが立っているというのとは、少し次元が異なる。  美咲はためらいながらも、 「あのね、絶対内緒にしてほしいんだけど」 「なんじゃ?」 「ゆうちゃんのお母さん、『古瀬美咲が犯人だ』って、警察にまで通報したらしいのよ」 「えっ、オカンそんなことまでしとるんか?」大きな声で言う。 「うん、捜査本部の警察の人が直接教えに来てくれたんだ……。内緒の情報だからということで教えてもらったから、誰にも言わないでほしい。私が第二の大山田さんみたいにならないよう気を付けてくれって、注意しに来てくれたんだけどね」 「何考えとるんじゃ、うちのオカン……。みっちゃんを真犯人と思い込んで、みっちゃんに危害を加えるようなやつが出てきたら、洒落にならんぞ」 「うん。警察の人にも最近、集落全体がおかしくなってるって言ったら、パトカーでの巡回を増やしてくれるって。どこまで頼りになるかはわからないけど」 「えらいことになってきたなあ。はよ犯人捕まえてくれんと、どうにもならん」  雄一郎の運転する車は、市街地を通り抜けて郊外に出た。ロードサイドには、広い駐車場のチェーンの洋服店や食品スーパーなどが、間をおきながら現れる。 「でも、なんでうちのオカンはみっちゃんを犯人呼ばわりするんじゃろ。こっち帰ってきてから、うちのオカンにはいっぺんも会うとらんのじゃろ?」  美咲は首を縦に振った。 「それでね、ずっと思ってたんだけど、私ゆうちゃんのお母さんに昔からずっと嫌われていたような気がして……。今回みたいに変なうわさを流されるなんてことはなかったけど。何か理由があるのかなって思って。ゆうちゃん、心当たりない?」  雄一郎はため息を吐いた。 「実は、俺も昔からそう思っとったんじゃ。特に、高校生になってから、俺ら付き合い始めたじゃろ? そのことがオカンに知られると、『あの子はやめときなさい』とか、『早く別れろ』とか、やたら言うてきての。まあ昔のことじゃけど、高校三年のころ、みっちゃんが俺と別れたいと言うたとき、お互いに進路先を真剣に考えにゃいかん時期じゃけん、みっちゃんの好きなようにしてもろうたんでええと思ったのもあったんじゃが、あんまりにもうちのオカンが”別れろ別れろ“と催促してくるんがうざかったという気持ちもあったんじゃ」  美咲は当時のことを思い出した。恋人どうしの関係の終了を一方的に告げた美咲に対して、雄一郎はあまりにあっさりそれを承諾した。もしかして自分は本気では愛されていなかったのではないかと、返って胸が苦しくなったが、そういうことも背景にあったとは。  かまわず雄一郎は続ける。 「でも、それ以前の小学校のころも、あんまりみっちゃんとは遊ぶな、みたいなことを言うたことは何度かあった。理由を聞いても教えてくれんかったけど」  いったい、なぜ雄一郎の母である窪園光江は、そこまでして美咲を遠ざけようとしたのだろうか。 「知らないうちに、私何かゆうちゃんのお母さんに失礼なことしちゃったのかな?」 「いや、そんなことはないと思う。……けど、うちのオカン、みっちゃんを嫌っとるというより、みっちゃんのお母さんに対して何か思うことがあったんじゃないか。ふつう、同級生で家も近所なら親どうしもそれなりに交流もあるもんじゃろ」  雄一郎は、同じ第二新光集落に住んでいた、同級生の男の子の名前を挙げた。その子は小学五年のときに引っ越したので、それからどうしているのかは二人とも知らないのだが。 「あいつの親とうちの親は、それなりに交流があったみたいじゃし、みっちゃんとこのお母さんも、あいつの親と仲良かったはずじゃろ? にも関わらず、うちのオカンとみっちゃんとこのお母さんが道端で立ち話をしよるようなとこは、一回も見たことがない。やっぱり、何かあるんじゃろ」  しかし、いったい何があったのだろうか。古瀬敏子と窪園光江のあいだに、何らかのしこりがあったとして、聞いたら教えてもらえるようなものなのだろうか。そして、それが美咲に何の関係があるのか。 「うちのオカンが、本当に申し訳ない」雄一郎が再び言った。 「いや、ゆうちゃんが謝るようなことじゃないよ」 「これ以上みっちゃんが犯人じゃというデマを流すようじゃったら、オカンを叱りつけてやるわい」  雄一郎の車は郊外を一周回って、海沿いの道を通り、そして第二新光集落への帰途についた。  美咲の家の前に到着したのは、午前十一時を過ぎたところだった。 「ありがとう。ごめんね」と言って、雄一郎をねぎらう。 「いや、こっちこそ、なんかすまん」シートベルトを締めたまま、雄一郎が頭を下げた。  そして軽自動車を発進させて去って行った。  あらぬ疑いを美咲に掛けたということを、雄一郎はいかように母である窪園光江に問い詰めるのだろうか。そして、光江はいったい何を知っているのだろうか。何をやろうとしているのだろうか。何を隠しているのだろうか。  門扉を通って家に入ろうと足を三歩進めたとき、遠くで何か騒ぎ声のようなものが発生しているのが聞こえてきた。ひとりふたりの声ではなく、集団のようで、その中には拡声器でがなり立てるようなものも混ざっている。  選挙カーの雑音ようにも聞こえるが、国会はもちろん首長も地方議会も選挙はやっていない。  門扉を出て声のするほうに歩いて行くと、だんだん何を言っているか聞こえてくるようになった。「出ていけ!」というシュプレヒコールのようなものが聞こえる。狭い道路の交差点の向こうで、それが行われているようだ。  角を曲がると、一戸建ての敷地に入る門の前に二十人近くの人だかりができている。顔は見たことのある、集落のなかの人間に違いない七十代の男が手に拡声器を持って、「出ていけ!」と叫び、ほかの連中がそれに、「出ていけ!」と続く。  玄関のドアには、「出ていけ、近隣住民より」とマジックで書かれた紙がたくさん貼り付けられていた。  美咲は近寄って、いちばん後ろにいた五十代の女に、 「いったい、何があったんですか?」と尋ねた。 「ここの人、カルトなんよ」女は答えた。  この家の表札には、「高崎」と書かれてある。 「あ……」思わず美咲は絶句した。  少し前に、二班班長の高崎達子が、信仰する宗教のイタコ芸を根拠に回覧板の文書を回してほしいと無茶苦茶な要求をしていたことを思い出す。  女は、おぞましい表情をしたまま、話を続けた。 「私たちも知らなかったんじゃけどね、高崎とこの夫婦、変な宗教団体の信者らしくてね。大山田さんが殺されたあたりから、ご近所に『一緒に被害者をご供養しましょう』とか言うて回っとったんよ。なんか知らんけど、気持ちの悪い男が降霊術をしよるみたいな、わけのわからん動画を見せてきてね」  その動画は、美咲も見せられたものとおそらく同じものだろう。高崎の言う「ご供養」というのが何かはわからないが、あの後、高崎は近所にあの動画を見せて回って、自分の信じる宗教の教義を広めようとでもしたのだろうか。  高崎はこれ以上集落で不幸が続かないように、という動機で動いたのだろうが、それが人に与える影響までは想像できなかったらしい。 「本当に、気持ちが悪い。近所にあんなんが住んどったことなんか、ぜんぜん知らんかった。あんなカルトをほったらかしにしとったら、きっととんでもないことをやらかすに違いない。じゃけん、班のみんなで相談して、一致団結して高崎を追い出すことにしたんよ。……ひょっとしたら最初の公園の殺人も、あいつがやったんじゃなかろうか。そうに違いない」  出ていけ、出ていけというシュプレヒコールが続く。 「そんな……、何か証拠なり、法的根拠でもあるんですか?」  あまりの剣幕に、美咲はそう言わずにはいられなかった。たしかに美咲も、意味のわからないイタコ芸を信じる高崎を気持ち悪いと思った。しかし、気持ち悪いことを理由に強制的に退去を迫っていいはずがない。高崎夫妻は、当然の権利としてこの家に住み続けることができるはずだ。  気持ちの悪い相手に対しては、具体的な不法行為がない限り、気持ち悪がる以外のことはしてはならない。 「証拠なんか、いるかい。気持ちの悪いカルトのくせに、今まで涼しい顔してここで生活しとったことが、腹立たしい。さっさと追い出さにゃ、こっちが何されたもんやらわからん。これが正義じゃ」  女はそう言って、出ていけ出ていけ、と叫び声を繰り返し発した。その表情は、まるで狂人のようだった。  良くない何かが、流行病のように集落全体に蔓延している。
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