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待降節(アドヴェント)を迎える一週間ほど前に、北ドイツのこの街の姿は一変しました。霜がヴェールのように覆いつくすのは、何度目にしても美しく息をのむほどです。 枯れ葉が陽ざしに舞う穏やかな秋から、木々や草花も静かに佇む白い冬になるのです。 私の夫、ヨハン・セヴァスチャン・バッハはこの街の音楽監督(カントル)。待降節第一日曜日のために、心血を注いで準備したカンタータ「喜び勇んで舞い上がれ」 は、予想をはるかに超える素晴らしい演奏となりました。 長い期間に渡って愛してきた作品の一部を使って、練り上げたものです。 トーマス教会に響き渡る、神に捧げし音楽の美しさに誰もが感銘を受けたようです。 隣り合う人に讃える言葉をささやく姿を、あれほど沢山見たことはありません。 奇跡的と言ってもよいほどの成功に胸がいっぱいになりました。 ちょっぴり予感はありました。 聖歌隊の子たちは誰も風邪をひかなかったし、演奏家の方も練習に全員出てきました、そんな年は滅多にないのです。 昨日の成功に朝からご機嫌の夫は、出かけていきました。友人の家に新しく入った鍵盤楽器を見せてもらい、その足で市の音楽理事会に出席するのです。 つららが朝の光に輝き、ザクザクと霜の降りた道を踏む音が耳に心地よく、夫の後姿に喜びが溢れています。 物思いにふけるような時間は、平生でもわずかしかありません。 八人の子どもと集まってくる学生や音楽家でいつも大賑わい。私の大きな幸せです。なぜなら、全員音楽家なのですから。 夫が戻ってきました。出かけたときとは大違いに、表情が冴えません。 昨日の演奏に理事会の皆様もたいそう感激されていたのに。 「あなた、どうしたのですか」 「我が妻レーナよ、ありがたいことだ。とても良かった、ドイツじゅうでこの街より素晴らしい第一日曜日だったところはない、と市長から言われたほどさ。いつも文句をつける連中も、今日ばかりは上機嫌だった」 言葉とは裏腹に、口角を無理に上げているのがわかります。 上手くいったらいったで、足を引っ張りたい人はどこからでも理由を見つけてきます。ないときは、学歴のことを言います。夫の両親は早くに亡くなったので大学に行けなかったのですが、彼の献身を置いて問題にする人がいるのです。大勢の方から尊敬されているのに、むしろそれゆえに嫉妬されるのかもしれません。
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