379人が本棚に入れています
本棚に追加
/31ページ
若林巡査部長の再考(一)
それはいくつかの偶然から始まった。
まず最初の偶然は、若手時代に交番でペアを組んでいたヤマさんに出会ったことだった。
俺が警察官になったばかりのころで、文字通り手取り足取り教えてもらった。言わば恩師のような存在だ。確か数年前に退官したはずだ。
会うのは17、8年振りといったところだ。
この日、非番だった俺は時間を持て余していた。もともと趣味なんてものはなく、恋人もいない者にとって、休日は苦痛でしかなかった。
ただ、それでも腹は減る。そこで仕方なく外に出かけ、どこで飯を食うかと思案している最中にヤマさんを見つけたのだった。
声をかけた時、ヤマさんにギョッとされてしまった。
無理もない。新人のころに比べると、かなり人相が違っていただろうからだ。
警察官にとって、人相が悪くなるのは、決して駄目なことではない。舐められてはいけない職業だから、初対面の人に怖がられるのは、むしろ「刑事らしくなってきた」と褒められるものだ。
怪しい者ではないこと、そして新人時代にお世話になった若林だと説明すると、ヤマさんの遠い記憶にようやくヒットしたらしい。ようやく警戒心が解け、懐かしんでもらうことができた。
「行きつけの喫茶店があるんだが、一緒にどうだ」
ちょうど昼飯を食える店を探していたタイミングだったため、断る理由はなかった。俺は快くヤマさん後をついて行った。
連れて行かれたのは、今どき珍しい純喫茶というところだった。
窓際の席に座った俺たちは、互いの近況を報告し合った。とは言っても、俺の方は毎日事件と書類の整理に明け暮れていて、警察官だったヤマさんには珍しくなんともない日常を聞かせるしかなかった。それにヤマさんは、この喫茶店でゆっくりと小説を読むのが日課なんだそうだ。他にも孫と遊ぶのは大変だとか、家にいると奥さんに邪魔だと虐げられていると苦笑していた。
一般の人間にとってはありきたりの老後なのかもしれないが、俺にとってはヤマさんの話はどれも新鮮だった。同時に俺が退官したら、同じことができるだろうかと少々不安になった。
そして俺はナポリタンを食べ終わり、ヤマさんがコーヒーのお代わりをマスターに頼んだ時だった。「そうそう」と、以前この喫茶店で見た、とある男女の話を始めたのたっだ。
よほど面白い出来事だったのか、ヤマさんはコーヒーをひと口飲んでから、思い出したようにニヤリと笑みを浮かべた。
ヤマさんの話はこうだ。
当初、資産家である男の妻を殺害する計画を、愛人である女と話し合っているのかと思ったそうだ。ところがよくよく話を聞いていると、女は勧誘詐欺を行っているのではないかという疑いが出て来た。そうかと思うと、女は男に対してアプローチをかけていて、どうやら今から不倫が始まる様子だったのだが、相手の男はまるで女に興味がない──といったものだった。
単なる勘違いで、昔の同僚に話すにはピッタリのよもや話と言える。ヤマさんも、「退官した途端、これだもんな。すっかり刑事の勘が鈍っちゃったよ」とペシリと自分のおでこを叩き自虐していた。
ちなみに相手の男の名前が「安野」と言うそうだ。
○ ○ ○
次の偶然は、同期の山里と出会ったことだ。
担当している管内が隣り合っているとはいえ、ほとんど顔を合わすことはない。とはいっても、まったくないわけではないのだが──
「あちゃあ」
山里は俺の顔を見るなり、わざわざ婦警用の丸い帽子を取って、自分の額を叩いて体をのけぞらせた。
「1番会いたくない奴の顔見ちゃった」
この女は、昔からこうだ。
俺のことをどこか見下しているというか、からかいの的にしているのだ。
まあ、気持ちはわからなくはない。
警察学校時代の山里は成績優秀、それに対して俺の方はいつも下から数えた方が早かった。できる奴からすれば、鈍臭い俺はイジるのは、言わばストレス発散といったところなのだろう。
「見たくないなら、なぜわざわざウチに来たんだ」
「アンタを見に来たんじゃないのよ──あっ! 渡辺、ちょっといい!」
山里は俺の背後に向かって手を挙げる。振り返ると、これまた同期の生活保安課の渡辺を呼び止め、そちらの方へと走って行ってしまった。山里の後ろで黙っていた女の巡査は、ペコリとお辞儀してペア長の後を追う。
後で山里たちは何の用だったのかを渡辺に聞いてみた。
すると書類を作成していた手を止めてこちらを見た。
「ああ、こっちの管内に住んでる人をちょっと気にしてくれってさ」
「何だそりゃ」
「何でも山里の方の管内にある本屋で、婆さんが万引きしたんだと」
渡辺は手に持っていたポールペンのノック部分でこめかみをかいた。
「山里に言わせると、迎えに来た嫁さんが臭うんだと」
「臭う? どういう風に」
渡辺は「さあ」と首を捻った後、
「警察官の勘、なんだってよ」
と、笑った。
ちなみにその万引きをした婆さんと嫁の名前を聞いてみた。
「何だったかな……山のような書類を手探る。
どの机も同じだ。捜査に時間を取られるため、書類の整理がままならないのだ。
ようやくお目当ての書類を引っ張り出して来た渡辺はこう言った。
「姑さんの方は村田修子。嫁さんは美恵だな」
最初のコメントを投稿しよう!