1 夜の蝶とアングラのダンサー

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1 夜の蝶とアングラのダンサー

福原(ふくはら)、お客様来たから応接室にお茶出して」  課長に言われて、晴也(はるや)は給湯室に向かった。どこぞの食品輸入会社の社長と営業とか言ってたな。少し上等な茶葉を急須に入れた。  応接室で二人の男性に茶を出すと、営業事務である晴也は引き留められた。仕方なく課長の横に腰を下ろし、客の顔を長い前髪と眼鏡の間から盗み見る。  社長とおぼしき髪の薄くなった、だが上等そうなスーツに身を包んだ男が、フェアトレードの飲料やお菓子を取り扱っている自分の会社の話をしていた。左に座る営業担当は、晴也ほどではないが地味な男で、黒い髪に銀縁の眼鏡、濃紺のスーツと、日々晴也の会社にやって来る取引先の人間のプロトタイプである。ただ茶を出した時、晴也に会釈してくれたのは、何気に感じが良かった。  話は穏やかに(まと)まったようだった。晴也は遅ればせながら、客と名刺を交換する。よろしくお願いしますという以外、特に会話も交わさず、二人の客と課長を応接室の前で見送った。  晴也は終業後の飲みには滅多に誘われない。入社以来、陰キャで通しているからだ。これは案外便利で、おかげで晴也は適齢期を迎えている同僚の結婚式にも招待されないし、合コンの頭数合わせに駆り出されることもない。つまり、不本意に金を使わなくていい。  社内で自分が、陰気で人づきあいの悪い奴だと評価をされていることは、分かっている。晴也としては、仕事さえちゃんとしていればいいと考えている。営業課所属だが、事務なので外回りで愛想を振りまく必要もない。取引先の人間には、まともな電話対応や来客対応くらいしている。誰に文句を言われる筋合いも無い。  飲みに行く連中と少し時間をずらし、晴也はICカードをスキャンして退社した。今日は水曜日、……秘密のアルバイトの出勤日。山手線を途中下車し、急ぎ足でネオンがぎらぎらする繁華街に紛れ込む。晴也はここに来ると、視線を上げて、猫背を真っ直ぐにして歩くことができる。  小さな雑居ビルの薄汚いエレベーターホールに辿り着くと、ひとつ息をついて肩を上げ下ろしする。ここは俺が俺らしく振舞える場所。自分が自由に呼吸ができる空間に入る前の、小さな儀式だった。  4人しか乗れない小さなエレベーターを3階で降り、「めぎつね」のプレートがかかった重い木の扉を開けると、カラカラと鐘が鳴った。黒いドレスの女、いや、美しく装った男が笑顔で晴也を迎えた。晴也も満面の笑みで挨拶する。 「おはようございます!」 「ハルちゃんおはよう、今日もよろしく~」
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