終章、これからの話

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終章、これからの話

 平本が、櫂の研究ノートを熱心にのぞきこんでいる。途切れることなく会話が盛り上がっているのを、哉はいくぶん嫉妬しながら見ていた。 「すごいなぁ。これはすべて、玉乃井さんの経験知ですか」 「一応、栽培記録は毎年つけていますので」 「では、この獅子咲きの特性をもつ個体と、これをかけ合わせた結果はどうなりますか」 「私の経験では、系統が維持できるかけ合わせではないんです。ここにかけ合わせるなら牡丹咲きの系統ですね。この組みあわせは昔から確実といわれています」 「なるほどなるほど」  ――くそ、話についていけない。 「おい平本、ちょっと近いから離れろよ」 「なんだよ真木、邪魔しないでくれ」  平本はからかうようなまなざしで哉を見る。目がニヤニヤしていて気にくわない。平本は櫂に向き直って言った。 「玉乃井さん、一度、うちの研究室を見学にいらしてください。先生にも会ってほしい」 「私のようなものが役に立つでしょうか」 「あなたの育種記録は、りっぱな遺伝学の研究です。役に立つどころか、これは後世に残すべきものだ」 「そう言っていただけるとありがたいですが……」  櫂は照れてうつむく。哉が、平本を櫂からひきはがしながら言う。 「平本、櫂さんはここを離れて神戸に行こうとしてたんだ。お前も引き留めてくれよ」 「それはもったいない。ぜひ、ここにいてください」  平本が身を乗り出して、櫂の手を握りしめる。ふたたび哉が割って入った。 「だから……それは近すぎる」 「なんだよ真木、変なやつだな」  二人のやり取りを見ながら櫂は笑った。平本がさらに熱をこめる。 「もちろん、相応の研究費もお渡しすることになるでしょう。そうだ、少し前に発表された朝顔の遺伝子研究の論文があるんです。それも見てもらって、あなたの意見を聞かせてほしい」 「は、はい、私に分かるかな」 「それに」  平本が思わせぶりに言葉を切って、ニヤニヤしながら櫂と哉の顔を見比べる。 「おそらく、ですが。あなたにいてもらわないと、真木が落ち込んで使いものにならない」 「おい、平本」 「そうだろ? このところずっとお前の様子がおかしかったのは、玉乃井さんに捨てられかけていたからじゃないのか」 「……」  櫂と哉がそろって赤面する。平本が豪快な笑い声を上げた。 「アツいな」  ――私の新しい居場所が、ここにあればいいんだけど。  櫂はちらりと哉の顔を盗み見た。哉と目が合う。哉がふわりと笑った。  ――うまくいくかわからない。でも、自分で踏み出すときかな。  櫂の胸のなかに、初めて感じるような小さな決心が芽生えて、震えた。                 完
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