【序】

1/7
59人が本棚に入れています
本棚に追加
/910ページ

【序】

 蓮の花も満面に()んでしまう、まばゆい望月夜(もちづきよ)であった。  白光(びゃっこう)をあびる水辺の高殿(たかどの)で、朱塗りの欄干(らんかん)に腰かけた影がひとつ。  網代笠(あじろがさ)をまぶかにかぶり、ふちから(とばり)のようにおりた白い(たえ)の布が、音もなく風になびいている。  ひとたび重心を間違え落下しようものなら無事ではすまない蓮池を目下にしつつも、影の主はしゃんと背を伸ばして、あかるい夜のなかにあった。  後生大事に、ひと張りの琵琶(びわ)をかかえて。  白漆(しろうるし)の一面には、(あお)梅花(ばいか)螺鈿(らでん)細工がほどこされている。  雪のごとく儚い指が、銀色に月光を反射する弦を爪弾(つまび)く。  水面(みなも)に波紋をひろげるような、しめやかな音律。 「魔教(まきょう)の者だな」  ふいに、低い不協和音が背後にせまる。  右の頚動脈に押しあてられた無慈悲な感触は、硬い硬い鋼のものだ。  されど琵琶の音はやまない。我関せず、と。  これに、髭をたくわえた壮年の男は、つばを散らし憤慨(ふんがい)した。 「貴様! 楽人(がくにん)のくせをしてその耳は飾りか! 醜音(しこね)弾きごときが!」  いかに怒号が轟こうと、なにが変わるわけでもない。  池をかこむ枝葉は沈黙し、風は乱れない。水面の月影さえも。  ただ月と夜と琵琶の音だけが、凛然と存在する。 「よいか、俺が魔教だといったら魔教なのだ。来い、正派(せいは)にあだなす邪教のやからを罰してやる!」  つと、白雪の指が弦上にとめ置かれる。
/910ページ

最初のコメントを投稿しよう!