表紙

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 「なに読んでるの?」  彼女を見つけ、そう声を掛けた俺の声 は、老爺のようにしゃがれていた。  誰もいない廊下の片隅でひとり、 本に目を落としていた彼女の名は、 折原 蛍里。  その人が突然、本の世界から現実に 引き戻され、はっ、とこちらを見上げる。  彼女もささやかな入浴タイムを終えた ばかりなのか、肩口まで緩くウェーブし た髪が艶やかに濡れている。俺は肩に 下げていたタオルでガシガシと髪を拭き ながら、彼女の向かいの椅子に腰を下ろ した。  「これ、横川流星の『探偵のいう通り』 なんだけど、前に読んだのをもう一度読 み返してるの。研修の感想も書き終わった し、まだ消灯まで時間があるから。それに しても滝田くん、声、酷いね。大丈夫?」  心配そうに眉を寄せながらそう言った 彼女に、俺は「はは」と、質の悪いハス キーボイスで笑った。  昨日から大手飲食企業、サカキグルー プの新人研修に参加している俺たちは、 同じ班の仲間としてこの二日間を共にし ている。のだが……都心から大型バスで 二時間ほどの広い研修施設に連れてこら れた俺たちは、想像していたよりもずっ とハードな、“学生気分を抜くための新 人研修”を受けていた。  初日の昨日は、ほぼ「声出し」という 発声訓練で一日を終えた。部屋の端と端 に向い合せで並び、「いらっしゃいませ」 や「ありがとうございました」という 接客用語を、ありったけの声で叫ぶと いうものだ。各々、学生時代のジャージ に身を包みながら、両手を後ろで組んで 発声を続ける。  その光景は、研修と言うよりもひと昔 前のスポ根ドラマのようで、早々に心を 挫かれた同期が数人、肩を寄せ合い 「いつ辞めようか」などと話しているの を、脱衣所で耳にしたところだった。  「ちょっと、頑張り過ぎたかも。社会 人としてのやる気をアピールしたかった んだけど。他の奴らは、全力で声出して る“フリ”が上手かったな」  「ああ、あれね。上半身を思いきり 折り曲げて、『もうこれ以上は出ません』 って必死感を出すの。運動部だった人は、 コツを知ってたみたい。私は元々声が 小さい方だから、『本気で出してない!』 って、名指しで怒られちゃったけど」  不本意そうにそう言って、彼女が肩を 竦める。  俺は声が小さいと怒られながらも、 全力で訓練に取り組んでいた彼女の姿を 思い出し、目を細めた。  「早々に、『辞めたい』ってボヤいて る奴がさっきいたけどさ、何十倍という 倍率をくぐり抜けてこの会社に就職した んだから、この程度のことで弱音を吐い たら、内定とれなかった人たちに申し訳 ないよな」
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