あのさ

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あのさ

大学も夏休みに入り、久しぶりに帰ってきた息子、(げん)。 せっかく実家に帰ってきたというのに、弦はなぜか落ち着かない様子だった。 いつも帰ってきたら、昔からあるソファーに寝転がるのに、礼儀正しく座っている。 テレビも見ず、スマホも触らず。まるで誰かの家にお邪魔しているように。 「弦、どうしたの?何ソワソワしてるのよ〜」 私は弦に向かって、笑い混じりにそう言った。 「あの…さ」 ふと、弦が口を開く。 「話があるんだけど、いいかな」 元の顔は強張っていた。 …いい話じゃなさそうだな。そう、私は感じた。 「わかった」 私はそう言って、弦とともにリビングに向かった。 小さい頃、弦と姉の(かえで)と私と夫4人で座って食事をともにした机に向かい椅子に座った。あの頃のぬくもりは、少しずつ薄れていっていた。 楓は結婚と同時に引っ越し、遠い九州に住んでいる。 あまり連絡を取っておらず、私は夫と二人、静かに暮らしている。 「で、話って何?」 髪の毛を耳にかけながら、私は聞いた。 「…驚かないで聞いてほしいんだけど」 驚く?驚くことなの? 「あの…実は…」 弦は拳を強く握り、何か言おうとして詰まっている。 そして決心したのか、ふぅと一息をつき、顔を上げた。 「俺、彼氏ができたんだ」 思いもよらない言葉だった。予想以上で、頭の中にすら浮かばなかった言葉。 「…何知ってるの、弦」 私は驚きのあまり、一瞬頭が真っ白になった。 そんな、私の知らない間に弦が…何に影響されて…。 苦しそうな弦の表情。唇がかすかに震えている。 けど、今の私の気持ちには、『弦を思いやる気持ち』なんてなかった。 「何言ってんのか分かってるの弦!?今、自分が発した言葉がどんなことか分かってるの!?」 この気持は怒りじゃない、悲しみでもない、差別だ。 「そんな…弦はじゃない!ちゃんと、でしょ!?」 心に思っていた言葉たちが、遠慮というものを知らず次々に出てくる。 うつむいたままの弦に、少しずつ怒りが増していく。 「下ばっかり向いてないで!ほら、お母さんにちゃんと言ってよ!」 私ばかりが怒って、バカみたいじゃない。 「ねぇ!」 私は何を求めてるんだろう。弁解だろうか、冗談だろうか、真実だろうか。 すると弦は、ガタッと立ち上がった。その勢いで、椅子が倒れる。 「分かってるよ!自分が変なことくらい!常識に反してることぐらい! 分かってるよ…分かってるけど!」 顔を上げた弦の表情は、寂しそうに睨んでいた。 「少しでも母さんに分かってほしいよ!」 そう言って弦は、2階に上がっていった。 私はヘナっと、その場に崩れ落ちてしまった。 「わかんないよ…お母さんには。弦が大好きだよお母さんは。 だけど、わかんないよ」 かすかな声で誰もいなくなったリビングに、そう放った。
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