全部捨ててしまえばいいのに

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その光景を見た時、私は言葉を失った。 ここは私の家であって、もう私の家ではなかった。 マンションのエントランスはジャングルにある沼のみたいにぬかるんでいて、まるでマリオカートでよく出てくる泥のコースみたいだった。前に進もうとしても、一歩一歩が泥に沈んでしまい、上手く身動きが取れない。昨夜弟の彼女から借りた長靴は、埋まってすぐに見えなくなっていた。このまま身動きを取れずに、泥に沈んで死んでしまうかもしれない。そんな恐怖が私を襲う。 「ああ、早瀬(はやせ)さん!良かった無事で!」 泥に悪戦苦闘している私に話しかけてきたのは、白髪混じりのマンションの管理人だった。彼は泥に埋まりそうな私を両手で引っ張って、何とか身動きの取れる場所まで連れてきてくれた。この年配のどこにそんな力があったのかと驚く程、強い力だった。 「酷いですね・・・」 「地獄絵図ですよね。一階は全部ダメになってしまいました。お部屋に行かれるなら、こちらからどうぞ。こっちは泥かきが済んでますので」 管理人に案内されるまま、私はマンションの裏手に回った。建物の向きの関係なのだろうか、裏手はエントランスよりも泥が少なかった。裏口から建物内に入り、自分の部屋までの通路を進む。住み慣れて何千回と通った場所なのに、茶色く変色してしまっている床と壁に暖かさはなく、妙なよそよそしさを感じた。床の至る所には茶色い泥が積み重なっていて、本当にジャングルに来てしまったのかと思う程だった。壁をよく見てみると、上の方に茶色い線が残っている。ここまで水が来たということなのだろう。 これが夢であって欲しいと何度も何度も願いながら、私は自分の部屋の前に辿り着いた。 一〇八号室。十年程住んでいる、私の城。 残念ながら部屋のドアは、廊下の床と壁同様、茶色く変色している。表札には沢山の泥が媚びり付いていて、ミルクチョコレートで上からコーティングされたようだった。同様にドアノブも上からチョコレートをかけられたような色をしている。私は鍵を開けた後、大きく息を吸ってから気持ちを整えて、思いっきりドアノブを引いた。開けてはいけないと言われた玉手箱を開けようとしている、浦島太郎になった気分だった。しかし残念ながら、私がいくら引っ張ってもドアは開くことなく、どうしようかと途方に暮れる。
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