ケース1 単身世帯のOL

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ケース1 単身世帯のOL

 ピロリ。夜半過ぎ、照明の消えた室内で電子音が鳴る。家主の女は深酒により、スーツを脱ぎもせずベッドに倒れ込んでいた。やがて、暗闇で明滅するスマホの通知に気づくと、荒々しい手付きでロックを解除。  そこに浮かぶ一文に戦慄するとも知らずに。 ——私メリーさん。今あなたの家の前に居るの。  程度の低いイタズラだ。そう思ってスマホを投げ捨てようとしたのだが、その手は止まる。月明かりすら届かぬ廊下の方から、何か名状しがたい気配を感じたからだ。  足音はない。そのくせ誰かが居ると、本能がやかましく警告した。こちらに迫り来るような感覚すらある。身じろぎどころか、声すらも出せない恐怖に囚われる最中、場違いにもピロリと能天気な音が鳴り響いた。 ——私メリーさん。今、あなたの後ろに居るの。 ピロリ。 ——私メリーさん。ジャケットがシワになっちゃう。ハンガーにかけとくね。 ピロリ。 ——私メリーさん。部屋の中すごい散らかってるね。食器くらい片付けなよ。 ピロリ。 ——私メリーさん。流しが食器で満杯だ、洗っておくね。 ピロリ。 ——私メリーさん。食器用洗剤どこ? 新しいの開けちゃって良い? ピロリ。 ——私メリーさん。ごめんなさい、ちょっと失敗しちゃった。朝になれば乾くかな? ピロリ。 ——ご飯炊いとくね、さっきの失敗を挽回するから。期待しててよ。 ピロリ。 ——ちゃんとお米をシャコシャコ洗った、お水の量もばっちり、スイッチもオッケー。完璧だよ! ピロリ。 ——お姉さん毎日大変だよね。いい子いい子。その頑張りを一杯褒めてあげます。 ピロリ。 ——お姉さんは凄いんです。雨の日も風の日も働いて、毎晩遅くまで仕事して。もっと自分を甘やかしても良いのに。 ピロリ。 ——あれ。ご飯炊けてない、どうして? あっ、間違えて保温押してたどうしよう! ピロリ。 ピロリ。 ピロリ。  次に家主が目を覚ましたのは、朝日が室内を照らす頃である。平日、午前7時前。玄関や窓は問題なく施錠済みだ。  しかし、覚えがないのにチラシはまとまっている。妙に湿気のこもる台所では、洗い物の全てが完了していた。だが、洗剤が落ちきっていない事に気づき、仕上げの作業としてすすぐ。そして炊飯器。こちらの中は炊きたてご飯が湯気を上げるが、いかんせん水の量が多すぎる。そのせいで、おかゆにも似た質感を目の当たりにした。  海苔で描かれた「ゴメンネ」の文字とともに。  椀に盛って頬張る。水分が多い、しかし温かい。舌先が焼けるような想いとともに全てを飲み込み、ジャケットに袖を通した。そして「今日もやるか」と、彼女は今日も雑踏の中へと埋もれていった。
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