私の気晴らしは、

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 悲鳴が聞こえた。  振り返ると道の先で何が蠢いていた。点だったそれは徐々に線になり、そしてさらに近づいてくるとたくさんの人の群れだということがわかった。  不思議なことにどの人も必死の形相だ。しかも走っている。構成する人々はさまざまで男もいれば女もいるし、若いのもいれば年寄りもいる。  一体、何の集団なんだろうか。まったくわからない。ただ、さっきの悲鳴は彼らだろう。なにせ、今現在、彼らは悲鳴のような叫び声を上げながら全力疾走しているのだから。  一個の濁流のようになった彼らは道幅いっぱいにこちらに押し寄せ、私を通り越して行く。まるで川の中にある大きな岩の気分だ。 「あんた、早く逃げな!」  呆然と立ち尽くす私に、濁流の中の一人が声をかけた。スーツを着たサラリーマン風の男性だった。 「何が──あったんです?」  私の問いかけに男性は息も切れ切れ、走ってきた方向を指差す。 「この先の工場で火災が発生したんだよ。爆発するかもしれないから早く逃げなさい!」  男性はそれだけ言うと、再び濁流の中へ戻っていった。  どうりで、と思った。どうりで向こうから走ってくる人が必死な形相な訳だ。なるほど火災だったのか。  私の中にあった疑問が氷解していく気分だった。火だけに。  それに、この先の工場というと私が先日、解雇を言い渡された工場ではないか。  昨今の不景気が──だとか、業績悪化のための人員整理が──だとかもっとらしいことを言っていたが、たまったもんじゃない。こちらにだって生活がある。不景気ならなおさらだ。そんな簡単にクビにされては困るのだ。  もちろん私だって、「はい、そうですか」と受け入れたわけじゃない。抵抗はした。いや、懇願といったほうが正しいかもしれない。  とにかく私は、なんとかならないでしょうかと必死に頭を下げた。今クビにされると困るんです。私にも生活がありますし、なんとかならないでしょうかと。  だか、やつらは薄笑いを浮かべて言ったのだ。これは決定事項だと。まるで虫ケラを見るような目をしていた。あいつらにとって私は虫ケラ同然だったのだ。  ああ、気分が悪い。せっかくさっき晴らしたばかりだというのにのにまた怒りが、メラメラも再燃し始める。  まあ、いい、と私は溜飲を下げた。きっと火災で工場のやつらは相当困ったことになってるだろう。それを考えるだけでも少しは気が晴れる。  それに私もこんな所でうかうかしていられない。あそこは可燃性ガスを取り扱っている。もしそれに引火でもしたら大惨事は免れないだろう。ここも危ないかもしれない。あの男性が言うように私も逃げることにしよう。  私はライターを懐に隠すと、何食わぬ顔をして濁流の一員となり走り出した。
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