二章

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 翌日、目をさましたワレスは、全身の血が凍りつくような気分を味わった。  目の前に見知らぬ男が立っている。朝のまぶしい光が窓からさしこむ室内が、暗い瘴気(しょうき)でゆがんで見えるほど、不吉な姿——  ワレスは起きあがろうとして、激しいめまいに襲われた。 「思ったとおり、おまえの血がもっとも口にあう。よい血だ」  ごくふつうの人間の声だった。言葉も、ワレスたちが使う現代ユイラ語だ。それを瘴気の人物が発した。  彼が魔族であることは、ひとめでわかる。  顔立ちはユイラ人に似ている。冷たく整った面ざし。細身で、すらりとして、身長はワレスより高い。ワレスもユイラ人の成人男子の平均より上だが、その男はかなり大きい。  その身長と同じ長さで、金箔をそのまま()いたような見事なブロンドが、くるぶしまで流れていた。琥珀色の瞳。金色のまつげ。  それでいて、彼の肌は黒曜石よりまだ黒い。闇そのものだ。  彼が異様に見えるのは、口をひらいたとき見える口中も、舌も、手のひらも、体じゅうすべての皮膚が黒いことだ。  その黒い口のなかに、瞳と同じ色の歯並みがのぞいている。歯は琥珀色。するどくとがった犬歯はあきらかに肉食獣の特徴だ。 「昨夜まで影にすぎなかった私だが、おまえのおかげで実体になれた」  ワレスは首すじに手をあてた。昨夜、意識を失う前のことを思いだしたのだ。  彼が薄く笑う。 「傷あとは治しておいた。おまえにはまだ働いてもらわねばならん」 「おまえは……」 「私の名はアンドソウル。もっとも人間どもが私を呼ぶためにつけたものだ。ほんとの名ではない。が、おまえにはこのほうが呼びやすかろう。さあ、ここへ来て、私の手にくちづけるがいい」  ワレスはためらった。  これはただの魔物ではない。  一年近い砦の生活で、何度も遭遇した魔物のなかには、この目で見なければ、ワレスだってそんなバカなと一笑に付すだろう人間離れした姿のものもあった。が、それにしたって、今この目の前にいる人の姿をした美しい魔族ほどに、強い圧迫感と禍々しさを感じた魔物はなかった。ふれてはならないものだと、痛いほど肌で感じる。  ロンドは彼を魔神と言った。  そう。彼は神なのだ。神の力を有する魔。 (なぜ、そんな魔神がとつぜん、おれの夢に……)  ワレスの考えを、魔神は読んだ。 「おまえの声が私を目覚めさせた。おまえが、私を呼んだのだ」  ワレスは舌打ちした。 (おれの心中など、つつぬけというわけか)  二人——一人と一柱——の話し声を聞いて、ハシェドたち三人が起きてくる。ひとめで魔族とわかる男を見て、三人は砦の兵士として当然の行動をとった。つまり、いきなり剣をぬいて切りかかった。  ワレスが傷つけるのは契約違反だ。が、部下たちが勝手にすることは、その範疇(はんちゅう)ではない。あるいはこれで救われるかもしれないと、一瞬、ワレスは期待した。  だが、しょせん一瞬だ。  次の瞬間、黒い肌と金色の髪の魔神は、指一本、眉一筋動かすことなく、見えない腕でなぎはらうように、三人をはじきとばした。 「部下のしつけがなってないな。おまえのあるじである、この私に刃をむけるとは」  三人が床の上で苦しみだしたので、ワレスは懇願した。 「やめてくれ!」  ニッと、アンドソウルが金色の牙をのぞかせる。 「では、接吻しろ」  ワレスは寝台をおりて、彼のもとにひざまずいた。黒大理石のような手をとり、くちづける。アンドソウルの顔に満足げな表情が浮かぶ。ハシェドやアブセスが苦しむのをやめる。 「隊長……」  困惑しきった表情で立ちあがってくる。 「どういうことですか?」 「そいつは、どう見ても……」  ワレスは唇をかんだ。 「すまない。事情があって、おれは彼の下僕になってしまった。背中の文字が契約の証だ」 「なんですって?」 「おれだって不本意なんだ。だが、盟約あるかぎり、逆らえない」  三人は言葉を失った。  あたりまえだ。尊敬していた上官が、昨日までからこそ祖国を守るために戦ってきたというのに、魔物の手下になってしまったというのだから。  ワレスたちが話すようすを、アンドソウルは冷酷無比な微笑でながめている。 「それが、おまえの気に入りの部下か。ならば、その三人だけはすぐには殺すまい」  カッとするハシェドを抑えて、ワレスは言った。 「おれの部下には手を出すな」 「それが、おまえの願いか?」 「なんだと?」 「おまえの部下を殺さないこと。それが、おまえの願いかと聞いたのだ」  ワレスはダグラムの言葉を思いだした。悪魔は必ず契約のときに見返りを払うという。  では、ワレスに対する見返りは、まだ支払われていないのだろうか? もしここで「はい」と答えれば、それが見返りになってしまうのだろう。そうなると、二度とワレスに契約を破棄することはできなくなる。ワレスは黙りこんだ。 「ならば、かまわぬな? 私は渇いている。血が欲しい」 「おれに、どうしろと……」 「私のために新鮮な血を用意するがいい」 「そんなことはできない」 「不服従は契約違反とみなす」  ワレスは悲痛な思いで部屋を出た。廊下で最初に会ったのは、ユージイだ。以前、木霊の事件のとき、ワレスの部下になりたくて、わざわざ安全な正規隊から傭兵部隊に移ってきた。今ではすっかり、がらの悪い傭兵たちにとけこんでいる。 「ワレス隊長。どうした? 顔色が悪いね」  ユージイが声をかけてくる。  ワレスは無言で彼に手招きした。 (よせ。絶対、後悔する。おまえは後悔するぞ。ワレス)  しかし、もしここで、ワレスが生贄をつれていかなければ、どうなるだろう。アンドソウルは『今は殺さない』と言った。ハシェドたちを、と。裏返せば、いつかは殺すかもしれないということだ。 「よくやった。わがしもべよ」  室内に入ったユージイは、満面の笑みでワレスを迎えるアンドソウルを見て、ギョッとした。だが、どういうわけか、次の瞬間には自分からフラフラと魔神にむかって歩みよっていく。目の色がふつうでない。あやつられているのだ。 「ユージイ!」 「やめろ、ユージイ!」 「ワレス隊長、止めてください!」  ハシェドたちが悲鳴をあげる。  ワレスだって、できるものなら、なんとかしてやりたい。  あやつられるままに近づいていくユージイが、まるで抱きあうようにして、アンドソウルの牙にかかるのを、ワレスは歯をくいしばって見ていなければならなかった。 (ゆるしてくれ。ユージイ)  たとえ誰かを犠牲にしてでも、ハシェドだけは守りたい。  このおれを身勝手とそしるなら、そしるがいい。それでも、おれはすてられない。ハシェドへの気持ちを。  アンドソウルが手を離すと、ユージイの体はゴトリと床に落ちた。冷たい(むくろ)となったユージイを、ワレスは見つめた。
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