二章

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「それなら、おまえ、もう一年になるんじゃないか? おれより一、二ヶ月は早く砦に来ていたよな?」  ワレスがボイクド砦に来たのは、去年の風の月。あと二ヶ月ほどで一年になる。 「はい。先月いっぱいで一年です。でも、ワレス隊長の下でなら、もう少しいてもいいかと、近ごろは思っております」  アブセスは自分と同時期に入隊しながら、たった三月で小隊長にまで昇進し、その後も数々の武勲(ぶくん)をあげるワレスを、英雄のように思っている。嬉しげに頬を染める青年を見て、ワレスは顔をしかめた。 「砦は辞められるうちに辞めておくものだ。一年と区切りをつけたなら、そこできっぱり辞めておけ。ずるずる日伸ばしにして死んだらどうする?」 「は、はい……ですが……」  アブセスはワレスにひきとめてほしそうに、うるんだ目で見てくる。しかし、ワレスは首をふった。 「今日が無事だったから、明日も命がある保証はない。おれのために死なれでもしたら、寝覚めが悪い」  アブセスはショックを隠せない。うつむいて黙りこんだ。 「アブセス。隊長はおまえのことを案じていらっしゃるんだ」  ハシェドの言葉にうなずきはするが、すっかり気落ちしている。  そんなことがあったからだろうか。夢を見た。  廊下をアブセスとクルウが歩いている。 「そりゃ、おれは腕だってよくないし、機転もきかないよ。洗い物するくらいしか能はないさ。でも、おれだって、ワレス隊長のお役に立ちたいんだ」  ワレスとハシェドが二人で行動することが多いので、同室のよしみもあり、アブセスはほとんどのときをクルウとすごしている。クルウはワレスよりいくらか年上だ。アブセスにとっては、物静かな兄貴ぶんというところだろう。アブセスの口調も、ワレスに接するときとは違っていた。 「おれがいなくなったら、誰が隊長の服を洗うっていうんだ? 隊長のは上等な絹が多いんだぞ。エミールなんかに任せたら、一回でダメにしてしまうんだ」  クルウは少し苦笑する。 「だが、隊長のおっしゃることは正しい。故郷で待ってる家族がいるんだろう?」 「わかってはいるさ。今日まで、おれが生きていられたのは、多少の運と、クルウや隊長のおかげさ。二人の言うことを聞いていれば、安全だった。でも、悔しいんだ。肝心なときには、いつもおれは勘定に入ってなくて……どうせ、隊長に信用されてないんだ」 「それは違うな。私と君なら、君のほうを小隊長はお気に入りだ。あの人は大事なものほど自分から離そうとするクセがある」 「そうかな……」  アブセスはクルウの言葉を信じられないようだ。だったら、ハシェドはどうなんだという顔をしている。  クルウはワレスがハシェドを好きなのに、わざと遠ざけようとしたことがあるのを知っているから、そう言うのだ。クルウの洞察力はするどい。 「せめて、たった一度でいいから、隊長のためになることをしたいなぁ」  アブセスが子どもみたいに口をとがらせる。  ——よせッ。アブセス! おまえのかなう相手じゃない!  とつじょ場面が暗転して、血まみれのアブセスの顔が目のなかに焼きついた。  ワレスはとびおき、そこが自分たちの寝室であることを知る。夢だったのだ。アブセスもクルウも、ちゃんと自身の寝台で眠っていた。  ワレスは深く息をついて、もう一度、寝具に倒れこむ。 (どうも夢見がよくないな)  時間はわからないが、まだ真夜中のようだ。廊下を見まわる足音がしている。ワレスたちのいる内塔五階の担当は、ジョイスとダウナンのはずだが、足音は一つだ。  なんとなく寒気がしたのは、予感だったろうか。  ワレスは寝台に半身を起こして待った。  足音が、ワレスの部屋の前で止まる。  いざというときのために、つけっぱなしにしているランプが、異様な影を絨毯(じゅうたん)の上に作っていた。まだ扉もあいていない。それなのに、扉のむこうに立つ人物の影が、異常に長く床に伸びている。それも、扉の正面に置かれたランプの位置なら、もし影ができたとしても、室内ではなく、廊下にできるはずなのだが。  影絵のようにその影が動いて、室内に足をふみいれてくる。  まだ扉は閉まっている。動いているのは影だけだ。髪の長い、長身の男のようだ。黒い影はゆっくり室内に入ると、まっすぐに、ワレスのほうへ……。  影がコウモリのように空中を舞った。  それが目の前に迫ったとき、ワレスは現実に誰かに体を押さえつけられていた。目には見えない。が、何かいる。重い圧迫がのしかかってくる。 (ウワサの魔物だ!)  直感して、ふりはらおうとする。枕元の剣をつかもうとして、ワレスは雷に打たれたような気がした。頭のなかで声がする。 《おまえは私の下僕だ。抗ってはならない》  では、これが、おれのマスターなのだ。  目を閉じると、彼の姿がおぼろに見える。金色に輝く小さな……。 (なん……だ? これは)  どこかで見たことがある。これがなんなのか、ワレスは知っている。  もっとよく見きわめようとした瞬間、彼の牙が首筋におりてきた。ワレスは意識を失った。
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