三章 恋人役のレッスン

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 グレースは自分のことを、「並外れて厳しいことで有名」だと話していた。  けれど彼女は決して声を荒げることもなければ、罵る言葉を使うわけでもない。罰を与えることもしない。  彼女の厳しさとはそういうことではなく、恐ろしいほどに要求が高いのだ。  わたしは全身が映る大鏡の前で、おかしな汗をかいている。もう三時間も、自分の姿を見続けている。  立った姿勢。お辞儀。軽い会釈。微笑。破顔。話を聞く態度。頷き方。話す態度。会話を切りあげて去る態度。歩き方。  グレースは事細かに要求してくる。それも繰り返し、何十回も。  お辞儀で合格点をもらったとしても、三十分後にまたお辞儀をさせられ、「身についていない。やり直し」と淡々と告げられ、再度合格点をもらえるまでお辞儀の練習をさせられる。  細かすぎるダメ出しを受けるのはいい。精神的ダメージはない。  けれど体力と筋肉は限界だった。頬の筋肉が痙攣して、うまく笑えなくなってしまった。  ぎこちない作り笑いしかできなくなったわたしに、グレースはため息をついた。 「これ以上やっても質が下がるだけ。このレッスンはここまでにしましょう」  ようやく休憩できると喜んでいると、グレースは恐ろしいことを言った。 「昼食の席で、テーブルマナーのレッスンをします。それが済んだら、庭を散歩しながらの会話と歩き方の練習。その後、エルニシア語の勉強。夕食後は国際情勢を学びましょう」 「……盛りだくさんですね……」 「嫌ですか?」 「全然っ! 嬉しいです!!」 「嬉しいと言うわりには、顔が引き攣っています。言葉と表情が一致していません。歴史の勉強をした後に、表情筋のレッスンを加えます」 「はい……」  余計なことを言わなければ良かった。グレースは、どんな些細なことでも見逃してくれない。  わたしは疲労した頬の筋肉を揉みながら、食堂へと向かった。  わたしは学生時代、エルニシア語の勉強をした。だから日常会話程度なら、エルニシア語の読み書きができる。  そういうわけで、自信を持ってエルニシア語のレッスンに臨んだ。 「先生、この本は……」 「エルニシア王室の歴史について書かれた本です」  難しい用語がふんだんに使ってある専門書を前にして、わたしの自信はあっけなく吹き飛んだ。  さらには、勉強する姿勢を注意された。骨盤を立て、背筋をピンと伸ばし、足を揃えて座る。ペンを動かす、その所作にも指導が入った。  いっときも気が抜けない。緊張を解く暇がまったくない。体と心に疲労が溜まっていく。  わたしの字を見たグレースの眉間に皺が寄った。 「なんとも可愛らしい字ですこと。学生気分が抜けていないようです。成熟した大人の字をマスターしてもらいます。字の練習の宿題を出しましょう」 「……はい」 「嫌なら、やめてもかまいませんが?」 「いいえっ!! やめません。頑張ります!」 「口だけならなんとでも言えます。行動を伴わない言葉に意味はありません。エルニシア語の語彙力を増やすために、単語帳を作ってください。いくつ書きますか?」  グレースはエルニシア国語辞典を捲りながら、聞いてきた。  わたしは深く考えることなく、「百個にします」と答えた。 「わかりました。今から三十分間、時間をあげます。辞典の中から知らない単語を百個選び、単語帳に書き写してください。それを今日中に覚えること。明日試験をします。スペルと意味を覚えるように」 「明日ですかっ⁉︎」 「なにか不満でも?」  初めに試験の話をしてくれたら、三十個にしたのに……と恨みがましい気持ちになる。  けれど、決して弱音を吐かないと宣言したのだ。言葉も疲労も飲み込んで、「頑張ります」と答えた。  翌日の試験は、九十点。間違えた十問を、グレースは咎めることはしなかった。けれど、「辞典から、単語を九十個選びなさい。その九十個と間違えた十個の単語で、明日試験をします」と告げられたのだった。
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