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1.処女喪失大作戦
「――うち寄ってく?」
森瀬夏希がその言葉を口にすると向井朝陽の体があきらかに強ばるのがわかった。
湿気を孕んだ夏の夜の空気。夏希が向井の手を取り引っ張ってみると、さしたる抵抗もなく彼の体が傾く。
いつもなら、マンションの前まで送ってくれた後、決して足を踏み入れることのない敷地に向井の靴跡が記された。
「散らかってるけど――お茶だけでも飲んでって」
「ん」
別の魂胆があるせいか饒舌になる夏希とは反比例するように向井は寡黙だ。
ワンルームの狭い玄関で靴を脱ぎ、リビング兼ダイニング兼寝室に案内する。シングルベッドの前に置いた低いテーブルに座るように促すと、向井はやはり素直に従う。
クーラーをONにしてから、夏希は彼の横に座った。
「暑いねえ。梅雨開けしたらいきなり暑くなったよね」
無言――――――
何かしゃべってよ!
とうとう夏希は心の中で悲鳴をあげた。
おかしい。
綿密に計画した夏希の処女喪失大作戦は彼を自宅に招き入れればほぼ完遂するはずなのに。
その計画によれば、ちょっと水を向ければ向井は喜んで体を差し出してくれることになっていた。
なんせ向井は夏希のことが好きなのだから。
『男も緊張してたらいつも通りにはいかないかもよ』
同期の林みやびの言葉を思い出す。みやび曰く、男性だってこういう時は緊張するらしい。
『そういう時はプランBよ』
こんなにも早くプランBを発動することになるとは。
夏希は意を決して、眼鏡を外し机の上に置いた。
ぴくりと向井が反応するが、視界がぼやけてよくわからない。
それからそっと向井の手を握った。今度は大きな反応が得られる。それに安心し、さらに彼のごつごつした指の間に夏希の指を絡ませると、向井は肩で大きく息を吸い込み、循環された呼吸を盛大に吐き出した。
「向井くん――」
これでプランBは完了。
向井のドキドキが伝わってきているのか、夏希の鼓動も最高潮に高鳴っている。
私、これから向井くんに抱か――ぼんやりした視界の向こうで向井が口を開く。
「――お茶は?」
「え?」
「お茶を飲みにきたから」
向井が居住まいを正し、さりげなく手が解かれる。
「ああ、ご、ごめん、お茶だよね」
夏希の位置から膝で数歩も行けばミニ冷蔵庫にぶつかる。冷やしておいたお茶のペットボトルを出し渡すと、向井はそれを開封するなり一気に呷った。
まるで早飲み競争みたいにごきゅごきゅと音を立てて、向井の喉が上下に動き、トンッと軽い音と共にテーブルの上に空のペットボトルが置かれる。と同時に彼は腰を上げた。
「ご馳走様。じゃあ俺はこれで」
「え、帰るの?」
「お茶は飲んだから――」
呆然とする夏希を残し、向井はドアの向こうに消えていった。
もしかして私、嫌われたーー?
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