薔薇の下の奴隷

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薔薇の下の奴隷

 アンネリーゼ様がティーカップに指をからめる、その仕草を見ていた。  みつめるネロに気づいたのか、彼女は向かいの席でくすっと笑った。  ネロが幼い頃、アンネリーゼ様は後宮にお住まいだった。皇帝陛下の寵愛を一身に受け、そのお姿を人目にさらすことさえ皇帝陛下は許さなかった。  彼女の関心が自分以外に向かないよう、陛下は生まれてきた御子さえ遠くの地へ養子に出したと噂されていたが、近しい者はそれは陛下の夢想でしかないと知っていた。  アンネリーゼ様は潔癖な御方で、六十を超してなお十代の少女に劣情を隠せない皇帝陛下を心底嫌っていた。陛下との情交の後は凍るような水に何時間も浸って、もし御子ができたのなら自ら命を絶ってしまわれただろう。 「ネロ、パンくずがついているわ」  ネロがお姿を知ることができる頃には、アンネリーゼ様は人里離れたこの館に居を移されていた。  アンネリーゼ様は指先でネロの口元を拭う。その冷たいお手は、そのままネロの唇をなでた。 「もう十六なのに。いつまでも子どもみたいな方ね」  無遠慮にみつめるネロを見つめ返して首をかしげる、そこに悪意はない。  アンネリーゼ様は少なくとも三十を過ぎる年齢であられるのに、今も少女の時をまとう。うるんだ青い瞳は何も知らないように微笑をたたえる。  そんなはずはないと、ネロは異を唱えられない。  庭先に小鳥が迷い込むくらいしか来客はない、館の周り一面を薔薇が囲むこの離宮。  不意に迷い込んだ幼いネロの唇をその唇で食んで、可愛い子とアンネリーゼ様がささやいた日を、ネロは忘れてはいない。 「ご結婚から一月、経ったかしら。ご夫君はあなたをよく労わってくださる?」 「ええ……」  既に皇帝陛下は他界し、ネロも夫を持つ年に成長した。けれどアンネリーゼ様と向き合いここに座ると、自分はまだほんの五歳の幼子のような気がしてくる。 「体を冷やさないようにね。大切な御体よ」  ほんの近しい者にしか伝えていないのに、どうしてアンネリーゼ様には伝わっているのだろう。ネロもまた、夫との情交の後は凍るような水に何時間も浸っているということを。  夫は優しい心根の人で、ネロも心を通わすことができると信じたから身を許したはずなのに、その種が自分に宿ると思うだけで吐き気がしてしまう。  食んでほしい、蝕んでほしい。乞うように願っているのは、今もアンネリーゼ様の繊細で残酷な唇だけなのだ。  代理帝と呼ばれる夫、先帝の唯一の皇女であるネロが一日も早く御子をさずかることを人々は望んでいる。  けれどネロはただ月に一度、皇宮から離れてアンネリーゼ様のお茶会に呼ばれる日だけを心待ちにしている。  ネロが父から受け継いだのは帝位ではなく、アンネリーゼという本名と、呪いのような寵姫への愛に違いなかった。 「迎えが来たようね」  アンネリーゼ様は馬車の音を聞きとがめて、少しだけ寂しそうにネロを見る。  ネロの前には、一口も口をつけなかった紅茶のカップが置いたままだった。  ここはいつも薔薇の香りがむせるように漂っていて、ネロには紅茶の香りがわからないから。 「おいで」  アンネリーゼ様は手を差し伸べてネロを呼んだ。  その膝元にひざまずいて目を閉じたネロは、自分を縛る人から口づけを待つだけの、ただの奴隷の少女に過ぎなかった。
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