私を元気にして

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私を元気にして

 初夏を迎え、これから暑さが増すだろうそんな季節。夜になれば冷えたビールで喉を潤そうと考える者も多い。それを証明するように、複雑な店舗群を形成した繁華街には、週末ともなればスーツ姿のサラリーマンや学生と思われる者たちの姿があった。  そのなかで田口はワックスでたてた髪と、Tシャツにカーゴパンツという出で立ちで人波に溶け込んでいた。かく言う田口も、ゼミの友人と二人で飲みにいく約束をしているのだ。だが田口は、楽しそうに行き交う人々の中にもう三十分近く一人で立ち続けている。それでも彼の連れは一向に現れる気配がない。  人が多すぎて見つけられないのか。それとも、待ち合わせの時間か場所を間違えたのか。  田口の脳裏を次々に疑問が通り過ぎる。田口はズボンのポケットからスマホを取り出し、約束のラインを探した。見つけたラインには、確かに「池田駅四番出口に八時半」と書かれている。  田口は、ディスプレイから顔をあげ、もう一度辺りを見渡した。やはり待ち人の姿はない。冷たいビールのお預けをくらって三十分も経てば、イライラも最高潮に達するというものだ。背中にはじんわりと汗すら浮かんでいる。 「ったく……」  とうとう耐え切れずに悪態を吐いて、田口はラインの通話ボタンを押した。十コール目でやっと繋がる。 「はいはい、何の用だ、田口」  いたく呑気な声が返ってきて、田口は眉間に皺を寄せた。 「遅い。いつまで待たせる気だよ」 「待たせるって、今日何か約束してたか?」 「八時半から池田で飲む約束してただろうが」 「それ、来週じゃなかったか……」 「お前、確かにラインに二十五日って書いあったぞ」 「あー」と間延びした声に続いて、「なんて言うか、悪い。来週だって勘違いしてた」と相手は言う。   田口はその後ろで、「悠斗」と友人の名を呼ぶ女の声を耳にした。嫌な予感がして、田口はさらに眉間の皺を深くする。 「お前、今どこだ? 家か?」 「いや、それが、今彼女と飯食いに出ててさ」  自分は暑い中三十分以上も待ちぼうけをくらっていたというのに、その間彼女と楽しく食事をしていたとはいい御身分だ。  田口は怒りが込み上げてくるのを感じ、思わず奥歯を噛み締めた。その拍子にぎりっと歯が鳴り、電話越しにもその怒りが伝わったのだろう。相手が慌てているのが気配でわかる。 「悪かったって、今度昼飯奢るからそれで勘弁してくれ。じゃあな」  と誤魔化すように謝罪を口にして、田口がその怒りを口にする前に相手は電話を切ってしまった  田口が耳から携帯を離すと、ディスプレイに表示された通話時間だけが空しく現実を伝えている。田口は深く溜息をついた。  このまま帰るにしても気持ちが収まらない。それに父には今日の夕飯は必要ないと伝えてある。帰ったところで夕食にありつけないのは明確であった。こんなことなら一応準備しておいてもらえるように伝えておくべきだった、と田口は肩を落とした。  三年前に事故で母を亡くした田口は父と二人暮らしであるが、父が料理に凝り始めてからは、それなりに父の夕食を楽しみにしている。父が作るのは豪快な肉料理が多かった。いわゆる男飯だが、夏バテ防止には有難いものだ。田口はそれでも時々、母の味が懐かしくなる。母は和食や洋食、中華を始め、お菓子に至るまで何でも手造りにこだわっていた。  そういえば、この時期はルゥから手造りしたチキンカレーをよく作っていたな、と田口が思い出せば、鈍い音の尾を引いて腹が鳴った。どうせ帰ったところで夕食が準備されていない以上、ここで食べて帰るほか仕方がない。亡き母のカレーは無理でも、どこかに美味しいカレー屋はないものか。田口は、人の流れに沿って繁華街を歩き始めた。  池田の繁華街は、市役所へと続く大通りに平行するように伸びている。大通りには、十数階建てのオフィスビルが街灯の光を反射させて建っており、その合間にデパートやブディックも多く存在している。そのためにそちらは洗練された雰囲気を醸し出しているのに対して、一本横道に入ると居酒屋やゲームセンターの入った雑居ビルが立ち並び、こちらはまるでおもちゃの街のようだった。その上繁華街の道幅は狭く、一般車両は大通りを通ることが多い。そのためこの時間帯は、ほぼ歩行者天国と化していると言ってよかった。さながら、こちらの通りを行き交う人々はおもちゃに群がる子供達だろうか。自身のことは棚に上げて、田口はそんなことを思った。  通りを行く人々は頬を上気させて楽しそうに笑い声をあげている。そんな姿を横目に捉えながら、田口は店々の掲げる看板を辿った。 「ここらにインドカレーの店があったはずだけど……」  足を止め田口が頭上の看板に目をやった瞬間。 「急に止まると危ないぞ」  肩に衝撃を感じて、背後から不機嫌な女性の声が響いた。田口が慌てて振り返れば、そこに立っていたのは、日本人の顔立ちの中に西洋人の血を思わせる美しい女性だった。  歳の頃は二十七、八歳といったところだ。柔らかなそうな栗毛を後ろ手に結いあげて、黒い綿のパンツに白いシャツという出で立ちをしている。買い物袋を持っていることから、どこかのカフェの店員が使いにでもでていたのだろうか。田口は、彼女の恰好からそう憶測した。 「なあ、聞こえてるか?」 「すいません!」  彼女の姿に見惚れていた田口は、その声に意識を引き戻された。謝罪を口にして、道を開けるために田口は身を捻る。その拍子に意図せずお腹が高い音をたてた。音が溢れるこの場所であっても、流石にこの距離では隠しようがない。田口の横を通り過ぎようとした彼女は、足を止め、その琥珀色の目を瞬かせた。それから田口の姿を足先から頭までまじまじと観察して、何かに納得したようにふうと深く溜息をついた。 「お腹が空いているのかい?」  田口は恥ずかしさに、頬が熱くなるのを感じた。  何もこんな美人の前で鳴らなくてもいいだろうに。田口は誤魔化すように、苦笑いを浮かべるのがやっとだった。これで彼女が何事もなく去ってくれれば、田口もこの失態を忘れられるだろう。  だが彼女は、そんな田口の様子を肯定ととったようだった。驚いたことに、彼女は開いた方の手で田口の手を取ったのだ。 「お腹が空いているんだろ。うちの店にくれば、ご飯くらい食べさせてあげよう」  そう言って彼女は、その細腕からは想像できないような強い力で田口の腕を引いた。田口にその力に反発しかけて、急に肩の力を抜いた。下手に反発して怪我をされても困るし、よく考えればこの美人の誘いを断る理由などない。  明日友人に自慢してやろう。腕から伝わる体温に、田口は先程約束をドタキャンされたことなどすっかり忘れ去ってしまう。ほろ酔い気分のように軽い足取りで、彼女に腕を引かれるまま田口は歩きだした。  人の合間を縫うように歩く。彼女の足取りは軽く、田口は付いていくのがやっとだった。道順など確認する暇もなく、気づいた頃には目の前に見慣れない扉があった。浮かれていたために正確な場所はわからない。しかしながらどうやらここは繁華街から少し外れた場所にあたるらしい。その証拠に、先程まで聞こえていた機械音や人々の笑い声は、建物を隔てて遠くに感じられる。あれだけ明るかった照明も、申し訳程度の街灯と店の入り口を照らす暖色灯だけだ。  いや、正直なところ、田口はその店の入り口を見て固まってしまっていた。そこを店と呼んでいいのかすら、田口にはわからなかった。  ビルとビルに挟まれたそこには、白塗りの壁に木目調の扉がぽつんとあるだけだった。白塗りの壁には窓すらなく、中の様子をうかがうことはできない。そこが彼女の働く店だと言われなければ、きっと存在すら気づかなかっただろう。明らかにあの繁華街に建つ他の店とは違う。常連客だけが通う、秘密の隠れ家のような雰囲気が漂っている。  こんな店の食事代が払えるだろうか――田口は好奇心に混じって、不安が込み上げてきた。店内に入ってみたい気もするが、やはり不安が先行してしまう。  田口が言葉を失くしていると、その様子を見て案内人は笑った。 「心配しなくても、普通の値段の店さ。それにあんたみたいな学生からぼったくろうなんて考えてないから」 「ここは何の店ですか?」 「カフェ・アンジェ。私の自慢の店さ」  そう言って彼女は、扉に同化するように掲げられていた木製のプレートを表に向けた。  そこに綴られていたのは、カフェ・アンジェという文字と――。 「思い出の味お届けします?」  田口は店名と共に綴られた言葉を声に出して、首を傾げた。 「思い出の味の料理を作ってくれる場所、ってことなのか?」 「さぁて、ね。何はともあれ、店内にどうぞ、お客さん」  彼女が鍵穴に金色の鍵を差し込めば、小さな金属音がして、恭しく扉が開かれる。次の瞬間、田口が目にしたのは、白と木目で統一された落ち着いた空間であった。  向かって右側にはケーキの入ったショーケースが配置かれ、その奥には木製のカウンターが続いている。カウンターの背にはカップや茶葉がきれいに並べられた戸棚があり、店主の几帳面さを表しているようだった。  だが田口が案内されたのは、そんなカウンターではなく、左側のテーブル席である。数段低くなった位置に広がるフロアには、木製のテーブルと白いソファーのセットがざっと六つは並んでいる。  その中の一つに腰掛けた頃には、田口は幾分か落ち着きを取り戻していた。外観と違い、内装が普通のカフェとそれほど大差ないからなのかもしれない。窓がないにも関わらず明るい店内は、珈琲の香りと焼き菓子のバターの香りで満ちている。その香りを吸い込んで、田口が大きく息をはくと、女店主はミントが浮かべられた水のコップをテーブルに置いた。 「うちはデザート以外のフードメニューは、日替わりの一品だけなんだ。常連達はそれぞれ好き勝手に注文するから、他のものを用意することもできるけど、日替わりで構わない?」  彼女の言葉に迷う暇もなく、田口の腹が鳴る。そのため田口は、素直に「はい」と頷いた。 「好き嫌いは?」 「ありません」  田口の答えに彼女は、「よろしい」と満足そうに笑い、キッチンへ向かう。その笑顔が可愛らしくて、後ろ姿を目で追いながら、田口の頬はついつい緩んだ。  好き嫌いがなくてよかった、と田口は素直にそう思う。こればかりは亡き母のお陰だろう。母は決まって、田口の苦手を克服する料理を作ってくれた。  先程、田口が思い浮かべていたチキンカレーも、玉ねぎが苦手な田口のために母が作ってくれたのが切欠だった。田口が思い出に思考を走らせていると、キッチンの方から食欲をそそる香辛料の香りが漂ってきた。この香りは正しくカレーだ。口の中にじわりと広がってきた唾液を、田口はごくりと飲み込んだ。一層増した空腹感を紛らわせるために、テーブルに置かれた水を飲む。  そして女店主が、白い皿の乗った盆を手に再び姿を現した頃には、コップの中の水はすっかり無くなっていた。 「待たせたね、少年」  空になったコップを見て、彼女は苦笑を浮かべた。それでもそれ以上言葉は続けずに、テーブル上にカレーライスの盛りつけられた器とスプーンを置く。カレーの具は鶏肉以外、煮崩れて形がないが、彩として添えられたナスとオクラが目に優しかった。 「本日のメニューは夏野菜のチキンカレー。さあ、召し上がれ」  田口は「いただきます」と両手を合わせた後、カレーをスプーンですくい口へと運んだ。  口の中に広がった心地よい味わいに、田口の口から「うまい」と言葉がもれる。  香辛料の辛さと炒められた玉ねぎの甘みが、ほどよい味わいを醸し出している。香辛料の配合は違うが、その味はどこか母の作るカレーを思い起こさせた。これは明らかに、市販のルウでは出せる味ではない。 「喜んでもらえてよかった。ルウから手造りしているから、そう言ってもらえると嬉しいよ」  空になっていたコップに水を注ぎながら、店主は言った。 「本当にうまいですよ。この味は、母のカレーを思い出させてくれます」  田口の言葉に店主は驚きに肩を震わせ、「お母様の?」と瞬きをする。 「はい。母もよくルウからカレーを作ってくれたんで」 「へえ、光栄だよ。お母様は料理が得意だったんだね」 「そうですね。高校の頃友人にお弁当を羨ましがられていましたよ。毎日大変だっただろうに、手の込んだ一品も多かったから」 「お母様の料理は好きかい?」 「もう食べられませんが、だからこそ大好きだったのだと、今なら胸を張って言えます」  もう食べられないという言葉に、女店主は悲しみを共有するように目を伏せた。彼女は事情を察してか、深くは追求しなかった。 「君は母親思いなんだね」 「どうなんでしょう。俺なんて、いなくなってようやく母の有難みを感じた奴ですから」 「それでも、気づいた君は偉いと思うな。そんな母親思いの君には、デザートをサービスさせてもらおうか」 「デザート、ですか?」 「うん。甘いものは嫌い?」 「いいえ。むしろ大好きです。お菓子もまた母の手作りでしたから」  母の影響もあって、田口は甘いものが好きだった。母が亡くなってからは、甘いものを口にする機会は減ってしまったが、そんな田口にとって店主の申し出は喜ぶべきものである。 「ならよかった。でも、今日の分はほとんど昼間に売れちゃったから、ティラミスとプリンくらいしか残ってないんだけど……」 「ティラミスがあるんですか」 「おや、少年はティラミスを御所望かい? そんなに夜遊び好きには見えないけど」 「夜遊びってなんのことだよ」  くすくすと笑い声を上げた店主に対して、苛立ちを覚えた田口の口調は自然と乱暴になる。  田口がティラミスを選んだのは、純粋に母のことを思い出したからだ。受験勉強中によく作ってくれたのがティラミスだった。もちろんプリンを作ってくれることもあったが、ティラミスの方が母との思い入れが強い。母の作ったティラミスを食べると、勉強が捗ったものだ。  この人に母との大切な思い出の何がわかるというのだ。受験勉強を一生懸命応援してくれた母の思いは、それに元気づけられて頑張っていた自分にしかわからない。だからこそ田口は、そんな自身の頑張りすら否定されたように思えてしまう。  田口は店主を睨みつけた。  だが店主は、それに臆することなく目を瞬かせる。 「もしかして知らないのかい」  何を問うているのかわからず、田口の眉間の皺は自然と深くなる。 「その様子だと知らないようだね。ティラミスは昔、夜遊びの前に食べるお菓子として作られたんだよ」  母はそんなお菓子を息子の受験勉強の合間に出していたというのか。田口は彼女の話が信じられなかった。これでは母を馬鹿にしているとしか思えない。 「あんたに母さんの何がわかるって言うんだ」  抑えきれなくなった怒りに任せて声を荒げれば、店主は首を横に振った。 「いんや、私にはわかるよ」  店主が田口を見つめる目は曇りない。その自信がどこからくるのかわからなかった田口は、なおもその言葉を否定しようとした。けれどそれを口にする隙を与えず、店主は言葉を続けた。 「ティラミスは、エスプレッソに含まれるカフェインの効果を利用したお菓子なんだよ。その名前の意味は、私を元気にして。お母様は君を元気づけたかったんだよ」 「元気づける……」  先程まで抱いていた怒りも忘れ、田口は店主の言葉を噛みしめるように口にした。  店主の言葉はきっと間違ってはいない。田口は母のティラミスから、多くの元気をもらっていた。あの時は母のティラミスがあったからこそ頑張ってこられたのだ。田口はそれを嬉しく思う一方で、もうそれを口にできないことをひどく残念に思う。最近は、無性に母のティラミスに元気づけられたいと思う出来事が多かった。  その思いを隠すように田口は、 「確かに、母のティラミスからは元気をもらっていたような気がします」  と呟いた。その様子に店主は慈しむように目を細める。 「では私も、君のお母様のティラミスに負けてられないね。自慢のティラミスに元気の出る魔法をかけてこよう」   言い残して店主はキッチンへと消えた。再び彼女が姿を現したのは五分後。その手には白い皿が載せられている。 「さて、私のティラミスは、君を元気にしてくれるかな?」  出されたティラミスは細い長方形型をしていた。それどころか、簡素な盛り付けとは違い、フルーツとホイップクリームで綺麗に彩られている。  丸い容器にいれていた母のそれとは見た目の印象は全く違う。  盛り付けを崩すのが忍びなかったが、田口はデザート用のスプーンで、長方形の端を崩した。  何もかも母のティラミスと比べている自分に苦笑して、田口はそれを口へと運ぶ。母の味はもう食べられないのだ。比べたところで仕方がない。それはわかり切っていることだ。  だがそれを口に入れた瞬間、田口は目を大きく見開いた。 「これ、母さんの味だ」  カレーの香辛料で舌がおかしくなっているのだろうか。田口はその可能性を打ち消すために、コップの水をあおり、もう一度ティラミスを口に運ぶ。  ほろ苦いコーヒーの香りが口いっぱいに広がり、その苦みを甘いキャラメルが優しく包みこんでいる。  市販のティラミスにキャラメルを入れることはない。それは甘いもの好きの田口のために、母が使っていた特別なレシピによるものだ。その味を間違うはずがない、という確信が田口にはあった。 「これ、母さんのレシピですよね?」 「さぁて。似ているだけじゃないかな」  田口が問えば、店主は肩を竦めた。その仕草はどうにもあやしい。田口は諦めずに言葉を続ける。 「俺が母さんのティラミスの味を間違えるはずない。それに、ティラミスにキャラメルを入れるなんて普通しないですよ」 「なかなか自信があるじゃないか。もしそうなら君はどうするんだい」 「母のレシピをなぜあなたが持っているのか、教えてください」  母は滅多なことでは、家族である自分達にもレシピ帳を見せたりはしなかった。なのに、他人ともいえる彼女がそのレシピを知っていることが、疑問でならない。  もしかしたら、入口に掲げられた言葉に関係してくるのかもしれない。そして先程のあの言葉――。だが、あれらの言葉が真実だったとしても、その疑問は覆されようのないものだ。 「努力をせずに、簡単に教えてもらえると思っているのかい? ここは一つ賭けをしようじゃないか」 「何を賭けるというんですか」 「君は自分の力でその謎を解いてごらん。そうすれば、私は君に大切なものを一つ与えたいと思う。解けなければ、君にはうちの店でただ働きしてもらおうかな」  田口は眉を寄せたが、女性にここまで言われては、男として引けないところだ。 「わかりました。その賭けを受けましょう。期限は設けますか」 「そうだね。見たところ君は大学生だね。今、何年生だい?」 「四年生です」 「では、君の卒業を期限としよう」  ティラミスの最後の一口を口に入れながら、田口は大きく頷いた。そして空になった皿を見て、物足りなさを感じる。この際、疑問は抜きにして、もっとこのティラミスが食べたいと思った。  その物欲しそうな顔が目についたのだろう。店主は、にやりと唇に弧を描いた。 「夜遊びはほどほどにしておくんだぞ、亮平君」  田口は皿に落とした視線を勢いよくあげた。不意打ちもいいところだ。亮平というのは田口の名である。しかし田口はそれを、一度として彼女に名乗ってはいない。母のレシピといい、田口の名前といい、彼女は心底謎が多いようだ。  田口は喉の奥から声を縛り出した。 「どうして俺の名を?」 「さぁて、どうしてだろうね」  そう言って彼女はいっそう笑みを深くした。憎たらしい物言いだが、その顔で言われると受け入れてしまう自分がいる。田口はこの時初めて、厄介な人物に関わってしまったことを少しだけ後悔したのだった。
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