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照明を落とした事務所は、差し込む夕日で橙色に染まっていた。
その中で慧は一人、自分のデスクで深く椅子に掛け、ぼうっとどこかを見つめていた。
『弁護士は、お前の天職ではないのだから』
かつて父から掛けられた言葉。
あのとき、彼が何を考えていたのかなんて分かるはずもない。そもそも、ついさっき聞かされた話はほとんどが兄の推測でしかないのだ。第一、兄があんなふざけた案――妻のためにこちらに事務所を構えるだなどと言い出さなければ、実家はずっと安泰で、父が慧のことを振り返る機会もまた永遠に来なかったに違いない。
兄は去り際に、さらにこんな馬鹿げたことを言い残した。
「もしこの事務所のことが気がかりだっていうなら、僕がそのまま引き継いだっていいからね」
「……はぁ!?」
慧がその台詞に食って掛かる前に、彼は「帰りがけに邪魔をしたね」と言うと、そろそろ時間だからお暇するよと手を振りながら出ていった。
「……」
この事務所を譲る? 冗談じゃない。
依頼人の顔が走馬灯のように過る。継続中の事件だけではない。既に終了した件の顧客の顔も浮かんでは消えた。
それに、何より――
『先生』
『先生!』
二人の声が、笑顔が、まるでその場にいるかのように浮かび上がる。
「あり得ないだろ」
誰もいない事務所に、慧の声が冷たく落ちた。
椅子を軋ませて立ち上がると、床に長い影が伸びる。
慧はのそりと玄関へと向かった。
鍵を差し込み、セキュリティを起動させる。
開業当初は手順を間違え、警備の人を呼び出してしまったことも何度かあった。でも今はこうして流れ作業のようにやっても間違えることはない。きっと半分寝ぼけていても失敗しない自信がある。
そのくらい、長い時を過ごしてきた場所だった。
革靴の踵を古いビルにこだまさせながら、一段ずつ階段を降りていく。
踊り場の小さな窓から暮れる寸前の陽射しが差し込み、翳した指の隙間から目を焼いた。
『慧は昔から憧れていただろう? 家を継ぐってことに』
『そう、今がそのチャンスなのかもしれないね』
「……今更だろ、そんなのは」
声が震えてしまったのをかき消すように、慧はまた一つ、硬質な音を響かせたのだった。
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