序章

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序章

吉郎(ヨシロウ)、ヨシロー? ごはんだよぉ」  夜陰があたりを染め上げる頃。  古き良き日本家屋の縁側から、穂波(ほなみ)は庭先に向かって呼びかけた。  手には、吉郎の餌を乗せた皿を持っている。  吉郎(ヨシロウ)というのはここ数日、祖母の自宅の敷地内に忍び込んでくるようになったイヌだ。  土佐犬ほどの大きさで、茶と黒の混じった毛並みをしている。 「ああ良かった、まだ待っててくれたのね。ヨシロ…」  次の瞬間、穂波の笑顔が凍りついた。  椿の木のそばに佇んでいたのは、“イヌ”の吉郎だった。  夜の暗さに紛れてはいても、確かに動物の影だった。  だがーー。  ごきんッ、がちッ。  その動物の骨格が変化する。  骨と骨が組み変わり、耳障りな音をたてる。  暗闇でなければ、少々グロテスクな光景だったかもしれない。  そして、それは瞬く間に、ひとりの人間の男の姿に変わった。 「え……。何これ、どういうこと」  普通はどんな反応をするだろうか?  “イヌ”だとばかり思い込んでいた生き物が、人間の青年に変態し、しかもそいつが全裸だったら。  逃げるか、警察を呼ぶ。  もしくは護身用にフライパンを持ってくるかもしれない。まずは不審な男を自宅の庭から追放する手立てを考えるだろう。  穂波の場合、「よ……よし、よよ」と意味不明な言葉を発し、 「吉郎が……っ! ヨシローが変態男になっちゃったぁ!」  思い切り叫んだ。その拍子に、持っていた餌の肉を床に落とした。 「騒ぐな。やかましいやつ」 「イヌがしゃべったぁ」 「イヌではない、オオカミだ。それに今はニンゲンだ」 「ちょっとストップ!こっちに来ないで! 待ってて」  現役女子高生、市村穂波(いちむらほなみ)。悲しいことに、彼女の思考回路は少しばかりズレていた。  回れ右をして家の奥へ引っ込む。  同時に、畳と床を踏み鳴らす音。  しばらくして戻ってきたかと思うと、穂波は素足のまま縁側から庭先へ飛び降りた。 「とにかくこれ着て! 父さんのジンベエ」  単身赴任で不在の父の部屋着だ。  近寄るのはさすがに怖い。やや距離を置いて不審人物に投げつけた。 「それから」  穂波は気が動転していた。自分でも何を言っているか理解していなかった。 「お、オオカミのお兄さん、食べるなら豚肉がおすすめです。ちょっと落としちゃったけど……。とにかくあたしは美味しくないです」  縁側の床に無残に転がった豚コマ……。本来ならイヌの吉郎にあげるはずだったものである。 「今度の鬼子姫(おにこひめ)はなかなか良い神経をしているようだな」  投げつけられたジンベエを拾い上げて、男は笑いを噛み殺した。 「わたしはお前を食ったりしない。だが……わたしから奪ったものを返してもらおう」  さて、物語のはじまりの前に、ここに至る経緯を話しておこう。  それは、この吉郎変態事件の10日ほど前にさかのぼる…。
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