第十話:匂いフェチ の フロスト<前編>

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第十話:匂いフェチ の フロスト<前編>

「せいっ! せいっ!」  そんな掛け声と共に振り下ろされる木刀。  私が上を向くと、爽やかな青空が広がっていた。  こんな気持ちのいい青空の下、朝の涼しい風に、美男子の汗、逞しい筋肉……。  この世の全ての爽やか要素が詰め込まれたような光景に感嘆のため息を溢す。 「イーサンお兄様、そろそろ休憩なさっては?」 「あぁ、そうだな。ありがとう、アリシア」  私とイーサンしかいない訓練場はとても静かだ。  先日、ルビアとマルスが決闘をした闘技場の傍に作られたこの訓練場には人の形を模したカカシが規則的に並んでいる。ここは体術を極めたい生徒達が自主的に訓練する施設である。  イーサンは誰もが眠っているであろう早朝からここで毎朝剣の特訓をしている。  私はそんなイーサンを乙女ゲームのヒロインらしく見守るのが最近の朝の日課であった。  イーサンはアルフレッド達と違って変態矯正が唯一成功した攻略対象キャラだ。  もしもの時には私の騎士になってもらわなくてはならないし、イーサンと親密度を上げておいて損はないだろう。  ……と、いうのは建前で単純に私がイーサンの傍にいるのが心地よいからという理由もある。  イーサンはどこかの変態達と違って、静かで、クールで、とっても紳士だしね。 「アリシア。学校はどうだ? 楽しいだろう」 「えぇ、とっても。最初は不安だったけれど、もう慣れたわ。イーサンお兄様が気にかけてくれるおかげよ」  そんなことを可愛い子ぶりながら言ってみると、イーサンはフッと微笑んで「そうか」とだけ言う。  そうそう、これこれ! このクールなリアクションがたまらないのよねぇ~!  すると、イーサンが私のある部分をじっと見つめていることに気づいた。  それは私の右指。一センチほどの切り傷ができて血が渇いた跡ができている。先程、訓練場の木刀を数本整理した際に切ったのだろうか。  イーサンは優しく私の指を掴むと、長ベンチに置いていた荷物から包帯を取り出す。  そして綺麗にそれを私の指に巻いて、手当をしてくれた。 「これでいい。……やはり、お前には包帯(これ)が似合うな」  ボソリと潜められた後半の台詞は聞き取れなかったが、イーサンの頬が桃色に染まっているのが分かって、それどころではない。  や、やっぱりイーサンは(アリシア)のことが好きなんだわ! うーん、まさに乙女ゲームって感じ!  私はこの世界に転生してから初めての()()()()トキメキに感動で涙が出そうになってしまった。  私が軽くお礼を言えば、イーサンもハッとしたように私の手を離した。  その後、心地の良い沈黙が流れる。朝の冷気が運動をして熱くなったイーサンの身体を冷ましているのが、彼の身体から発している湯気で見えた。  ここで私はほんの少しの好奇心が湧き、前から気になっていたことをイーサンに尋ねてみることにする。 「そういえば、イーサンお兄様は生徒会メンバー……フロスト様と幼馴染ですわよね?」  そう。変態四天王の一人である体臭性愛のフロスト・クリン。彼はイーサンと幼馴染設定である。  彼のルートは攻略していないが、HENTAI☆ロマンティックの二次創作はそのフロストとイーサンの二次創作が非常に多かったため、よく覚えていた。 「そうだな。あいつとは領地も隣同士で腐れ縁だ」 「そうなのですね。……あら? それでは、イーサンお兄様の誕生日パーティーにもいらっしゃったのかしら? それにしては見かけたことがないけれど……」 「いや、あいつは人混みを好まないからな。後日、プレゼントは届くよ」  人混みを好まないって……それは貴族としてどうなのかしら?  私は少しでもフロストの情報をイーサンから引き出そうとする。攻略情報がない今、イーサンだけが頼りなのだ。ジャックやルビアのようにフロストと対立することもあるかもしれないのだから、情報を集めておいた方がいい。  イーサンは不思議そうに私を見つめる。 「それにしてもアリシア。お前、覚えていないのか? お前、前にフロストと──」 「おい、イーサン!!」  イーサンが何かを言おうとしたその時、怒声が響く。  そこには、たった今話していた当本人──フロスト・クリンが不快げな表情を浮かべてこちらにズンズン近づいてきているではないか。  私はゲッと顔を歪めた。  フロストは私を鋭く睨む。氷の彫刻のような美しい顔だけに、睨まれると迫力がある。イーサンは慌てる様子もない。彼のこのような癇癪には慣れているらしい。  ……それにしても今の感じからして、やっぱり私はフロストにも嫌われているみたいね。分かってたけれど。 「イーサン、朝の特訓は俺と二人きりでやると言っていただろう! どうして起こさなかった!」 「起こしたぞ。だが何度揺すっても起きなかったし、アリシアが来たいと言うからな」 「ああもう、お前は……」 「それよりもフロスト、()()()()()()?」  イーサンの紹介に合わせて、フロストが再度こちらを睨む。なんだか妙な紹介をされた気がするけれど……気のせいかしら?  違和感を覚えたが、今は気にしている余裕はない。天敵である変態四天王が目の前にいるのだ。私は震える手を差し出した。嫌われていようと、なるべく仲良くしようと努力すべきだろう。それに今は有難いことに仲介役がいるのだ。  これで仲良くなれればいいのだけれど……。 「アリシア・ヴァイオレットです。フロスト様、よろしくお願いいたしますね」  私の手を見て、フロストはさらに不快そうな様子だ。まるで汚い雑巾を見つめるかのような目に私はムッとする。  そんなに汚くないわよっ! 「誰が君に触れるか! 僕に触っていいのはイーサンと()()()だけだ!」 「あの子?」 「フロストは幼い頃、俺の屋敷で預かっていた際に庭で迷子になってな。そこで出会った少女が初恋らしい」  えぇ、そんな設定あるの? その初恋の相手って普通は乙女ゲームのヒロインである私じゃない!? でも、私にはその記憶が無いし……。ヒロイン以外で初恋の相手がいるって乙女ゲームでは扱いが難しいのでは……?  私はそんなことをモヤモヤしながら考える。 「まぁ、その少女は、」 「おいイーサン!! 彼女のことは僕とお前の秘密だろ! ほら、さっさと去るといいアリシア・ヴァイオレット! しっしっ! 僕は特訓後のイーサンの匂いを嗅ぐ必要があるんだからな!」 「……は?」  私は耳を疑った。  石のように固まった私を無視して、フロストがイーサンの首筋の匂いを嗅ぎ始める。傍から見れば、腐女子が喜びそうな光景だが、生憎私は腐女子ではない。慌ててイーサンを変態(フロスト)から遠ざける。フロストの鋭い視線が再度刺さるが、知ったこっちゃない!  せっかく唯一のまともなイケメンに変態をうつされちゃたまらないわ! 「な、ななななにをなさってるんですか!? というか、お兄様もされるがままになってはいけません!」 「そうなのか。分かった」 「分かるんじゃない、イーサン! アリシア・ヴァイオレット! よくも僕の邪魔を~!」  イーサンの右手を私が、左手をフロストが掴んで睨み合う。  我慢できないとばかりにフロストが私を指差して唾を飛ばしてきた。 「大体っ! お前のせいでイーサンは変わってしまったんだ! 僕はイーサンの魔物の血と汗にまみれた体臭を愛していたのに!! だというのに、お前がイーサンに変な事を吹き込んだせいで、イーサンは不必要に戦わなくなってしまった! イーサンの父君もどれほど絶望していたことか!」 「はぁ!? それは聞き捨てなりませんわね! お兄様の命をなんだと思っていますの!? お兄様はもう殺戮人形ではありません! 血の通った、私のイーサンお兄様なんですっ!」 「僕のイーサンがそう簡単に負けるもんか! それが分かってるから僕は戦いの後のこいつの体臭を嗅がせてもらっていたのに……!! 最近は健全な汗の香りしかしない……! これはこれでいいが、イーサンが魔物と戦った後の濃厚なデンジャラスな香りが興奮するというのに!!」  そのデンジャラスな香りとやらを思い出しているのだろうか、フロストは途端にはぁはぁと肩を上下させ、頬を赤らめた。  長い睫毛に、潤った翡翠の瞳。雪のような白銀色の髪はきちんと手入れされており、貴族の気品が感じられる。  傍からみれば、やはりフロストも美人ではあるのだ。だけれど、この「HENTAI☆ロマンティック」の攻略対象キャラになってしまったばかりに、こんな……こんな……!!  私が、どうしようもない遺憾の気持ちをギリッと唇を噛み締めることでやり過ごしている内に、イーサンが動く。  イーサンは背後から私を抱きしめ、フロストの手を払ったのだ。フロストが一瞬だけ、仲間外れにされた子供のような表情を浮かべる。 「フロスト、すまない。俺はアリシアの為に生きると決めたんだ。俺が戦えば、アリシアも傷つくんだ。だから、もう俺は必要以上に戦わない。そして今、アリシアはお前が俺の匂いを嗅ぐと嫌だそうだ」 「っっ!! 幼馴染よりその女を選ぶのか、イーサン!!」  イーサンの身体が揺れる。その後、小さく「すまない」という声が背後から聞こえてくる。  フロストの翡翠の瞳が今度は興奮とはまた別の意味で潤っていった。純粋な、悲しみの涙だ。  ……ちょっぴり、罪悪感を覚えないわけではない。  だけれど、やっぱりイーサンにはまともに生きてほしい。私の勝手な我儘だとは、分かっていても。  フロストの翡翠の瞳に私への憎悪が燃え滾っているのが分かった。 「必ず元のイーサンを取り戻してやるからな!! このっ、魔女めっ──!!」  そう言い残し、フロストが走り去っていく。  イーサンが「気にしなくていい」とフォローはしてくれたが、私は彼の後ろ姿が妙に引っかかってしまった……。
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