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走る呼吸で肺は一気に苦しくなった。喉が痛み、けれど止めることもない足で更に更に痛む。仁成の視界に海が見え始めた頃には口の中が地の味が滲んで、気道から嫌な音まで鳴り始めていた。
海までの緩い坂道を降り、砂浜を踏む前に臣の姿が見えていた。橙色の中に沈む黒い塊は人の高さまでなく、小さくなっていた。
「臣!!」
まだ遠すぎる場所で叫んでも当然臣の反応はない。あの姿が臣である確信はあった、海の中にいる人間など弟以外にいるはずもない。走る足は何度も砂に取られて外側に滑る。何度も、何度も臣を呼びながら、仁成の足は遂に海水を踏み鳴らした。
「臣……っ」
伸ばした手が臣の背中に触れた時には仁成の膝下まで海水に浸り、そんな深さで臣は膝をつき、海に浸っていた。
背中に触れ、指が手繰り寄せる布を掴み力いっぱい引き上げると反動で仁成の体までもが海に沈んだ。勢いのまま海の底についた膝は砂で滑って、弾ける海水が頭上から降り注ぐ。それでも尚臣の体を背後から羽交い絞めにして気が付いた、進まない、仁成の力づくで咎める腕には反対方向へ向かう力が加わっている。
臣の体は海に進もうとしている。仁成の腕を振り払おうと、身じろぎながら。
「……臣、ふざけんな戻れっ」
仁成の腕に力が籠るだけ臣の反抗も強まった。互いに反対方向へと譲らない、海水が打ちあがり頭に、顔にと降り注ぐ。焦りで力の限り引き摺ると、今度は体ごと海に落ちるように戻ろうとする。
「聞いてんのか臣! いい加減にしろ!!」
何度も何度も海に戻ろうとする臣を連れ戻し、漸く二人の体が海水に浸らないだけの場所まで引きずり上げることが出来た時。尚も立ち上がろうと濡れた砂の上で藻掻く臣の体が一度仁成の手から離れ、急いでその腕を掴んで遂に、臣の口が開かれた。
急に掴まれた反動で仁成に向いた臣の顔は、海水に濡れていても泣いているのがよくわかった。
「――が」
「うるせえ戻れ!!」
「信が」
「いいから!!」
「信がまだいる!!」
「……誰だよ、いねえよそんな奴!」
「まだ海の中にいる……、いなきゃおかしいんだ!!」
叫び声を上げ、あまりの声に仁成が怯んだ隙に臣の体は強引に海へと飛び込んだ。
仁成ごと、臣の体は波の中に転げ濡れた砂が泥のように体中に張り付いた。耳元で波の音がする、仁成が衝撃で閉じた目を開けると目の前には砂に額をつけ、蹲って嗚咽する臣の姿があった。
仁成が体を起こすとその背中は一層小さく丸まった。連れ戻されるのを拒むように。
「……いるのに、いるのにずっと、いるのに、まだ海にいるのに……」
「……」
「まだ海の中にいるのに、いるって言ってるのに、なんで」
「臣、」
「なんで、誰も信じてくれないの、なんで僕のこと誰も、いるのに、本当にいるのに」
「……臣、体がおかしくなる、起きろ」
「なんでだれも信を捜してくれないの、」
「臣、頼むから」
「いやだ、もうどうして」
今度こそ引き上げた臣の体はなんの抵抗もなく仁成の体に収まった。
抱き上げる瞬間、泣きはらす臣の顔が仁成の左肩に乗った。手探るような両手が必死に服を掴み、足掻く。
「どうして、助けて、助けてよ、信を助けて、仁成くん、助けて」
嗚咽が直接体に響くようだった。仁成は、自分の手が震えるのが寒さの所為か恐怖か、怒りか、もう判断がつかなくなっていた。その手で臣を捕まえていても震えは止まらない。
耳元で泣き喚く臣の声を聞いて、仁成は察した。臣は、きっともう自分が臣ではないことをはっきりと認識している。起きたことも、信であることも。だからこそ、信を助けて欲しいのだと。
だが、それはなんと惨たらしいことだろう。信を捜して見つけてしまっても見つけなくとも臣がいない事実にしかならない。そんな状態で、臣が自分を保ち続けられるわけもない。
清司が言った通り、本当にそれが自分に出来るというのだろうか。本当に臣を繋ぎとめる役割が信を知らない自分にしかままならないとしたら。
どうしたものかと思った。どうしたらよいのだろうと。清司ならなんと言うだろう、どうするのだろう。
どうしたらいいのだろう、どうしていいのだろう。
泣き続ける臣の嗚咽は止まらない。足掻いていた両手はいつしか仁成の服を握りしめ離れることもない。
「……」
それだけでは駄目なのだろうか。好きだと思う気持ちと、清司の言葉に甘んじてもいけないのだろうか。誰にも正しいと言えるだけの正解を言葉にしなければならないだろうか。好きな人が言う「助けて」を真に受けてはならないのだろうか。嫌だと思うことにも、正直でいてはならないのだろうか。なにを考えても「それでも好き」と思ってしまうのは、答えにならないのだろうか。
どうしてか、仁成は涙が止まらなくなった。視界が滲む、揺れる、夕暮れが青くなり白い雪は不鮮明になった。
それだけで良いと思うだけ怖かったのは、答えにはならないだろうか――臣が海に奪われなくてよかった、失わなくてよかった、いなくならないでよかった。
震えの止まらない両手で臣の体をしっかりと抱きとめた。寄る波が臣を二度と浚わないように。
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