序章 北東の風

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序章 北東の風

  南国の花のねっとりとした香りが、垂れ幕の間から漂ってくる。  王は剣の柄を、細い指先で弾いた。もう随分と長い間、そうして待っている。動きらしい動きといえば、急ぎの報告に目を通したのと、夕餉を口にしたぐらいで、それからはずっと垂れ幕の中に閉じこもっていた。  閉じこもって、柄を爪で弾いているのだ。何度も、何度も。  大臣は手燭を持ち上げた。 「陛下、どうでしょう。今晩はもうお休みになられては」 返事はない。 「明日の出立も早うございます。夜更かしはお体に障りますよ」 「あやつは帰ってくると申していた」 王は振り向きもせずに答えた。 「我はその言葉を信じておるのだ」 「ですが、」 すっと鋭い視線が額を貫く。大臣は、開きかけていた口を閉じた。 「案ずるな」王はやや語気を強めて言った。「たった一夜眠らなかったといって、早々とくたばるような我ではないわ。そなたこそ、早う退がったらどうじゃ。館で細君が待ちわびているのだろう」 「私は、しかし……」 「決めきれぬか」 しばし、痛みが歯に沁みいりそうなほどの沈黙が流れた。 「薄情な男よの」 王はつまらなさそうに呟いた。そうして大臣がまごついている間に、また剣の柄を弾く作業へと戻っていった。 (焦っておられるのだ) 大臣は手元に目を落とした。穏やかな夜風に撫でられて、小さな炎がもどかしげに揺れている。  北東の風は妨げを呼ぶ。  確か、隣国の言い伝えだったか。この時期は、砂漠にいる赤の民の邪気が風に乗って流れてくるために、物事に淀みが生じるのだという。初めて耳にした時には、下らぬ迷信をと思ったものだが、状況を見るに、あながち間違いではないらしい。
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