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二月某日。
えらい物を受け取ってしまった。
鼻先にあたる羽根がくすぐったくて、目を覚ました緒方翼はベッドの上で途方にくれた。
「信じてなかったけど」
あの話、本当だったんだ。
さかのぼること1ヶ月前。
翼は友人と食事に行った帰り道、一人の老人を助けた。
足を挫いたというその老人は、なかなかタクシーも拾えない深夜のバス通りをさ迷っていた。
翼は一度は素通りしたものの、気になって引き返し、車に乗せて家があるという隣り街まで送り届けてあげたのだった。
「ありがとうありがとう」
白髭の上品な老人は、翼の車を降りるときに何度も頭を下げたあと、翼にお礼を兼ねた贈り物をくれたのだった。
それはレモンくらいの大きさの楕円型の石だった。
薄い青とピンク、紫色がマーブル状に混ざりあった美しい瑪瑙のオブジェで、光にかざして傾けると中で水泡が動くのが見えた。
「あなたのように善い人に貰っていただきたい」
辞退しようとする翼の手に、石を握らせて老人は言った。
「天使の卵です」
「天使?」
「大切に育てたら、いつか天使が孵化しますよ」
「育てるって?」
「曇らないよう毎日磨いて」
「はあ……」
「日光に当てて」
「日光に……⁉」
「時々は水も掛けてやってください」
「生き物なんですか?」
「天使です」
老人は真顔で繰り返した。
「……はあ」
「あと寝る前にキレイな歌を聴かせてやると喜びます」
老人は、会釈して夜の住宅街へ消えて行った。
あれからちょうど1ヶ月。
老人の言葉を信じたわけではないが、石は気に入ったので、翼は卵を窓際のローチェストの上に飾ることにした。
朝の光を反射すると、卵は暖かなピンク色に輝いた。
目覚める度にその光を浴びると、なんだか元気が湧いてくる。
暮れなずむ夕暮れ時、卵は安らぎに満ちた紫色に鎮まって、その表面に触れていると心身の疲れが癒されていくようだった。
天空輝く月に卵をそっと透かしてみると、蒼い光が辺りを包み、すみずみまで清められたように涼しくなった。
「天使の卵か」
水を包んで沈殿し結晶化することは稀にだがあるそうで、宝石としての価値はそう高価ではないが、とにかく翼はこの石が気に入っていた。
「どんな天使が眠っているのかな」
冷たく滑らかな卵の表面を指先で撫でながら、翼は想像してみた。
たが頭に浮かんでくるのは、丸々と肥えた金髪巻き毛の外国人の子供が、白くて襞のたくさん寄った衣装を着て、金のラッパを吹きながら小さな羽根でパタパタと空を飛んでいるイメージだった。
「フランダースの犬……僕、天に召されちゃうのか」
そんな事を考えながら眠りについたのが昨晩のことだ。
そして今、目の前にいるのが卵から孵った天使だというのなら、翼の天使のイメージは根底から覆された。
バサッ!!
「ひっ……!」
金と銀を練り上げたような色合いの尖った髪、弧を描く整った眉、射竦めるように鋭い眼差し、鍛え上げられた身体を包む、くるぶしまである錆色の長套。
そして極めつけは、背中を覆う漆黒の翼。
「……思ってたのと違う」
「あ?」
「い、いやなんでも‼」
「ところで」
天使はベッドの上にどかっと無遠慮に腰を下ろした。
枕を抱きしめて硬直している翼を、緋色の双眸が捉える。
「は、はい」
「名前は?」
「え、あ、お、緒方翼です」
なんで俺、敬語でしゃべってるんだろう。
緊張しながらそう名乗った翼に、天使は呆れた顔で舌打ちをした。
し、舌打ち!?
今、舌打ちした!?
初対面なのに!?
さすがに翼はちょっとムッとした。
「な、なんだよ、名前っていうから」
「俺の名前だよ」
「は?」
「付けてくれんだろ、翼」
「え、どういう事?」
戸惑う翼の部屋着の胸倉を、天使の長い指が掴み寄せる。
鋭角的に整った顔は飢えた獣を連想させた。
「だってあんたが育て親なんだろう? 俺の」
「な、なんだよ、それ」
「違うのか?」
天使が腰を浮かせた。
ぐいっと前のめりに体重を掛けられて耐えきれず、翼はベッドに押し倒された。
「なんだ。じゃあただの人間か。目覚めたばかりで腹が減ってたんだ、ちょうどよかった」
赤い舌が唇をなめる。
前髪を掴まれ、値踏みするような酷薄な眼で見下ろされる。
「美味そうだな、おまえ」
息の触れ合うような距離で白い牙を剥かれ、首筋に鼻をつけてスンスンと匂いを嗅がれる。
今にもがぶりと喰いつかれそうで、たまらず翼は叫んだ。
「……ジーン! お前は、お前の名前はジーンだ!」
それは昔見た映画に出ていた女優の名前だった。
綺麗であだっぽくて陽気で悲しげで、とても美しい女優だった。
なんだかこの天使に似合う気がしたのだ。
「ジーンか」
と呟いて天使はあっさり体を起こした。
「悪くない」
どうやら、天使に食い殺される危機は回避できたようだ。
翼はおそるおそるベッドの上に起き直った。
「おい、翼」
およそ親に対するにはぞんざいな口調でジーンが話しかけてきた。
「な、なんだよ」
「腹が減った」
「天使ってなに食べるんだよ」
「っち」
また舌打ちした!?
なんて品のない天使なんだ。
翼は憤慨しながらも、そろそろとベッドを降り、冷蔵庫を開けて乏しい食料をかき集めた。
卵、牛乳、蜂蜜、食パン。
「フレンチトーストならすぐ作れるけ……ど」
「はよ作れ」
言いながら、ジーンが翼の背中に纏わりついてくる。
布越しでもわかる、緻密に鍛えられた筋肉質の腕が後ろから腰を抱き、無防備なうなじに鼻先を押し付けて、
「いい匂いだな、翼」
耳元でささやく熱い吐息。
すりすりと後頭部におでこを擦り付けて、時折、耳を甘噛みしてくる。
これってひょっとして。
「あ、あの、ジーン?」
「あ?」
めちゃくちゃ口は悪いけど。
「よ、よしよし」
思い切って、肩越しに金色の頭を撫でてみた。
「……」
乱暴にかき混ぜても、髪を掴んでも、ジーンは無抵抗だ。
やっぱり。
やってることは実家の猫と変わりない。
要するに甘えてるんだ。
そう解ると可笑しかった。
バターを溶かしたフライパンに卵液に漬けたトーストを並べて、弱火で焼き色を付ける間にお湯を沸かしてコーヒーを淹れた。
新鮮な野菜があればサラダも作れたのに、あいにくしなびた大根のシッポしか残っていない。
冷凍庫で貰い物のハーゲンダッツを発掘したので、焼きあがったフレンチトーストに添えた。
「ど、どうぞ」
テーブルに並んだ不揃いの食器。
使う機会がなかったから、ナイフはない。
ジーンはまだ熱々のフレンチトーストをフォークで突き刺し、でかい一口で腹に収めてしまった。
何も言わないが、次々に口に運ぶところを見ると、気に入ったらしい。
翼は安堵して食事に熱中するジーンを見守った。
なんだろう、この拾った仔猫にミルクを上げてるみたいな充足感……。
「うまかった」
ほとんど一人で一斤分のフレンチトーストを平らげたジーンは、指に付いた蜂蜜とアイスを名残惜し気に舐めとって、感想をのべた。
「お粗末さまで」
「さて」
「さて?」
思わず身構える翼。
ジーンは立ち上がって片翼づつ羽を広げ、伸びをした。
ワンルームのマンションでは窮屈で、両翼を広げるスペースはなかったから。
つづいて、コキコキと人間臭い動作で首を鳴らし、ベランダへ出る引き戸をカラカラと開けた。
「俺は仕事があるからもう行かなくちゃならないけど、窓は開けとけよ」
「仕事って?」
「そりゃあ決まってるだろ、今月の天使の仕事といえば」
「?」
ジーンはにやりと不敵に笑った。
「愛に迷える恋人たちの心臓を射抜くことさ、コイツでな」
ジーンは艶やかに黒い立派な風切り羽を引き抜いて唇にくわえた。
目を瞑ってなにやら呪文を唱えると、羽は輝きながら形を変え、やがて見るも物騒なクロスボウに変化した。
黒い艶消しの台座には優雅な装飾が施され、照準部分はハート型に可愛くくりぬかれてはいるが、大きくしなった弓部と太く頑丈そうな弦を見るにつけ、射抜かれた人が無事に恋を(というかその後の天寿を)まっとうできるのか、翼ははなはだ心配だった。
「威力重視の愛弓を見くびってくれるなよ」
翼の不安を、ジーンは豪快に笑い飛ばした。
「見くびってない見くびってるんじゃなくて」
引き止めようとした翼の手をすり抜けて、マンションの小さなベランダから、黒翼の天使がふわりと飛び立った。
都会の空を巨大な影が横切っても、急ぎ足の雑踏の中、立ち止まる人はいない。
「行ってくる」
マンションの上を旋回してジーンが叫んだ。
高層ビルが不揃いな杭のように突き出すいびつな朝焼けの空を、悠々と円を描きながらジーンは徐々に高度を上げてゆく。
その影が雲と重なって見えなくなるまで、翼はジーンを見送った。
部屋にもどると、妙に広々と見える床の上に、粉々になった天使の卵の残渣が散らばっていた。
手のひらに集めてみると、それはキラキラした金平糖の欠片だった。
「え、行ってくる?」
ふと気が付いて、翼はジーンの言葉を反芻した。
え、まさか戻ってくるのか、あの黒天使。
翼はあわてて空を見上げた。
暁色の雲間に、天使の姿はもう見えなかった。
これが僕が名前をつけた天使の話。
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