3章【先ずは優しさで包んでくれ】

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 誰もいなくなった事務所で、俺は先輩から視線を外した。  わざわざ先輩から手渡しで書類を受け取らなくても、先輩が帰った後で打ち込み作業をしておけばいいか。効率的に動かないと、この全自動セクハラマシーンが口を開いてしまうしな。  俺は先輩の顔からパソコンの画面に視線を向け、カタカタとキーボードを叩き始める。  すると、隣に座っていた先輩が呟いた。 「──君は本当に、優しいね」  何度か聞いた、その言葉を。  先輩はよく、俺を『優しい』と言った。俺が職員の仕事を請け負った今も、先輩に冷たくしても。先輩はいつだって、俺を【優しい】という言葉に当てはめたのだ。  それを聞いて、俺は思わず『またか』と心の中で呟いてしまう。  きっと今、先輩は隣で笑っているのだろう。先輩はそういう人なのだ。  この言葉にだって、他意はない。そして意外にも、この言葉は先輩にとって【口説く】という目的には沿っていない言葉なのだ。  ……だからこそ俺は、堪えきれずにため息をこぼした。 「──博愛主義者な聖人君子にでも見えますか」  思ったよりも、低い声が出てしまったらしい。……しかし、一度口にしてしまってはもう撤回できない。  それに俺は今、先輩を睨んでしまっているのだ。【撤回】という二文字は、似つかわしくない状況だろう。 「優しくなんてないですよ。ただ俺は、興味がないだけです」 「『興味』って、なにに対して?」 「帰った職員と、隣に座る先輩です」  自分のデスクに置いた書類をペシペシと叩きながら、俺は先輩に顔を向ける。 「誰かに予定があったっていいし、予定がなかったとしてもいい。誰がなにを考えて帰ったとしても、そういうの全部、どうだっていいんです。気にならないし、わざわざ引き留めたいとも思わない」  こんな問答をしている暇があるのなら、仕事をした方が有意義だろう。  だが、先に噛みついてしまったのは不覚にも俺だ。俺は責任を持って、自分の価値観を口にした。 「俺はね、先輩。俺が最低限困らないなら、あとはなんだっていいんですよ」  レゾンデートルと言うには、あまりにも薄弱な思想だ。だからこそ理解は求めていないし、共感だって求めてはいないのだが。  冷めた視線を受け止めながらも、先輩はどことなく柔らかな表情を浮かべて、俺を見つめ返した。 「それじゃあ、今の君は周りの職員や僕に関心を持っているってこと?」 「残業は苦じゃないので、今の俺は全く困っていません。だから、先輩にもそれ以外の人にも、俺はなにも思っていませんよ」  繁忙期の時期。そんなときには稀に、会社で寝泊まりをすることだってあった。それを今さら嫌だなんだと言っているのなら、とっくに俺は別の会社に転職でもしているだろうさ。  俺の返答を受けて、先輩はどう思っただろう。悲しんだか、それとも喜んだか。……そんなことすらも、俺にはさして重要なことには思えなかったのだ。  それでも先輩から真っ直ぐと向けられる視線から、俺は視線を外してしまった。
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