宝石屋さんの小さな恋物語

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 大学を卒業したあの頃、就職難で苦労した記憶が蘇る。幸い就職浪人になる事は免れたのだが、仕事先はこれまでの人生とは縁もゆかりもない宝石販売店だった。  販売店といっても、百貨店にある装飾品売り場の様なものではなく、由緒ある小さな宝石専門店。由緒あるとは聞こえがいいが、建物も古く若いあの頃の私には何処か不満はあった。お洒落なオフィスでの仕事にあこがれを抱いていたが、そのイメージとは程遠い老舗だったからだ。  隣接した工房で職人たちが一点ものの宝石を加工、そして販売する。木製とガラスで出来たショーケースに収まる数々の宝石。いつしかその輝きに、不満は消え去り愛着を感じ始めてゆく。勿論、自らのお給料では手にすることは出来ない高価な宝石。それでも、違う喜びを感じる事となる。  それは――、購入されるお客様、それぞれの人生だった。  求婚の為に、或いは最愛の女性への誕生日、サプライズ、長年連れ添った奥様へのプレゼント等、紳士的な男性客が胸に秘めた想いを語りながら宝石を選ぶ。ショーケースの宝石は、その人生の物語に彩を添える。 『素敵なお仕事だった』  並べられた幾つもの宝石。ダイヤ、サファイヤ、ルビー、エメラルドの世界四大宝石と称されるものは勿論、ヒスイ、真珠、ガーネット、オパール、トパーズなど色とりどりのジュエリーが、いつしか心を高揚させていた。  とは言え、数十万円から数百万、高価なものでは数千万円にも上る宝石類も揃えられ、並べられた商品がすぐに売れてゆく訳でもない。長い間売れ残る宝石も勿論あり、その多くは時代の変化によりデザインが受け入れられなくなった物ばかりだ。その点、工房を備えるウチの店舗ではリメイク出来る強みがあり、職人の手により新たな命が込められてゆく。  そんな時、一瞬にして私の心を奪った一つの指輪。細いプラチナリングに装飾された幾つものエメラルド。洗練された細かなデザインをよく見ると細かなダイヤモンドがエメラルドの輝きを奪うことなく共存しながらも存在感を放つ。 『素敵!』  思わず指先がのび、自らの指へとはめるが、細指の私にはサイズが二回り近く大きいのか、拒絶するかのようにクルクルと弄ぶ。 『初めてだった。こんなにも心奪われた指輪は』  物欲の無い自分が、これほどまでに心惹かれる宝石。ショーケース内に刻まれた販売価格を目に大きなタメ息を零す。 『給料手取り四ヶ月分……』  この日を境に、無意味な節約生活と一目惚れした特別な指輪との物語が始まる。  エメラルドリングとの――。  
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