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 いつも以上におしゃべりなのは、ちょっとした間がとてもこわかったからに違いない。  新宿からタクシーで移動し、近所のコンビニで缶チューハイやつまみになるものを買って部屋に入った。  早起きは三文の徳――部屋はいつもより少しだけこぎれいに片付けてあったし、台所やトイレ、風呂場は念入りに掃除をした。こうなることを期待していたわけではないけれど、ただでさえハードルの高いことをしでかしてしまう可能性を考えれば、当たり前田のクラッカーだ。  わたしは買ってきたクラッカーにチーズやポテトサラダを盛り付けていただきもののお皿に盛り付けた。一人で使うには大きさも形もかさばるそれは、やっと日の目を見るときがたってきた。  彼はそれをとても褒めてくれた。でも、褒められるのは嬉しいけれど、それだけまたハードルが少し高くなっているかもしれないと思ってしまうわたしは、うっかり思ったことを口にしそうになって、マンガのように自分の口を押さえて声を殺した。その言葉は決して口にしてはいけない禁句――すべてを終わらせてしまう呪文のようなものである。 「これ、好きなんだよね。イカそうめん」  もちろんそれは生のイカを麺状に細く切った刺身ではなく、コンビニであれば必ずおいてある珍味のそれだ。わたしも大好きだけど、イカはここしばらく口にしていない。口にするとつい口に出てしまうその言葉を飲み込むのは至難の業。 「あれ、苦手だった?」  わたしが急に口を押さえたものだから、彼はイカの匂いが苦手なのかと思ったようだ。 「違うの、ちょっとせきが……、大丈夫、イカ、好きだよ。匂いも」  思ったことをすぐ口にしてしまうわたしは、うっかりおかしなことをくちばしってしまったことに気がついたものの、それでもあの言葉を言ってしまうことに比べたら、これはセーフだ。せいぜい失敗がオッパイになったレベルだと自分に言い聞かせた。 「イカの匂いが好きって言った女子は初めてだよ」  彼は下世話な笑いもさわやかにこなすことができるユーモアのある人だ。そんな彼だからこそ、わたしは彼を部屋に誘うことができたのだ。二人はその会話をきっかけに「はじめまして」の緊張感からやっと開放された。 「本当だよ。こんな時間に男子を部屋にいれたことなんかなかったよ」 「信じるよ。そして嬉しいよ。呼んでくれて」  わたしたちはしばらくお互いが普段どんな暮らしをしているのか、過去にどんな人と付き合ったことがあるのか、お互いの過去の記憶を共有することでより親密な関係を築くことに時間を割いた。それはこのあとのハードルを越えるためにどうしても必要なことなのだ。  そしてそのときは不意にやってきた。 「もうこんな時間だね」  彼は少し眠そうな顔をしてわたしに寄りかかってきた。最初はテーブルを挟んで向かい合わせに座っていたが、今、彼はわたしのとなりに居る。 「寝よっか」  その言葉を合図に二人は少し強くお互いの手を握り締め、唇に唇を重ね、お互いの気持ちを確かめ合った。 「わたしの寝るの好き。だけど寝るときは布団で寝ないの」  わたしは意を決してそう切り出した。彼はその言葉を自然と受け入れているようだった。 「じゃあ、どうやって寝てるの? 部屋にベッドはないみたいだけど」 「寝袋」 「寝袋? あのキャンプとかで使う……布団がないとか? 苦手とか?」  わたしは首を振る。 「押入れに布団はあるよ。だけど駄目なの」 「駄目って、布団になにか問題があるってこと?」 「違うの。問題はわたしにあるっていうか、わたしの中にあるっていうか」  わたしは彼の手を引き、押入れの前に立った。引き戸をあけるとそこには懐かしい布団が畳まれている。この布団を使わなくなってどのくらいたつだろうか。見ることすら本当に久しぶりだ。 「いい、驚かないでね」 「えっ、何を」 「今から起きること」  次の瞬間、彼は腰を抜かしたように床に手と腰をついて倒れこんだ。 「なに、今の。何が起きたんだ。布団が勝手に押入れから飛び出してきた」 「ごめんね。わたしのせいなの」 「どういうこと? これって、サプライズとか、いたずらとかじゃないの」 「ちがうの。わたし、思ったことをすぐ口に出しちゃう癖があって、それで……、それでね」  気がつくとわたしの頬を温かいものが流れていた。言葉はつまり、言いたいことが言えない。 「落ち着いて。俺は大丈夫だから、何が起きたのか、わかっている範囲でいいから教えてくれる?」
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