イニシエーションファイト

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「おめぇ明日の試合わざと負けろ。」 「はぁ?」  ジムに着いて早々、オヤジからとんでもないセリフが飛んできた。 「おい。それって八百長しろってことかよ。」 「そうだ。」 「あぁ?そうだじゃねぇよ!次勝てば全日本に行けるって言ってたじゃねぇか!」 「行けるとは言ってねぇ。“行けるかも”だ。」 「変わんねーだろうが!」  俺は持っていたカバンを床に叩きつけ、オヤジに殴りかかる勢いで近づいた。 「物は大切にしろよ。」 「今はそんな話してねぇだろうが!」  俺はオヤジに掴みかかり、拳を構えた。構えたが、拳が目の前に迫ってもオヤジは態度を変えなかった。こうなったら意見を曲げない。くそったれな頑固オヤジだ。 「なんで急にそんな事になったんだよ。昨日まで普通にトレーニングしてたじゃねぇか!」  オヤジはじろりと俺を見て、ため息つきながら言い訳を垂れ流し始めた。 「…このジムには金がねぇ。ここに来るのはおめぇだけだ。」 「んなこたぁ前から分かってただろ!だから俺が勝って稼いでんだろうがよぉ!」 「それでも足らねぇんだ。向こうさんはそれを見越してウチに話を持ち掛けてきた。もう受けるしか選択肢はねぇんだ。」  オヤジは諦めたように力なく座りこんでいた。俺はこれ以上何かを言う気が失せた。が、その代わりにイライラだけが残った。俺は振り上げた拳を下ろし、投げ捨てた荷物を拾って外に向かった。 「どこに行くんだ。」 「どこでも良いだろうがボケ!」  殴りつけるように扉を開けて外に出た。外は白い息が出るほど冷えていたが、今の俺には関係なかった。 「ちくしょうが!」  俺は行く先も決めずにただ歩いた。目に映るモノ全てが憎たらしく思えてきて、すれ違う全てのモノに手を出しそうになったが、寸前のところで理性が働いて堪えた。そうして歩いていると歩調がどんどん早くなり、最後には走っていた。ペース配分も何もなく。ただただ走った。走りながら体の中を埋め尽くすイライラと戦っていたが、倒そうと倒そうといくらもがいてもイライラは消え去ってはくれなかった。気付いたらいつものコースを走っていたらしく、河辺の道にたどり着いていた。  荒い息を吐きながら肩で呼吸をして立ち尽くした。 「ちくしょうが…」  ジムの経営が苦しいのは分かっている。選択肢がないのも分かってる。だけど、八百長の話を、俺にわざと負けろっていう話をオヤジがしたことが許せなくて、どうしようもなくてイライラする。分かっている?分かっている。でも納得できない。  俺はしばらく自問自答を繰り返しながら息を整え、土手に座り込んだ。冷たい風が火照った顔を冷ましていた。 「いっそ試合投げちまうか…。」  声に出して言ったが、それはないと思った。戦わずに逃げることはありえないと。じゃあ俺は何と戦う?誰と戦う?どう戦う?…そう考えているうちに、なんだいつも通りじゃねぇかと思った。オヤジはいつも「戦うときは考えろ。どんな相手だ?相手の武器は?おめぇの武器は?今いるポジションは?どういう展開にする?考えろ、考えながら手を出せ。手を出しながら考えろ。」と俺を殴りながら言ってくる。そのせいか考え癖がついちまってる。俺は弛み始めた頬をそのままに徐に立ち上がってシャドーボクシングをし始めた。誰と、何と戦うかを考えながら。  その日は一日屋外トレーニングに費やした。考えながら動いていると徐々に頭が冴えてきて、明日をどうするかも決まった。後は寝て、起きて、向かうだけだ。俺は好物のチョコレートを一口食べて布団に潜った。明日が来ることを願って。
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