1: 帰りの会

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1: 帰りの会

 帰りの会。 黒板の左端に、赤いマグネットで スポーツ新聞が貼られている。 一面に大きく書かれた「巨人!勝利!」の 紙面から飛び出してくるような踊る文字。  5年2組の担任若林は、 筋肉が自慢の大柄な35歳。 バレー・サッカー・バスケット...... 一年中ジャージ姿で、体育なら何でもこなす。 中でも特に得意とするのが体操だ。 体育の授業でちょっとおだてれば、 すぐにバック転をしてくれるし、 跳び箱は何段でも軽々跳ぶ。 そしてなんといっても熱狂的な巨人ファン。 試合に勝った翌日は、とにかく機嫌が良い。 しかし負けた翌日は……言うまでもない。 昨日の試合は、見事な逆転勝ちだった為、 今朝は教室に来るなり、脇に抱えていた スポーツ新聞を黒板に掲げ、野球好きの 生徒たちと喜びを分かち合い、ほぼ一日中、 何かと巨人の強さを授業に結び付け、 熱弁を繰り広げていたのだ。  チャイムが鳴り始めると、思い出したかの ように若林が、わら半紙に印刷された紙を 扇状に広げ、適当な枚数を急いで配り始めた。 「後ろの人に回して下さい。余ったら、 一番後ろの人、先生の所へ持って来て下さい」  一番前の席に座っている8人の生徒達は、 一斉に後ろを振り向き、まるで列ごとに速さを 競い合っているかのようにプリントを回し始め た。  窓側、一番後ろの席の三上 胡桃(くるみ)は その様子を、お気に入りの黄色いシャーペンを ペンケースに戻しながら眺めている。 このシャーペンには恋に効くおまじないが かかっている。 新しい芯を入れて、まず好きな人の名前を 紙に書く。 それから7本の芯を一度も折らずに、 そして自分以外の誰にも触れさせないように して使い切ると、恋が実るというものだ。 胡桃が机の中の教科書を出していると、 窓側、3番目の席の村田 洋子が、 席を立って笑いを堪えるように4.5枚ある プリントを持ってきた。 「はい、胡桃ちゃん」 胡桃は4番目に座っている中野 香織をとばて、 わざと甘ったるい声で胡桃の名前を呼び、 プリントを手渡す性格の悪い洋子の表情から 目を逸らした。 洋子は香織をチラッと見て小さく笑い、 そして自分の席に戻った。 胡桃は洋子が置いていったプリントから自分の 1枚を抜いて席を立ち、香織に1枚無言で渡し、 残りを先生に渡しに行った。  プリントの表題は、 「夏休み! スイミング教室のお知らせ」。 男子も女子も、この教室に参加するかどうか 確認し合いながら、夏休みの予定で盛り上がっている。  下校時間が近づく教室というのは、 まるで真昼の公園でセミたちが行う 仲間同士の騒がしい交信のようだ。 一匹が鳴き出すと、その声を聞きつけて 負けるものかと別のセミが鳴き出し、 それに対してさらに大きな鳴き声を返す。 また別のセミが飛んできたかと思えば、 間に入って邪魔をし合い、 自分が一番遠くまで響く大きな声を出せる ことを仲間にアピールする。 こうして、 耳を塞ぎたくなるようなセミの大合唱となる。 「ねぇ、ねぇ、胡桃ちゃん。 申し込むでしょ?」 胡桃の隣の席は吉岡 正人。 通路を挟んでその隣に座っている庄野 真美が 胡桃に話しかけている。 しかし、教室がざわついている為、 胡桃の耳には届かなかった。 「ねぇ、ねぇ、胡桃ちゃん。 申し込むでしょ?」 真美の声に気付いた正人が、 ふざけて真似し、胡桃に話しかけた。 その声に振り向いた胡桃の視界には、 真美と正人の顔が同時に入った。 「ねぇ、ねぇ、胡桃ちゃん。 申し込むでしょ?」  正人が面白がって繰り返すため、胡桃と 真美だけでなく周りのみんながどっと笑った。 「はいはい、静かに!  このスイミング教室に参加する人は、 今週の金曜日までに保護者のサインを もらって、先生に提出して下さい。 では、帰りの会を終わります。 日直の浅見君、号令をかけて下さい」 「起~立! 礼!」 「さようなら」 一斉に椅子を引く音がして、 高い声や低い声が混じり合い、 バラバラの挨拶で今日の授業が終わった。 胡桃は真美の席へ行き、 スイミング教室の話の続きをした。 「私、申し込むよ。真美ちゃんも、 行くよね?」 「うん。一緒に行こうよ」 「いいよ!」 教卓を囲んで若林の周りに数名の男子が 集まり、まだ野球の話で盛り上がっている。 リコーダーでチャルメラの曲を吹いて、 女子にうるさがられている男子。 仲良しグループごとに集まり、頭を突き合わせ て可愛いメモ帳や折り紙を交換している女子。 「言った、言わない」という言い争いをして、 必ず最後は、 「何時? 何分? 地球が何回まわった時?」 という揚げ足取りで終わる男子。 みんな笑いながら、 それぞれが楽しそうにしている。 いつまでこの騒ぎが続くのかと思いきや、 隣のクラスの帰りの会が終わると、 生徒たちは次々に教室から出て行った。 「せんせ~い! さようなら」 「まっすぐ帰れよ」 「昨日、まっすぐ帰ったら 壁に正面衝突しましたーー」 「そうか、今日は気を付けろよ」 「胡桃ちゃん、私たちも帰ろうか」 「そうだね」 胡桃が自分の席にランドセルを取りに戻る と、香織がまだ自分の席に座ったままだった。 「中野さん、まだ帰らないの?」 「あっ、帰るよ」 「そう。じゃあね、バイバイ」 「バイバイ......」 胡桃や真美の家はAコースで、 洋子や香織の家はBコース。 最近は何かと物騒な事件が多いので、一人では 帰らずに、友達同士なるべく一緒に帰るように 先生から言われている。 胡桃は真美と帰る前に、 Bコースの唯と典子に「帰る時は中野さんを 誘ってあげてね」と声をかけた。 うん、うんと頷く二人にバイバイをして、 胡桃は教室を後にした。 下駄箱で上履きから靴に履き替え外へ出ると、 乾いたグランドに生暖かい風が吹き、 余計に暑さが増した。 「胡桃ちゃ~ん! 真美ちゃ~ん!  バイバ~イ」 上の方から二人を呼ぶ声がし、 胡桃と真美は、自分の教室の窓を見た。 が、誰も顔を出していない。 そのまま視線を下へゆっくりおろしていくと、 中央に付けられている丸い時計の隣の窓から 手だけが4本、左右に振られている。 胡桃と真美が、隠れているのが誰なのか気付き、笑い出すのと同時に、手と手の間から、 ヒョコンと面長な顔の未菜と色白の小百合が 顔を出した。 「なんで、そこにいるの?」  胡桃が口に手を添えて、 2階の放送室に向かって叫んだ。 「ちょっとね~」 ニヤニヤしながら答える未菜を見て、 真美が得意げに指をパチンと鳴らした。 「分かった! ○△×君が当番だからだ~!」 真美は嬉しそうに足をぴょんぴょんさせ、 男子生徒の名前を濁しながら叫んだ。 「あー! 真美ちゃん、声大きいよ!」 「大丈夫だよ。名前言ってないからっ!」 胡桃と真美、そして1組の未菜と小百合は 放送委員会の同じグループで、火曜日の担当。 担当の日は、朝、昼、掃除、そして帰りに アナウンスをする。 今日は水曜日なので、佐川 裕也や長谷川 翔太の いるグループが担当だ。 ジャニーズ顔、スポーツ万能、そして盛り上げ 上手という三拍子揃った彼らを好きな女子は、 胡桃と真美の友達の中でも4人はいる。 その中の1人の未菜は、恐らく「忘れ物をし た」とでも言って放送室に入り、裕也たちと 話すチャンスを窺っているのだろう。 胡桃と真美は「頑張ってね~」と叫んで、 グラウンドを横切って正門を出た。 門の先は、なだらかな階段になっていて、 その両端に桜の木が並んでいる。 この時期は、新緑の青々とした葉が繁り、 太陽の強い日差しを遮ってくれるので、 この道だけは幾分か涼しく感じる。 細い道を通って横断歩道を渡ると、 その先に急なアスファルトの坂道がある。 この坂の片側は畑になっていて、キャベツや ネギが作られている。 肥沃(ひよく)な土壌のせいで夏になると、 体長10㎝程のフトミミズが次々と土から出て くるのだ。 しかも半端な数ではなく、まるまる太ったものから細くて小さなものまで、ゆっくりゆっくり とアスファルトの道を渡ろうとする。 しかし、暑い日差しと熱をもったアスファルト にやられて、道の途中でほとんどのミミズが 干乾びてしまう。 よってこの坂は、誰が言い出したのかは定か ではないが「ミミズ坂」と呼ばれている。 胡桃と真美はこの坂が大嫌いだった。 いつもここまで来ると溜め息をつき、 坂を上がりきるまではほとんど話しもせずに、 靴でミミズを踏まない事だけに集中するのだ。 今日もいつものように、お互いの無事を願い 合い、坂を上がろうとした時、背後から胡桃の 隣の席の正人が走ってきた。 嫌な予感がした二人は、「早く行こう」と 目を合わせて確認し合い、坂を上がり始めた。 「あー! 三上と庄野だ。 まだこんな所にいたのかよ!」 二人が振り向くと、正人の手にはミミズが 掴まれていた。 そして二人の予感を裏切ることなく、 正人はそのミミズを二人に目掛けて 投げつけた。 「キャー!」「イヤー!」 胡桃と真美のすぐ近くでポトンと落ちた ミミズは、体を忙しく動かしながら畑に 向かって動き出した。 「マサ! 止めてよ」 泣きそうな声で胡桃が正人に文句を言うと、 正人は二人に向かって満足そうに笑った。
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