夕立

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夕立

 出雲(いずも)みのりが澄ヶ丘(すみがおか)中学校の校舎を出ると、雨が降り注いでいた。今日雨が降ることは天気予報でも言っていなかったため、当然傘も持っていない。  こんな時に限って、夕立だ。軒下で立ち止まり頭上を仰ぐと、さっきまでの宇宙も見渡せるのではないかと言うほどの澄んだ青空は、分厚い積乱雲で覆われていた。 「最悪‥‥‥」  出雲はため息混じりに独り言つ。  今日は完全下校の日で部活もなく、大半の生徒はかなり前に学校を出ている。  しかし出雲は、に巻き込まれてしまい、帰りがかなり遅れてしまったのだ。  もはや学校には自分と職員くらいしかいないはずだ。  周りを見渡してみる。やはり、ひとっこ一人見当たらない。  仕方がない、雨に濡れながらでも帰るか。  そんなことを考えている間にも、どんどん雨脚は強くなっていく。通り雨なら助かるが、いつ雨が止むかわからぬ中、律儀に待っているわけにもいかない。 なるべく髪が濡れないように、頭を手で抑えながら一歩踏み出す。  そのとき、ガタンと背後から音がした。  驚いて、振り向く。  出雲は目の前に広がっていた光景に、さらに驚くことになった。  下駄箱の簀の子に、制服姿の男が倒れているのである。おそらく今のは、彼が簀の子で躓いた際の音であろう。  出雲は訝し気に、その姿をじっと眺める。人影は数秒ほど経ってから、ようやくゆっくりと立ちあがった。 「あ」  出雲はそこで思わず声を上げる。  そんな出雲の存在に気づかないのか、男は体勢を立て直すと、心ここに非ずと言った風情で、こちらに歩いてくる。  このぼんやりとしている青年は、霜月夕(しもつきゆう)。彼とは同じクラスだが、まともに話したことがない。  クラスでも影の薄い存在なのだが、その名は学校中で知れ渡っている。  ではなぜ校内で有名なのかというと、もちろん、いつも何考えているか分からないやつだから、というわけではなく—— 「あれ」そこで、霜月は出雲の存在に気づいたのか、その無表情をこちらに向けた。「まだ、いたんだ」 「‥‥‥」そんな彼を、出雲は不思議そうに眺める。「それ、こっちの台詞だと思う」 「なんで?」 「なんでって‥‥‥私は委員会で居残りしていたからまだわかるけど‥‥‥」  『霜月くんは‥‥‥』と続けようとしたが、話したこともない人にいきなり名前を呼ばれたら驚くと思い、言い止した。 「そうか」  相変わらずにべもなく呟くと、霜月は下駄箱から出る。しかし、そこでようやく雨の存在に気づいた様子で、立ち止った。  「霜月夕、だよね?」  一応、確認を取る。  「出雲みのり」  「え?」  いきなり名前を呼ばれて、戸惑う。  自分も君の名前を知っている、というサインだろう。  「‥‥‥」  しばらく、沈黙が訪れる。霜月の方も、傘を持っていないのか。  「というか、なんであなたがこんなに遅いわけ?」  少し呆れ口調で、訊いてみる。  「考え事をしていたら、いつのまにかこんな時間になってた」  彼は淡々と答えた。  しかし、機械的に、という表現は少し違うと出雲は感じた。淡泊な口調でも、そこには微かに感情が宿っていた。  ふと、霜月の方に顔を向ける。身長は百七十センチほどだが、よく見てみると、かなり端正な顔立ちをしている。  麻希の言っていた通りだ、と、出雲は今朝の麻希との会話を想起した。  「傘、持ってないの?」  出雲が訊く。  「うん、あ、いや」彼はそんなあいまいな答え方をすると、背負っていたリュックを何やら弄り始めた。「これ、使う?」  まさか、折り畳み傘でも貸してくれるのだろうか、と期待していた出雲は、霜月が差し出してきた物を見て拍子抜けした。  「じ、辞書? これを、傘代わりにってこと?」  彼は頷いた。  おそらく、これは彼なりの気づかいだ。しかし彼の持っているポケット版の小さい辞書は、到底傘の役割を果たせそうにないし、何より、紙製だから水に触れれば濡れてしまうだろう。  出雲は苦笑しながら、辞書を押し戻す。  「いらない?」  「うん」  「‥‥‥」  出雲がうなずくと、霜月はそれを残念そうにリュックへ戻す。  見たところ、彼はかなり変わっている。しかもとぼけている。  出雲はそんな彼の姿を信じられないような思いで見ていた。  そのとき、出雲にはとある考えが浮かんでいた。  あの彼なら、を解いてくれるかもしれない。  「あの、霜月くん?」  声をかけると、彼は無言のまま顔を上げる。   「今、私が何を考えているのか、当てられる?」  出雲は、少し霜月を試してみた。  彼は、無表情のまま艶のある黒髪をがりがりと掻くと、口を開く。  「俺に事件の謎を解かせようとしてる——」
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