猫と玄関と寒がりの俺

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 玄関が開いている。  世田谷区の広い和風一軒家。一目で上流家庭の住処だと分かる家の玄関が開いている。  さらに家人である老夫婦は、先ほど出かけた。  俺は格子状の引き戸を見つめた。先月勤めていた会社の経営者が夜逃げして、賃金未払い状態で無職になり、雇用保険も貯金もなく、再就職先も一向に見つからないこの俺が、  金がありそうな家の、開けっ放しの玄関の前にいる。 「……」  手足が勝手に動き出した。一月の、骨身が凍みるような乾風が吹く。  寒い。眠くて頭がぼうっとする。……腹が減った。そんな取り留めない思考のまま、数ヶ月間着っぱなしのブルゾンの体を引き戸の間に滑り込ませる。  玄関土間はシンと静まり返っていた。  誰かいませんか。  隅々まで掃除された板張りの廊下の奥へ、小声で呼びかける。  誰もいませんね。  つまらない一人芝居の後、俺は靴裏の汚れを落とし、上がり框に足を乗せた。  こういう古い家は、奥に家主の部屋があるものだ。そしてそこには通帳や現金……つまり金目のものがあるだろう。そう当たりをつけて、廊下の奥へ歩を進める。  庭に面した縁側を通る。日当たりが良く、一月とは思えないほど明るい陽射しが差し込み、一足先に春を迎えたようだった。  けれど俺の足先は依然と冷え切ったままだ。歩くたびにジンジンする。寒い。  頭もまぶたも足取りも重かった。眠い。  ふと味噌汁の匂いが鼻をくすぐった。ゆうべコショウを入れた白湯を飲んだきり何も食べていないことを思い出す。腹が減った。  うっすら白いモヤがかかった思考のまま、突き当たりに部屋を見つけた。  障子を開けると八畳ほどの和室だった。微かに線香の匂い。俺は床脇の下部にある物入れに手を伸ばした。貴重品はだいたいここに仕舞われる。  寒い。眠い。腹が減った。  帰りたい。でもボロアパートの部屋は隙間風だらけだし電気が止まったままだ。あんな寒いところに帰りたくない。  金。金はどこだ。  古い帳面やアルバムなんかいらない。金。寒い。電気代を払うための金。眠い。あたたかい食べ物を得るための金。腹が減った――  コトン  背後で物音がした。頭皮が粟立ち、とっさに振り向く。  誰もいない。だが物音は止まない。  ……誰かいる。  ゆらりと立ち上がると、軽く眩暈がした。  おぼつかない足取りで部屋を出る。トトトッ、ごく軽い足音が聞こえた。  キョロリと見回すと、年代物の化粧台の上に眉毛用のカミソリがあった。  誰かいるのなら、  黙らせないといけない。  カミソリを握りしめ、俺は縁側を逆戻りする。場違いなまでに明るい陽の光が満たす縁側を。  穏やかな小春日和といった光景の中、俺はカミソリを手に足音の主を探し求める。  もしも顔を見られていたら。  黙らせる。だがどうやって?  そうだ、いっそ殺してしまおうか。  警察に捕まっても別にいい。  シャバより刑務所の方がマシだって、無職になった日に入った居酒屋で知らないオッサンが言ってた。  それに、俺みたいな若いやつが就職できないのは、年寄りがのさばっているからだってSNSで見た。  そうだよ。全部年寄りが悪いんだ。  両親が死んで俺を引き取った親戚のジジババだって、俺を散々邪魔者扱いした。  夜逃げしやがったあの社長もだ。「おまえみたいな親無しの青二才を雇ったんだから感謝しろ」とかのたまって、機嫌が悪いと当たり散らすクソジジイ。経営が傾いた途端にゴキブリみたいに会社の金を持ち逃げした。  だからきっと殺していい。俺を苦しめる老害なんか。  ……いや、むしろ死刑になるか?  死刑になるには何人殺せばいいんだっけ。二人? 三人? 百人?  ああ、寒い。  眠い。腹が減った。もう嫌だ。  もう、いい。死刑でいい。寒くなくなるんなら、もう……  ぼやけて回転する視界の端で、何かが動いた。  俺はそちらに目を向け 「ニャーン」  ――目に入ったのは、一匹の黒猫だった。
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