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火の器
握手した手のひらから、じゅっという嫌な音がした。
肉が焦げるにおいがたちこめ、女がテーブルを挟んで、私の前でうずくまる。
人だかりができあがり、どうした、どうしたと騒ぎ出す。
私だけがひとり、落ち着いて冷ややかにその様子を見つめている。
サイン会という立て看板の隣で、パイプ椅子に深く腰掛けて、微動だにせず。
目の前で、女はうう、ううと唸って、手を抑えて痛がっている。
救急車を呼べ、と店長らしきスーツのおじさんがあたふたとエプロンをした店員さんに指示をする。都心の大きな書店で救急車なんか呼んだら、たちまちその様子が拡散されて、バズっちゃうかもしれないね。
サイン会で握手した女性が手のひらに大火傷をして、搬送されるなんて仰々しい贅沢なトピックがつくんだろうな。
でも……その裏側で、女が今まで何をしてきたか、どれほどの人を傷つけてきたかもバレるかしら。
裏側を探ることが、大好きな人ってたくさんいるから、きっと時間の問題だろうなあ。
ざわつく人々をぼんやり見ながら、呑気にあくびをひとつする。
こんな行動ひとつひとつ、誰かが見ているだろうけれど、女の慌てぶりとアクシデントに、たちまち打ち消されてしまうだろう。
お姉ちゃん、見えてる?
お姉ちゃん、聞こえてる?
燃え跡に残っていた指輪をはめた、右の人差し指が、じんわり、じんじんとあたたかくなってきた。
お姉ちゃんと私の憤りや、怒りや、消せない苛立ちを壺の中へ溜め込んで溜め込んで、熟成させるようにして書き上げた女同志の軋轢をテーマにしたフィクション、もとい「小説」という生き餌をばら撒いてばら撒いて、ばら撒きまくった。
功を奏して、獲物である女はズブズブと、何も知らず、想像もせず、元は自分が仕立ててきた世界にハマっていって、マニアックな読者と化して私に陶酔する。
過去に誰に何をさせたか、その結果どうなったかも全て、自分の中だけで「無かったこと」にして。
「いたい、い、いたい……いたいいいいいいいい……」
涙ぐんだ眼差しで私を見上げる女に、ゆっくり微笑みかける。
「な、なんで……なんで先生、笑っていられるんです……か?私、私こんなにひどい目に……どうして?」
問われて、ますます笑いが込み上げてくる。
「昨日、やっと退院したんですよ……あなたが追い詰めた、私の大事なお姉ちゃんが」
話せなくなったけど、前よりも楽しそうなお姉ちゃん。
仕事をようやく辞められて、自分を取り戻せたお姉ちゃん。
あんたなんか燃えかすだ、ゴミカスだって、毎日毎日言われ続けて、怒鳴られ続けて、泣き続けたお姉ちゃん。
そしてとうとう、言われた通りにしちゃったお姉ちゃん。
灯油をかぶって、パパのライターを借りて火をつけて、部屋ごと真っ赤な熱い炎に包まれたお姉ちゃん。
そのせいで家はほとんど焼けてしまったし、お姉ちゃんは皮膚の治療や移植、形成手術で長らく入院することになった。喉は焼け潰れて、声が出せなくなったから、いつも筆談で言葉を交わして、姉妹でこそこそと、子供の頃みたいに病室で楽しんだ。
「辞めることもできない、退職届も捨てられて、燃えかすのくせに生意気だって笑われたって」
SNSもブログも全部覗かれて、あれこれ言いふらされて、それでも会社に来いとあなたに言われて従っていたお姉ちゃん。
周りは火の粉がかかると面倒だから、遠巻きにして、誰にも助けてもらえずに、ひとりぼっちで耐えていたお姉ちゃん。
「あ、あんた……え、ど、どうして?」
「どうしてって、ただ書いただけ。書きまくっただけ。いろんな材料を重ね合わせて、あなたに届くようにって、ね」
さあっと顔から血の気がひいていき、女は赤く膨れた手を抑えながら、ガタガタ震え出す。
「本名で物書きなんかするわけないじゃない、バレたら何を言われるかわかったもんじゃないもーん」
お姉ちゃんが負った火傷はそんなもんじゃなかったし、入院先の病院へ社員代表だって優しい顔して見舞いにきて、耳元で「惜しいことしたねえ、燃えかすになれなかったねえ」って囁いていたことも知ってたんだから。
目が、お姉ちゃんの目が言ってたの。
あいつにやり返して。
少しでも、ほんの少しでも痛い目にあって欲しい。
私の憎しみを貸すから、お願いだからって。
「燃えかすになるのは……貴女ですよ。これからもよろしくご愛顧を」
ひどい、と女は泣き出した。
涙が落ちた頬が火傷のように赤く腫れだし、女はさらに、私の目の前で、のたうちまわって苦しんでいる。
けたたましい、サイレンの音が近づいてきた。
人だかりをふと見ると、先月ようやくケロイドが治り、お化粧もできるようになったお姉ちゃんが立っていることに気がつく。
私と目が合うと、お姉ちゃんはゆっくりと手を振った。
その手のひらには、引き攣った、火傷の跡が痛々しくのこっている。
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