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overture
「あなたが宝生一葉さん? はじめまして。碧川環です。碧川敬文の妻です」
軽く頭を下げた拍子に黒髪がたおやかに垂れた。前下がり気味のボブヘアをかき上げる仕草は、同性である私もぞくりとするほどの色香を放っている。女優さんかと思うほど美しく艶やかな佇まいが、まるで私を牽制しているかのよう。
意志の強そうな切れ長の瞳にも濡れたような光を放つ紅い唇にも怒りや蔑みはなく、穏やかに綻んでいる。
だが、それはあくまでも “妻” としての余裕であり、決して “赦し” ではない。
わざわざ高級ホテルにあるレストランの個室へ呼び出すのだから、それ相応の話があることは火を見るよりも明らかだった。
今からどんな罵詈雑言を浴びるのか、或いは高額な慰謝料を請求されるのか――。
自業自得は百も承知だけれど、息を呑んだ私は小さく震えていた。
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