3. 疲労、焦燥、弱音

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3. 疲労、焦燥、弱音

 小石が靴に引っかかり、カツン、と音を立てる。  静まり返った深夜の住宅街に、その音が異様に大きく響いた気がして、将吾はしかめ面をした。  電柱の影にほぼ一体化するように立っている東堂に、買ってきた肉まんと水のペットボトルを差し出す。東堂はああ、ともおう、ともつかない声をあげ、視線は一点を見つめたまま、差し出された食料を受け取った。  昼間はもう初夏を思わせる日差しが痛いほどだが、まだ夜は少し肌寒く、コンビニで仕入れてきたホットスナックの温かみがありがたい。  将吾たちが動き出してから、2週間が経とうとしていた。連休を目前にして世間が浮き足立つ中、東堂と将吾は思ったような証言や情報をつかめず、苛立ちを募らせていた。  周囲の住民や飲食店などから関係者の動きに関する情報を入手して回るかたわら、深夜、早朝と関係者に直接接触して話を聞こうと待機するも、不首尾が続いている。今週頭からは学園の理事長宅をマークしているが、今のところ連日全敗、空振りだ。  この事件は、不正を疑った議員の告発を報じた一面記事が引き金となり、各メディアが一斉に書き立てたことに始まっている。それが今月上旬のことだ。  それを受けて将吾たちが動き出した直後に、同じようにこの事件を追って当局を張っていた報道部の別の班が、総理大臣の関与をうかがわせる内部文書を入手した。  このスクープによって報道熱が一気に高まり、野党からは連日盛んに追及が行われるようになった。  だが、敵は手強かった。官房長官は「そのような出どころも不確かな文書を根拠にされましても、お答えのしようがない」とシラを切り通し、徹底して関与を認めない姿勢を崩さない。結局、それ以上の強力な資料なり証言なりが出てこないことには、政府はこの件を曖昧なまま握りつぶすつもりだろうということが明白だった。  なんとしても証拠を掴みたい。東堂の顔にはそう大きく書いてあった。苛立ちがはっきり滲む表情には、疲労の色も濃い。  空振り続きでは、キャップである高山に合わせる顔がない。学園の運営する教育機関で以前教鞭を取っていたという教授にようやく取材をとりつけ、内部方針のトップダウンぶりや理事長の運営姿勢に対する疑問の声はなんとか記事にした。だが、これだけでは疑惑に対する働きかけとしては弱すぎる。当局班が抜いたスクープくらいのネタを掴まなければ、何にもならないのだ。  当局班がどんな手を使って内部文書を入手したのかは、同じ報道部内でも明らかにはされていなかった。取材源の確保は記者にとっての生命線であり、その秘匿原則は社内であっても守られる。  だが、はっきりとは口にしないが、東堂は当局班のやり方の見当がついているだけでなく、どうやらそれを快く思っていないようだった。  ライバルに抜かれたのだからいい気持ちがしないのは当然だが、何気なく将吾が当局班のことを話題にのぼせた時、東堂は怒りとも苛立ちともつかない複雑な表情をしていた。  その時、実際の会話の中で東堂が将吾に何と言ったのかまでは覚えていない。おそらく、表情とは裏腹な、当たり障りのない「東堂らしい」ドライな皮肉を一つ二つ言った程度だっただろう。  それほどに、その時の東堂の表情は印象的だった。それは単なる僻みや悔しさといったものではなく、おそらく、もっと東堂の根底にある何かから来ている。将吾はそんな気がした。   あの日、会議室の前を偶然通り、東堂と高山の言い争いを聞いていなければ、今でも将吾は東堂のことを嫌味で冷徹な人間だと思ったままであったかもしれない。だが今の将吾は、東堂と過ごす中で、その会話、行動の端々に現れる僅かなサインを見逃さなかった。  東堂は、自分たちマスメディアの背負っている、ある種の権威的な暴力性を、自分たちが正義だと無自覚に思い込むことの危険性を、十分に意識していた。  自分たちの作る記事一つで、名も無き人を助けることにもなれば、その社会生命を終わらせることにもなる。真実を伝えることは正義かもしれない。だがその正義が、時に人を傷つけることがある。  自分たちが行う行為の、その重さを、口に出さずとも東堂は常に心に抱いているようだった。  東堂は、関係者を片端から無差別に取材して回るようなことを、決してしなかった。  取材対象としてマークする人物の選別基準について、東堂は何も語ろうとはしない。だが、取材を受ける側が、自分たちの功利の犠牲になることのないよう考えて選んでいるのだろうと、将吾は半ば直感的に理解していた。  だからこそ、その結果としてのこの不首尾な状況に、そしてその選択をした自分自身にも、東堂は苛立っているのだ。  そんな極限状態の東堂と一緒にいれば、当然しょっちゅう罵声が飛んできた。 「おい、いつまで呑気に食ってる」  早速これだ。  ぐ、と口の中の肉まんを喉に詰まらせかけ、将吾は急いで水を流し込んだ。 「いつ理事長が帰ってきてもおかしくない。今帰ってきたらお前どうする気だ。肉まん持ったまま取材するつもりか」  これまでの将吾だったら、ここまで言われればカチンときて、場所もわきまえず言い返していただろう。曲がりなりにも、何も食べないままで倒れてもいけないし、片手で食べられて体も温まる肉まんならうってつけだろうと、将吾なりに気を利かせて買ってきたのだ。  だが、今の将吾には、東堂が己の手柄だけを追求して足手まといの将吾をグズと罵っている、という単純な解釈はできなかった。  黙ってしまった将吾に、東堂が怪訝そうな顔をしたのがなんとなく空気で分かる。いつもならカッとなって言い返してくるところだろうと、東堂の方も思っていたに違いなかった。  下手に知ったようなことを言うわけにもいかないし、こういう時にうまく言葉が出てくるタイプでもない将吾と、どうやら拍子抜けしたらしい東堂は、微妙にギクシャクとした空気の中、無言のままその晩もただひたすら待ち続けた。 「ここまで空振りだと、こっちの内部にスパイでもいるんじゃないかと思えてくるな……」  結局その晩も理事長が2人の前に姿を表すことはなく、朝を迎えてしまった。  理事長宅を後にして、最寄りの駅までを重たい足取りで歩く。そんな中、東堂が独り言のように漏らした言葉に、将吾は軽く目を見開いた。それこそ東堂らしからぬ、弱音とも取れる発言だった。  だが、2人が何時ごろから張り込んでいるのか、何時に諦めて立ち去るのかを、もしや誰かに見られているのではないかと思ってしまうその気持ちは、将吾も同じだった。何年記者をやっていても、思うような成果があげられていない時のこの焦燥感、無力感に慣れることはない。  将吾が記者を目指したのは、小学生の頃見た、戦場カメラマンを扱ったドキュメンタリ映画に感化されたのがきっかけだ。  自分が伝えなければいけない光景がある、そう語る戦場カメラマンの使命感に燃える目に、多感な時期特有の、やや過剰気味に強い憧れを抱いた。  将吾の中の原点ともいえるその時の感情は、今でも失われてはいない。だが、大人になって現実というものが見えてくるに従い、それに屈しないための打算や言い訳が、その上にどんどん付着していった。  それでも将吾は、自分が伝えなければいけないことがある、と今でも信じている。それがどんなに些細なニュースだろうと、それによって助かる人、救われる人がきっといると。  だが、その気持ちでさえも、この焦りと苛立ちの前には、萎れそうになる。  ——東堂は、なんで記者になったんだろうか。  らしくない弱音めいた発言に、ふと将吾は思う。今まではただただ嫌味なやつだと思っていたから、内面に興味なんて持つどころか、できれば関わらずに生きていきたいとさえ思っていた。  だが、東堂だってふとした瞬間に弱ることがあるのだ、と思ったら、1人の人間としての東堂を知りたいと思う気持ちが、ふわりと芽吹いた。  自分とは何もかもが正反対に見えるこの男は、何を思って記者になり、どういう思いを持って日々仕事に当たり、そしてどんな壁にぶつかってきたのだろう。  ぼんやりと考えるうちに、すっかり見慣れてしまった最寄り駅のロータリーが前方に見えてきた。  力なく片手を上げて、東堂と将吾はそれぞれの自宅の方向の乗り場へと向かう。  朝のラッシュアワーが始まり出していた。  もう人の流れに逆らう気力さえなく、将吾はくたびれた体を引きずるようにして自宅のマンションへと帰った。
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