4 助けてくれた人

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4 助けてくれた人

 マコトと話してたどり着いた結論を素直に認めきることができず悶々としたまま、数日が過ぎた。  マコトからはあの日以来、セクシュアルマイノリティに関する有意義な情報がラインで大量に送られてくる。読めば読むほど身に覚えのある事実が書き連ねてあって、やっぱりそうなんだ、という自覚を深めていくしかなかった。  そんな鬱々とした日々の中、あるひとつの大きな仕事が終わって打ち上げが開かれた。  わたしの所属する編集部からはわたしと後輩の佑理(ユウリ)、取引先の広告代理店からはマコトと彼女の上司のナツコさん、それと、うちの出版社の役員でもある義郎が参加していた。その他に印刷所の担当者など、総勢20数名の、居酒屋のお座敷を借り切っての飲み会。  わたしは役職の違いを言い訳にして義郎とは離れて座った。佑理がそのことをからかってくる。 「槙さんと高川さん、夫婦なんだから近くで飲んだらいいのに」  本当のことを言わなくてはいけない理由はない。 「夫婦でいつも一緒だからこんな時ぐらいあえて離れて飲みたいんだよ」  ろくに頭を使ってないのに嘘が簡単に口から流れ出ていて、自分で驚いた。見栄を張りたいわけでもなく、義郎を守りたい気もない。ただ、とにかく面倒で、そのことには触れてほしくなかっただけだ。  自分たちふたりのことをこうまで適当にどうでもいい感じで流してしまえるほど、わたしたちは終わりが近いのかも知れない。  人懐っこい佑理が、お酒が進むにしたがって砕けて接してくる。時々腕や肩を触ったり、ふざけながら脇腹を突ついたりして、とても楽しそうだ。  ひとつ歳下の男性だけど、わたしにとってはタイプ的に全くの恋愛対象外な人。仲の良いただの先輩と後輩の仲で、佑理のわたしに対する視線もそれ以上のものは皆無、スキンシップもお酒の場での他愛無い軽いじゃれ合いだ。  その雰囲気に、マコトの上司のナツコさんが便乗してきた。今まで仕事で何度も会ったことはあるけれど、一緒にお酒を飲むのは初めてだ。  立花ナツコさんはわたしより4つか5つくらい年上だとマコトが言っていた。その歳で企画部の部長という驚異のキャリアを積んでいるすごい人。スラリと背が高く、パンツスーツをいつもキレイに着こなしている、大人の女性。かっこいい、という形容詞がやたらとハマるのに嫌味がないのは、いつも誰に対してもニコニコとしているからだろうか。サバサバしている割になんとなく独特の色気がある、不思議な雰囲気の人だ。  ナツコさんたちの会社の社長が違う字の(たちばな)という名字なため、紛らわしくないようにナツコさんは社内では下の名前で呼ばれている。  今まで仕事で話をしてもそれ以上の接触がなかったのは、わたしが彼女に対して少し壁を感じていたせいだ。仕事仲間とは割とフレンドリーに上下関係も緩く接してきたわたしにとって、人の上に立ってきびきびと動き回っているナツコさんは、眩しすぎて近寄りがたい存在に思えたのだ。なんとなく、学生時代のバイトの延長のようなノリで仕事をしてきたことが後ろめたかった。ルックス、キャリア、言動、全てにおいて、ナツコさんはなんとなく『別世界の人』という印象があった。  そのナツコさんが、佑理と同じように、じゃれるようにわたしに触れてくる。時には腕に、時には肩に。そして、髪に。その感触に、ゾワゾワと鳥肌が立って、焦った。  今まで見てきたナツコさんと雰囲気が違う。お酒のせい? 「槙ちゃんピアスかわいいじゃん、見せて!」  仕事絡みでは、義郎がみんなから高川と呼ばれているので、わたしは取引先からも先輩からも後輩からも下の名前で呼ばれるのが当たり前になっていた。だから、ナツコさんから『槙ちゃん』と呼ばれても、それはマコトや佑理から『槙さん』と呼ばれるのと全然変わらないことなはずだ。それなのに、ナツコさんの呼び方はなぜかわたしの耳をスルーしないで絡まるようにとどまった。  ナツコさんの指がわたしの耳にかかる髪をそっとどけて、一瞬、耳たぶを掠める。心臓がキュッと縮こまった気がして、思わず息を吸い込んだ。  おかしい。何かが変だ。佑理に触られても何ともないのに。  きっとナツコさんは意味もなくノリで触っているのだろう。でも、どうしてもその指の感触がわたしを惑わせる。  嫌だな、と思った。今、まだ、自分の中で色々なことに決着がついていない。全てが中途半端だ。そんな状態で新しい何かを受け入れるのは、わたしのキャパがもう対応できない。  何もない。ただの打ち上げ。ただの飲み会だ。そして、みんな、ただの仕事仲間。ただそれだけだ、と必死に自分に言い聞かせた。  ひとしきり飲んで騒いで、ふと、離れたところにいる義郎と目が合った。その目には、明らかに怒りの色が含まれていた。スッと酔いが醒めるのがわかる。  何か彼の癇に障ることがあっただろうか。少し怖くなって、いったんクールダウンしようと、席を立ってトイレに行く。  用を足して、トイレを出たところにある狭く暗い一畳ほどの待機スペースで、ふと立ち止まる。  義郎がいた。  先ほどと同じように怖い顔をして、黙って立っていた。 「どうしたの?」  声をかけた途端、ものすごい勢いで腕を掴まれた。そのままトイレの個室に連れ込まれる。鍵がかかるカン、という音がやたら大きく感じた。 「どうして俺には触らせないくせに、あんな男に簡単に触らせるんだよ」  義郎は凄んだ。顎を掴まれていて、返事が出来ない。怖い。怖い。怖い。そのまま無理矢理唇を合わせられ、強引に舌をねじ込まれる。よろけて頭をトイレの壁に打ち付け、鈍い音がした。酔っていて、真上を向かされ、グラグラと不安定な身体は当然倒れそうになる。でも義郎がわたしの身体をかき抱き、倒れることすら許してもらえない。  苦しい。怖い。気持ち悪い。そして何より、この唇や手の温度をわたしはよく知っているという事実が、わたしのなけなしのプライドや理性といったものを容赦なくぶち壊した。  呻き声が漏れるけれど、外まで聴こえるほどは出せない。苦しくて、どうしようもなくて、手が届く壁を叩いた。でもすぐに義郎に押さえられて、それも出来なくなった。膝が震える。吐き気がして、胃がぐるぐるとうごめくのがわかる。恐怖と悪寒に身が震え、叫び声を上げそうになる。義郎の唇がわたしの口から離れて、首筋を強く吸った。  そこでようやく、大きな声で拒絶した。 「やめてよ!」  その時、トイレのドアが外側から叩かれた。誰かが叫んでいる。 「何してるの、開けなさい!」  その声で我に返った義郎が、力を緩めた腕から滑り落ちてへなへなと床に座り込むわたしを呆然と見下ろしている。微動だにしない義郎の身体を押しのけて、わたしは這うようにしてドアの鍵を開けた。そして、ドアの外にいた人に引き起こされた。 「何してるの。いったいこれはどういうこと!?」  ナツコさんだった。  抱えられるように立たされて、ほぼ停止した思考の片隅で、おっきい人だなぁ、とぼんやり考えていた。  たとえ夫婦間であっても、レイプはレイプだ。ナツコさんが来なければここでそうなっていたかも知れない。それを考えると震えが止まらない。怖かった。  ナツコさんはわたしをしっかりと抱きかかえて、優しく背中を撫ぜた。今、目の前でわたしがトイレの床を這っていたのを見ただろうに。そんな汚いわたしに、どうして何の躊躇もなく触れてくれるのだろう。 「夫婦のことに赤の他人が口出しするのは良くないと思うけど、それとこれとは話が別。こんなことは見て見ぬふりはできない」  ナツコさんは、追って駆けつけたマコトに、自分とわたしの荷物を取ってくるように頼んだ。そして、すぐに戻ってきたマコトから荷物を受け取った。 「ありがと。野崎ちゃん、槙ちゃんが酔ってしまったので送っていくとみんなに伝えて。高川くんはこのまま放っておいていい」  そう言って財布から2人分の飲み代を出してマコトに渡した。  それから、乱れたわたしの服を手際よく整えて、ふらつくわたしを洗面台に促して手を洗わせてくれた。涙も拭いて、崩れたアイラインをいい匂いのするハンカチを濡らしてそっと拭ってくれた。  支度が済むと、まだ女性用トイレの個室の中で無言で立っている義郎を一瞥した。 「知らない人だったら即通報案件ね。でも、仕事仲間のよしみで今はスルーしてあげる。今は、ね。これから槙ちゃんと相談するから、覚悟はしておいて」  義郎は何も言わず、こちらを見もせず、ただ突っ立っていた。情けない顔をしてせっかくの男前が台無しだ、と思う。最低最悪なひどいことをしてきた奴なのに、そんな姿を見ると可哀想に思う気持ちがまだ残っていて、これでもちゃんと夫婦だったんだよな、と切なくなった。  混乱して判断力が鈍っているのかも知れない。今は、しっかりとした言動で客観的に目の前のいざこざを裁いてくれているこの人に従おう。 「今日はこのままこの子預かるから」  ナツコさんはそう言って、わたしの肩を抱えるように誘導して店を出た。  店の前の大通りでタクシーを拾って一緒に乗り込む。車が動き出すとナツコさんは改めて、わたしを自宅に連れて帰ると宣言した。なんと答えていいかわからず黙ったままでいたのに、タクシーの中でもずっと肩を抱いて手を握ってくれていた。まだよく知らないナツコさんにここまでしてもらって申し訳なく、気まずさもあって、手をそっと振りほどこうとする。 「だいじょうぶです。もう。すみません。手を…」 「いいから」  ナツコさんが静かにそれを制した。  ごめんなさい、と謝るわたしに、ナツコさんは優しく囁く。 「あなたは悪くない」  柔らかい声がふわりと響いた。 「さっき、トイレに立ったあなたの後を怖い顔して高川くんが追いかけたからアレ?と思って、野崎ちゃんにちょっと聞いてみたの。そしたら、あなたたち夫婦が良い状態じゃないって聞いてあわてて追いかけたんだけど、間に合って本当に良かった」  その言葉を聞いて、色々なことがぐるぐると頭の中をめぐって涙が零れたけれど、まだそれほど親密でないナツコさんに容易に見せるわけにもいかず、顔を背けて必死に隠した。  ナツコさんがその涙に気づいたかどうかはわからないけれど、わたしの肩を抱き続ける腕は優しく、握ってくれている手は柔らかくて温かかった。  ナツコさんのマンションに着くと、彼女は友達を招いた時のように普通に接してくれた。 「服、汚れちゃったね。すぐシャワー浴びておいで。着替えは……とりあえずあたしのでいい?」  こちらの返事を一切待たず、反論の余地も全くくれず、ナツコさんはテキパキとタオルや着替えの準備をしてくれた。  服、とナツコさんは言ったけれど、本当は義郎に触られたところを洗いたいと思ってることに気づいてくれている。だから、リビングに通される前に直接浴室に連れて行かれた。  脱衣所でわたしの手からバッグとジャケットを受け取って、そのままわたしの髪をスッとかき上げた。 「(あと)ついちゃったか……」  洗面所の鏡を横目でチラッと見ると、本当に首に赤い内出血があった。義郎の存在を否応無しに思い出してしまって、思わず目を強く(つぶ)る。すると、その内出血のある場所に何かが触れた。驚いて目を開けたら、ナツコさんがわたしの首の痕に指を押し当てていた。  嫌だ。そんなことをしたらナツコさんの指まで汚れてしまう。離れてほしい。でも、言葉が出てこない。 「このブラウス、洗濯しても大丈夫?」 「……はい」 「脱いだら全部ここに入れておいてね」 「……はい。すみません」 「はい、クレンジング。クリームだけど大丈夫?」 「……はい」 「下着は今ストックないから、そのまま直接服着ちゃっていいよ」 「……すみません」  謝ることしかできないわたしの頭にポンと手のひらを乗せて、ナツコさんは優しく笑った。 「もう。そんな謝らなくていいから」  洗濯機の蓋を開けて、ナツコさんは脱衣所を出た。  浴室に入ると、正面に鏡があった。なんとなくそこに映る自分を見ることができずに、鏡に背を向けてシャワーを浴びた。  どこを洗いたいか考えたらさっきの義郎の顔が脳裏に浮かんで、心拍がドッと上がったのがわかる。慌てて別のことを考えようとして、失敗した。義郎の顔だけではなく、声や、手の感触まで、ズルズルと勝手に蘇ってくる。  叫び出しそうになって、思わず口元を押さえた。  その時、脱衣所にナツコさんが入ってきた。浴室の扉越しに声をかけられる。 「槙ちゃん? 服、洗濯しとくけど、あたしやっちゃってもいい?」  なんて答えようか考えていたら、いつの間にか義郎の記憶はどこかへ消えていた。助かった。 「あ、はい、あの、大丈夫です」 「下着……ブラもネットに入れて洗濯機で大丈夫?」  下着を他人に洗ってもらうような状況に今までなったことがなくて、その予想外の展開に軽くパニクる。 「え、そんな、あの、すみません、それは、自分で、あの」 「いいよ、気にしなくて。女同士なんだし」  女同士。  一瞬引っかかった言葉に気を取られそうになったけれど、それよりパニックを落ち着ける方が先決だと思って言葉を探す。 「あの、はい、すみません、ネットで大丈夫です、すみません」  状況も、展開も、もう何が何やらよくわからない。わからないので、もう考えるのはやめた。ひとつひとつ、目の前のことをクリアしていくしかない。 「シャンプーとか、なんでも好きに使ってね。出てからも、ここに基礎化粧品色々置いとくから好きなの使っていいからね」 「……はい。ありがとうございます」  混乱しすぎてどうしようもなくなって、わたしはできるだけ脳みそを使わないようにして無心でシャワーを済ませた。   「日本茶と紅茶、どっちがいい? それか、珈琲?」  とりあえず甘いものが飲みたかったので、紅茶をお願いした。あまりに普通な振る舞いで、打ち上げでの出来事が夢だったのかと思ってしまう。  バスルームから出てきたわたしを見たナツコさんは、借りた服が大きすぎて子どもがお母さんの服を着ているみたいだと大笑いした。それでなんとなく場の空気が緩んで、わたしがここにいてもいい理由をもらえた気がした。  使わせてもらったシャンプーもトリートメントも基礎化粧品も、全てが自分のものと違う香りで、不思議な感じがする。 「あたし、こう見えて実は敏感肌で、あんまり強い成分入ってるの使えなくて。割とシンプルな自然派系しか持ってないんだけど、大丈夫だった?」  そう言われれば確かにソフトで柔らかい使い心地のものが多かった。ナツコさんがいつも薄化粧なのは、あまり肌に負担をかけられない理由があったからなのだと初めて知る。 「はい。全然問題なかったです」 「そんな気を遣わないで」 「いえ……」  どうしてここまでしてくれるのだろう、と考えて、今のわたしはそうしてもらわないといけないほど情けない状態なのかも知れないと思うと、恥ずかしいし(むな)しかった。 「今日はこのまま泊まっていってね」 「そこまで甘えるわけにはいかないので、落ち着いたら帰ります」 「もう電車なくなるし、服も洗濯しちゃったよ」  そう引き止められて、しぶしぶ受け入れる。確かに、シャワーだけでなく服まで借りて、しかも自分の服は洗濯までしてもらっていて、この状態でどうやったら帰れるのかと自分でも呆れてしまう。  かなり強引だけれど、それに引きずり回されるのが少し心地良いと思ってしまったわたしは、やっぱりだいぶ混乱しているのだろう。  ハニーシロップを入れた甘い紅茶をいただきながら、改めて室内を見回す。女性のひとり暮らしにしては広すぎるマンション。生活感はあるけれど乱雑な感じではなく、それなりに片付いている。 「あの、ご家族は?」  もし同居のどなたかがいらしたら迷惑かけてしまうかと思って確認をした。  訊ねてから、少し苦い顔をしたナツコさんを見て、しまった、と思った。フルタイムでバリバリ働いている女性の家にしては片付いているので、親と同居でもしているのかも、とも思って訊いたつもりだったのだけれど、もしかして訳ありのひとりなのか。 「あたしバツイチなの。野崎ちゃんから聞いてない?」 「いえ。何も」  マコトからはナツコさんのプライベート情報はほとんど何も聞いていない。  そっか、と小さなため息をついたナツコさんが、実はね、と話を始めた。 「2年間ほど結婚してたんだけど、色々あって離婚したの。その時に旦那が出て行って、このマンションは慰謝料代わりにもらって。売っちゃっても良かったんだけど、色々面倒でそのままズルズルと住み続けちゃってて」  慰謝料、と聞いて夫側に離婚の原因があったことはなんとなく察したけれど、込み入った話はまだ聞いてはいけないような気がして、わたしは黙った。 「広い割に物が少ないから、ちょっと違和感あるよね」 「そんな、ことは……」  ここまで親身になって助けてくれてさらにプライベートのことまで話してくれたナツコさんに、自分のことも少しは話しておかなければ、と思った。 「あの、今日はほんとうに……本当にありがとうございました。打ち上げも途中で出ることになってしまって……色々と、すみませんでした」  よくよく考えたら、助けてもらっただけではなく、途中退出どころか飲み代もわたしの分まで払わせてしまっていた。それはさすがに返金しなくては、と思ってバッグから財布を取り出す。 「わたし、夫とは……高川とは、ちょっとうまくいってなくて、もう半年以上まともに会話もしていないんです」  さっきのお店でナツコさんがマコトに渡したお金の半額を渡すと、黙って受け取ってくれた。  少しずつ、ゆっくり、でもあまりディープなところまで伝える段階ではないかと思い、わたしと義郎の現在に到るまでを簡単にかい摘んで説明した。面倒な説明を省いたので、案外短時間で伝えることができた。あんな奴とのことは、これくらい簡素な説明で十分だ。  ナツコさんは全てを黙って聞いてくれていた。 「どうする? 被害届、出す?」  訊ねられて初めて、さきほどの出来事はそれほどの大事だったのだと気付く。よく考えてみたけれど、そんなことになった原因はひとつではなく、実際には未遂だったこともあるし、被害届は出さないことにすると伝えた。でも、このまま夫婦関係を続ける自信はない。だいたい、あんな事があったのにこのまま義郎が居る家に帰ることも出来るわけがない。 「ご実家は……確か遠いって言ってたよね。ご兄弟は?」 「近くにはいません」  こんな時に頼れる親族が周囲に全然いないということを改めて思い知る。なんだか寂しい人だな、と自分を哀れにすら思った。  ナツコさんが、少し黙って何かを考えてから口を開いた。 「気持ちが落ち着くまでここに居ていいよ」  それから、そっとわたしの肩に触れた。  ドキリとした。  別に、そういうアプローチだったわけではない。でも確実に、ナツコさんの指が触れた肩が熱い。それでもそんな戸惑いを知られては嫌われるかも知れないと思って、顔色が変わるのを必死に隠した。 「ご迷惑おかけしちゃうので、明日にでもマコトの家に移ります」 「野崎ちゃんは彼氏と同棲してるし難しいと思うよ」  また、だ。また、中ば強引に、ナツコさんのペースだ。 「ウチは部屋も余ってるし、女1人で寂しいから話し相手になって」  そこまで言ってもらって、とりあえず今は有り難く甘えさせてもらうしかない。本当は話し相手が欲しいというのが心からの本心なんかであるはずがない。それでも、それがわかっていても今のわたしにはその申し出は有り難かった。 「ありがとうございます。あの、早めに住むところを探します」  誰かを頼るのは、怖い。ちゃんと恩を返せるかどうか分からないからだ。  混乱しすぎて思考力が落ちているのが分かる。今はとにかく少しでも休んで、まともな頭でちゃんと今後のことを考えなくては。そう思ってとにかく気持ちを落ち着けようとするのだけど、なかなか思うようにいかない。  違和感がある。  何かがおかしい、と思うのに、それが何なのかがわからない。でもわたしは何かに対して確実に動揺していて、それはきっと、ここから出ていかない限りいつまでもわたしにまとわりついてわたしを惑わし続ける気がする。  それを、知りたいと思ったし、知らない方がいいとも思った。 「そんなに焦らなくていいから」  ナツコさんの声が耳に柔らかく響く。わたしは涙を堪えるのに必死で、まともに返事をすることができなかった。
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