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唐突に、夏輝が挙手をした。
「じゃあ、せっかくなんでリクエストしていいですか、晩飯」
「どうぞ」
「カレーが食いたいです。おれの住んでた施設のカレー、あんまり美味くなかったから」
「わかりました。準備しておきます」
カレーとは、また一段と子どもっぽいメニューを選んだものだ。かわいらしさに、つい笑みがこぼれてしまう。
「あ、笑った」
「え?」
「紳さんが笑ったとこ、はじめて見た」
目を丸くする夏輝よりも、紳のほうが驚いていた。思わず顔の下半分を右手で覆い隠す。
笑ったのなんて、いったい何年ぶりだろう。担当する事件の被害者遺族に対してでも、ろくに微笑みかけることができなかったというのに。
「やっぱカッコいいな、紳さん」
うっとりと目を細めた夏輝が、両肘をつき、テーブルに身を乗り出して紳を見つめた。
「これからはもっといっぱい、笑った顔、見せてくださいね」
夏輝が大好きな笑顔を見せてくれる。一気に頬が紅潮し、うっかり照れてしまったことを隠すように紳は缶ビールに口をつけた。
ピザ屋が押したインターホンが鳴り響く。「はいはーい」と夏輝が応じに動き出す。
不思議な気持ちを胸にかかえ、紳はビールの缶をテーブルに置いた。
あれほど人嫌いだった僕が、どうしてこんなところにいるのだろう。夜桜を見に行くだけのはずが、なにがどう転んだら、彼と寝て、食卓を囲むことになるのだろう。
夏輝がピザの箱を運んでくる。二人で広げ、小さな宴が幕を開ける。
これから先、こんな風に彼と同じ時間を過ごすことが増えるのだろうか。
きっとそうだろう。離れたくないと言ったのは紳のほうだ。
変わっていく。少しずつ。
人のぬくもりなど必要ないと頑なに信じていた自分が、夏輝のおかげで、欠落していた欲求や感情を一つずつ取り戻し始めている。これまで知らなかった楽しいことを経験し、思い出を増やしている。
「案外いいでしょ、誰かと生きる人生も」
夏輝が尋ねる。紳は黙って目を閉じた。
――きみとだから、楽しいと思えるんです。
恥ずかしがらずにそう伝えられる日が訪れるのは、もう少し先のことになりそうだ。
紳の美しい顔には、しかし、穏やかな笑みが浮かんでいた。
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