9.

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 唐突に、夏輝が挙手をした。 「じゃあ、せっかくなんでリクエストしていいですか、晩飯」 「どうぞ」 「カレーが食いたいです。おれの住んでた施設のカレー、あんまり美味(うま)くなかったから」 「わかりました。準備しておきます」  カレーとは、また一段と子どもっぽいメニューを選んだものだ。かわいらしさに、つい笑みがこぼれてしまう。 「あ、笑った」 「え?」 「紳さんが笑ったとこ、はじめて見た」  目を丸くする夏輝よりも、紳のほうが驚いていた。思わず顔の下半分を右手で覆い隠す。  笑ったのなんて、いったい何年ぶりだろう。担当する事件の被害者遺族に対してでも、ろくに微笑みかけることができなかったというのに。 「やっぱカッコいいな、紳さん」  うっとりと目を細めた夏輝が、両肘をつき、テーブルに身を乗り出して紳を見つめた。 「これからはもっといっぱい、笑った顔、見せてくださいね」  夏輝が大好きな笑顔を見せてくれる。一気に頬が紅潮し、うっかり照れてしまったことを隠すように紳は缶ビールに口をつけた。  ピザ屋が押したインターホンが鳴り響く。「はいはーい」と夏輝が応じに動き出す。  不思議な気持ちを胸にかかえ、紳はビールの缶をテーブルに置いた。  あれほど人嫌いだった僕が、どうしてこんなところにいるのだろう。夜桜を見に行くだけのはずが、なにがどう転んだら、彼と寝て、食卓を囲むことになるのだろう。  夏輝がピザの箱を運んでくる。二人で広げ、小さな宴が幕を開ける。  これから先、こんな風に彼と同じ時間を過ごすことが増えるのだろうか。  きっとそうだろう。離れたくないと言ったのは紳のほうだ。  変わっていく。少しずつ。  人のぬくもりなど必要ないと頑なに信じていた自分が、夏輝のおかげで、欠落していた欲求や感情を一つずつ取り戻し始めている。これまで知らなかった楽しいことを経験し、思い出を増やしている。 「案外いいでしょ、誰かと生きる人生も」  夏輝が尋ねる。紳は黙って目を閉じた。  ――きみとだから、楽しいと思えるんです。  恥ずかしがらずにそう伝えられる日が訪れるのは、もう少し先のことになりそうだ。  紳の美しい顔には、しかし、穏やかな笑みが浮かんでいた。
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