この世界に祝福を

1/30
16人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ
中原は死に際だった。ベッド横の窓は開いていて、風が熱った体を撫でる度に、中原はかろうじて病室にいることを悟った。中原と世界とを繋げるものはそれっきりで、青い空の流れには、雲が一隻だけ浮かんでいる。気を抜くと、それが天国への入り口なのか、それとも現実にある風景なのかもあやふやになりそうになる。大河ほどに遠かった死との境界は確実に狭っていた。 「なぁ、起きろよ」 言葉をかけられたのは、中原が穏やかに瞼を閉じてからしばらく経ってからのことだった。中原はほとんど手放しかけた意識の中で、その声かけに最期の走馬灯の始まりを予期した。が、不思議なのは、どんなに自分の狭い交流や思い出せる限りの過去をさらっても、その声を聞いた記憶がなかったことだった。(そもそも生前のことなどまるで忘却しているので、前世という概念を度外視して考えると)、初めてのものを不正解だと決めかかることは難しかった。 中原は病室の窓辺にとまった、小さな不死鳥と目があった。中原はそれまで不死鳥を見たことがなかった。が、その不死鳥はなぜか、中原の頭の中にあるイメージそのもので、疑いようもなく、不死鳥であると、彼は認めた。あえてここでイメージとの差異を挙げるなら、不死鳥が美しすぎるということだけだった。 不死鳥の容貌を単に美しいという、ありきたりな言葉でしか描写できない自分の言葉の稚拙さを、彼は悔やんだ。今までの彼といえば、言語全般に無頓着で、野ざらしに咲く向日葵も、夕映になく蝉の姿も、美しいという形容にくるんで、違和感を持たなかった。肝心な時、感動を記憶に残す方法をよく見るということ以外に知らなかった。一体、不死鳥は、いつからそこへいたのだろう。銀のサッシをその鋭い鉤爪で掴み、不死鳥は紅い目でこちらをジッと見下ろしていた。空は塞がれ、眠っていた長さを量るものは、蛍光灯の灯りに照らされた両目の痛み以外になくなってしまった。 「一緒にこないか」 不死鳥は中原に答えを求めていたが、すでに病魔により精神とほとんど解離した体では会話は出来そうになかった。特に肝心の唇はすっかり縮みこんで、顔の下に鎮座していた。しばらく黙っていた、不死鳥も痺れを切らし、「驚きすぎて、何も言えないか。それとも……」と、中原の体に繋がれた機械やチューブ類を一通り眺め、辺りの様子を確認すると、窓から下のベッドへと飛び移った。枕元まで来ようと、胸を張って歩いてくる。不死鳥にせよ、それは紛れもない鳥だった。中原は身をこわばらせた。昔から、中原は鳥に過度な拒絶を示していた。中原の街に、赤レンガの塗装が施されたペットショプが建てられた6年前の冬、中原はまだ、健常な体の小学生だった。それほど高級でもない住宅街の間に突如現れたペットショップは、異国からそのまま飛んできたような華やかな外装で大看板を設けなくても、否応なく目立った。入ってゆく客も外車を傍に乗りつける、いかにも都会的な、この辺りでは見かけない類の大人ばかりだった。(当然、入っていく勇気はないが)、近所の子供達の間では十字路を一本向こうに逸れ、その店の前を通って帰宅することがちょっとした遊びとして、流行っていた。水曜は少し授業が終わる日で、中原も友人に誘われて、放課後に店へ向かった。雨が降りそうな暗い空を反射する、新品のショーウィンドウの先には、淡い橙色の照明に照らされた子犬や子猫の姿が思ったよりも、はっきりと見えた。夕暮れ時で、車の往来も少ない時間だった。透明な箱の中に入れられた犬や猫の大半はひどく気だるげに眠っていて、時々、手の上げ下げやあくびで中の客の機嫌をとっていた。中原はその様子に親しみを寄せたが、一緒に来た友人達は興奮気味に目を開き、おそらくもっと単純なところで喜んでいるようだった。しかし、平穏はそこまでだった。奥に潜んだ何十対の蠢きに気づくと、顔から血の気は失せ、動きはただ一点に止まった。中原の前には、インコや文鳥が一緒くたに詰められたアンティーク調の白い格子の組まれたケージがあった。その中で鳥達は蠢き続けていた。枯葉のように羽の色を脱し、足や嘴などの突き出たパーツの輪郭をなくし、感情の見えない瞳だけを持つ、塊のひとつに変わり果てようとしていた。現象に瓦解したそれはケージの柵やガラス板をも乗り越え、中原の心を何千の不気味なレンズに捕えた、まさしく、それは怪物だった。そのものに、理性や感情はなかった。ただ、本能のままに、特異の性質や凹凸を奪いさり、均等な同質として取り込み、増殖することに徹していた。蛹に閉じ込められ、強制的に己の体を弄られていく芋虫のように、中原は非力だった。進行していく恐怖によって、意識が遠くへ切り離されたのを感じた。 中原が我に帰った時、すでにあの店はなく、かわりにクリーム色の見慣れた天井があった。枕は頭から首にかけて、高熱で一晩うなされた時のような異常な汗で湿っていた。起き上がると、頭がズキズキと痛んだが、それも打ちつけた打撲なのか、寝起きのだるさなのかわからない程度だった。友人達が自分を家まで必死に運んできた経緯を母から説明を受けてからも、体調は優れたままだったので、とりあえず、ありがとうを伝えるだけの端的な電話を夜のうちに済ませた。 倒れた訳を問われれば、誰に対しても軽い貧血だったと、笑いながら答えたのは、余計な心配をかけさせたくなかったというのと、その後で変な噂が流布するのを恐れたためだった。衝動的な戦慄と鳥の目を貼り付けた怪物の記憶は二週間ほど抜けず、不規則なフラッシュバックを繰り返した。中原の鳥嫌いが、その日を境にさらに加速したことは言うまでもない。常に鳥に監視されているのではないかという、漠然とした不安に慢性的に悩まされるようになった。当時、鳥からの逃亡はすでに生活の一部に組み込まれる深刻な域に達していたが、その克服はおろか緩和さえ不可能なようだった。 実は、この恐怖の最も恐るべき点は、あるべき感情の起点がわからないことだった。本来、恐怖はなにかに根ざして、芽を出すが、少なくとも、彼の人生にこれほど彼を鳥嫌いに動かした体験やトラウマはなかった。飼い主に見知らぬ人間が来たら吠えろと教え込まれた番犬のような反射で、物心つく頃から中原は鳥を恐れていたのだ。根もないままに蔦のような、鳥への恐怖は時間にさえ争ったまま、今、この時も中原の心に固く巻きつき、成長をしていた。 ところが、不死鳥は、すでに中原の顔の前まで到達していたのだ。発作が起きて然るべき距離はおそらく、とうに過ぎていたのだろう。中原はパニックに陥るどころか、非常に和やかな心持ちで不死鳥に向き合っていた。中原自身、その落ち着きようが不思議でたまならなかった。肩透かしに困惑しながらも、中原は横目で不死鳥の様子を追っていた。ゴソゴソと、不死鳥は胸のあたりに首を回し、なにかを探っていた。 不死鳥の次の動きに、躊躇はなかった。その素早さに、当の中原でさえ自分がなにをされているのかを理解するまで時間がかかったほどだ。不死鳥は中原の喉にくちばしを突っ込んでいた。どうやら、くちばしに咥えたものを無理矢理、飲み込ませようとしているらしかった。突然、侵入してきた異物に鈍くえずいても、不死鳥の様子は変わらない。下にいく力の強まりと苦しさに比例して、自身の命が脅かされつつあるのではないかという。真っ当な懐疑が膨らんだ。急性の吐き気と共にベッドの中でぶ厚いメッキを塗り行儀良く収まっていたはずの胸騒ぎが、中原の心に爪を立てる。崇高な運命という理解を崩し始めた死の感覚が、突然、暴力的な肉薄として、痛ましい想像を脳裏に描き出すのだ。 隅に追いやっていた洞察をできる限り引き戻し、中原は不死鳥を静止させる方法を考えた。しかし、ここは中原だけの個室で、付き添いの母も今は電話で席をはずしていた。耳を澄ませても、病棟の廊下からは足音は聞こえない。ナースコールも体に引っかからないために、ベッドの一段高いところに置かれていて、外部からの助力はなにひとつ望めそうになかった。 今の中原の持ち物は、木屑の巣で首を出し餌にありつくヒナより脆弱な身ひとつだ。自分自身の抵抗に頼れない状況で、これ以上どんな策を講じらればいいのだろうか。早すぎる手詰まりだった。その間に、不死鳥がいれたなにかは、順調に体内を巡る熱で溶け、咽頭、食道、胃へ、一直線に落ちていく。生々しい嚥下に、強ばった全身の力は弛緩して、詰まっていた重い息がベッドの下へ流れた。そして、中原は自分の不甲斐なさに打ちひしがれた。 中原は目をつぶった。それは全てを放棄した時にする、彼の癖だった。彼は脆く弱い人間で、可能性に見切りをつけてばかりだった。絶体絶命の状況で、いや、絶体絶命な状況だからこそ、彼はこれからの選択肢が『諦めろ』という見慣れた命令に書き変わる現実を看過した。情けなく項垂れて、ぼっと立ち尽くしている、中原の自我は畑に立つカカシほど無様さだった。何をしろ、何をするな、こんな人間になれ、期待という言葉に包まれた抑圧が自分をこんなにも日和見に作り替えたという、ずいぶん前に出したこの答えが単なる責任転嫁であることを、中原はとっくに気づいていた。気づきながら、世界が製造していく不条理に流されることが自分を磨耗しない方法だと悟っているフリをしていたのは、分不相応なプライドが、彼の首におもりをつけ、それ以上の言及を止めていたからだ。不死鳥が口からくちばしを抜くと、さきほどの懸念は杞憂らしかったことが、徐々にわかった。喉は胃酸でキリキリと痛んだが、体自体の痺れや決定的な不調はなく、息もすぐに正常な調子に戻った。 不死鳥は悪びれもなく、立っていた。そればかりか、いいことをしたという風に、くちばしの端をつりあげていた。中原がその不自然な表情をほほえみとして受け取れたのは、大好きな漫画に出てきた離別の過去を抱えた不憫な悪役と、どこか重なったからだ。無理矢理に力を入れて、引き攣ったエクボ、それと少し上についた紅い澄んだ瞳。その目に光を合わせるたび、中原は無性に悲しくなり、怒りの矛先が不死鳥から逸れていくのを感じた。たぎっていたはずの憤りは、不死鳥への強い同情に置き換わっていった。なぜ、こんなにもひたむきな親しみを抱いてしまうのか、と、中原は自分の胸に手を当てたものの、その答えはまだ、先になりそうだった。 「そんなに怯えないでくれよ。取って食うわけじゃない」不死鳥は中原のぐったりとした様子に慌てて、鉤爪で頭をかき、「まだ、時間稼ぎに過ぎないが、とりあえず、応急処置は終わった。これ以上はなにもしないから、話をしよう。まさか、話し方まで忘れたわけじゃないだろう?最低限、喋れるようにはしたんだから、その先は頑張ってくれよ」そう言って、ベッドに丸くなり、ほらと、首を振り、不死鳥は中原を急かした。喋る、心の中でそう唱えて、中原は息を呑んだ。確かに、全ては不死鳥の言った通りだったのだ。感覚を研ぎ澄ますと、ほつれていたはずの糸が真っ直ぐに正されて体と精神が繋がり、末端の唇や指先を飼い慣らす力が湧き出していた。試しに小さく息を吐き、恐る恐る喉を震わせた。唇から飛び出したのは、音だった。言語という形も取らない、小さなうめきだった。が、初めとしては十分すぎる成果だった。自然な話し方など、とうに忘れてしまったのだ。それから、概念としてではなく、実際の行為としての会話の工程を1つずつ探り出した。まず、肺の奥まで息を吸い、張り付いた喉の壁面同士を剥がし、出来るだけ記憶に忠実に言葉の節回しを習う。 「あ、り、が、と、う」 引きずり出した中原の不揃いな言葉の粒が、ふたりの間の沈黙を破ると、中原はゆっくりと内なる振動を噛み締め、目頭を熱くさせた。自分の声の異質ささえ、この病棟で過ごした気が遠くなるほどの時間の結晶のようで、とても愛おしく思えた。もしも、今起こった奇跡がひとときの白昼夢で、いつか覚めてしまうかもしれないとしても、構わなかった。燃え上がるような、この生の隆起の前では、どんなものも彼を暗くさせることは出来そうになかった。 「そうだ、俺のことはサクと呼んでくれ」と、不死鳥は思いついたように、突然、そう告げた。サク、その名が一体、漢字なのかひらがななのかはわからないまま、中原は勢いのまま相槌を打った。不死鳥の告げた名前を一度だけ、口に出してつぶやいてみる。すると、目の前の空間には自分の呼んだ紛れもない声で、小さな名前が空に浮かんだ。 「俺はずっと、一緒に旅する仲間を探していた。そして、その相手にお前がふさわしいかどうかを、さっきまで審査していたんだ」それから少し間を開けて、合格だ、共に行こうと、サクは引き攣った笑みをこぼす。相変わらず勿体つけながら、拍手の要領で羽を叩いていた。羽での拍手は破裂音の代わりに、わずかな気流を作り、壁に貼られた絵をわずかにはためかせた。まず、第一に俺の姿を見ても騒がなかったと、サクは器用に足を上げ、短い指を一本立てた。 「突然、やって来た俺を受け入れ、平然と会話ができる奴なんて、そうそういない。実は、これがとっても大きな賭けで、一応、俺は人に追われている身から、無闇やたらに叫ばれたらまずいなと、内心かなりひやひやしていたんだ。あまり抵抗がひどかったら、喉を鉤爪で引き裂くだとか、どうしても手荒な真似にでざるをえないからね。本当にそんなことにならなくてよかったよ。やっぱり、俺の目に狂いはなかったんだ」と、サクは嬉しそうに言ったが、中原はもちろんその発言に狼狽を覚えた。病気になってから、絶対に良くなるよだとか、ずっと、待っているよだとか、中原はそういう類の優しさ—— 体のいい嘘にまみれて、相手の心にやましさがあるかどうかを、見抜くことができるようになっていた。つまり、サクの言葉がまるで脅しでないことを、中原はわかってしまったのだ。中原の顔が明らかに強ばると、サクは首を振り、「大丈夫、叫ばなければ何も危害を加えるつもりなんてなかった。信じられないかもしれないけど、俺は根っからの平和主義なんだよ。許してくれ、怖がらせるともりなんてなかった。人間と話すのは初めてで、どうも、要領が掴めてないだけなんだ」と、サクは肩をあからさまに落として、「そんなに怯えないでくれ、お願いだ」と、もう一度、すっかり弱々しくなった声で付け足した。サクの懇願は、いつも中原の心を揺らがせた。その目に捉えられると、中原はどんなやっかいをも突き放す気力を失ってしまうのだ。そのまま、中原は口を閉ざすと、サクはため息をつきながら足をあげ、今度は鉤爪つきの指を2本、突き出した。が、もちろん、さっきまでの威勢の良さは見る影もない。「お前を気にいったもう1つの理由は、死にかけだったことだ。そして、それこそが最も重要だった。出会い頭には少しいきすぎていたけど、今はちょうどいいくらいだ。ほら、特にその肌を俺は気にいっているんだよ」立て続けの称賛に、物好きですねと、中原は遠慮がちに苦笑いをして、ダラリと下に垂れた自分の腕を観察した。今更ながらいえば、中原の体は一般的な美しいという概念とは、ちょうど対角線に位置していた。どこもかしこも骨の形が如実にわかるほど浮き出て、その白すぎる皮膚には、所々鬱血した紫色の斑紋が広がっていた。おそらく、顔も同じような有様だった。まさに、死と生の中間を彷徨っている、不気味なミイラの一歩手前だった。だが、不可解なことにサクの言葉の端々をふるいにかけても、やましさの一片がひっかかる気配はなかった。 中原は景色のうちに、裏返しにされた壁掛け鏡を見つけた。鏡は壁の方を向かされ、肝心なものはなにも映せないで、薄く白埃をかぶっていた。長い間、裏返しのままにされていたのだろう。中原の母は几帳面で、そんな不自然な配置を直さないわけがなかった。きっと、衰弱した中原の姿があまりにひどいので、直視しないようにと、わざわざ裏返しにしたのだろう。首を起こすことも出来なかったので気がつかなかったが、ベッド横には丁寧に1つずつおられた千羽鶴が層になって、錦の織のように重ねられ、小机にはひまわりが飾られていた。目を凝らすと、そのひまわりも精巧に作られた造花だった。さらに、正面には一点の曇りのない白の壁と不自然に空いた隙間、そこにあったはずの小型テレビが配線ごと姿をくらましていた。眠っている間に、運びだされていたのだろうかと、中原は考えながら、唇を強く噛んだ。自分を囲む全てのものの根底に溢れる『誰かからの配慮』に中原は不気味さを抱いていた。あずかり知らぬうちに中原のための部屋から、病人を収容するための部屋へと作り替えられ、もはや、そこには中原という人間が入り込む隙間は残されていないらしかった。死という目的の先行した配慮の染みた品々は、他人の憐れみの中で、性質を奪還われた中原が『病人』というモノにされた過程を克明に描いていた。それは、まさに囚人を囚人にたらしめる冷たい鉄檻と同じだった。環境ほど、人間を規定するものはない。過剰な親切で詰まりきった病室の景色は、徐々に中原の視界から輪郭の大半を欠損した。それは中原を散々苦しめた、あの鳥達に起きた現象とそっくりだった。その時、「もう、ひとりはいやなんだ」と、サクが言った。その移り気な表情に、ハッと、中原は息をのむ。脳裏で丸い線香花火が弾けたように情景が飛び、あの夏の黒い絶望が中原の意識を引き込むのがわかった。バスケ部の試合直前の練習で倒れた中原は、そのまま病院に担ぎ込まれた。中原が13歳の頃のことだった。中原が意識を取り戻したのは緊急手術から、ゆうに3日が過ぎた、昼にほど近い朝のことだった。眩しく揺れる光に細く目を開けると、色違いの赤と黄のガーベラが窓辺でハラハラと揺れていた。風が顔に吹き付け、ベッドの脇にいた両親が目に入った。両親は驚いて声を上げると嬉しそうな様子で、しばらく慌てていたが、汗だくの白衣の男が入ってくると、ぴたりと静かになった。医者のような男は、太い指で事細かに中原の体を診た。着た覚えのない白いパジャマのボタンをなされるままに外され、聴診器を当てられた時の冷たさが、まだ夢うつつの中原の意識を急に現実へと引き戻した。それから、男は強ばった表情を解き、中原に恭しく声をかけた。すると、笑っていたはずの両親が今度は啜り泣いて、ありがとうございましたと、しきりに口にしていた。その芝居がかった一部始終を横目に見ながら、忙しい人たちだと、中原は内心呆れていた。その時にはもう、彼はかけられた話の内容を忘れていた。依然、毛布の下にある下腹部から足にかけての感覚は鈍かったが、それを抜けばこんなにも明るい目覚めは珍しかった。リビングからの怒号や耳障りに設計されたアラームの音や繰り返されるはずの日常も、この部屋には見る影もなかった。中原はゆっくりと、現状の咀嚼を始めた。 入院が始まった季節は50年ぶりの冷夏だった。病室に響くセミの声も絶え絶えになり、すぐに姿を消してしまった。危篤から意識を取り戻したといっても、病自体が快方に向かったわけではなかった。むしろ、衰弱は医者が思っていたよりも速かった。半年後には、中原は移動もままならず、ほとんど寝たきりになった。習慣や娯楽の喪失と副作用の強い激しい治療は、計り知れない肉体的苦痛をともなった。毎日、空っぽの胃袋から戻すことで臓器は痛み、短かった髪が抜けて、シールのように爪がボロボロ剥がれ落ちた。が、その状況において、以前よりも中原の精神が安定していたのは、皮肉な事実だった。病床の中原に周囲は寛容を向けるようになり、人々は病気の進行に伴って幸せになった。少なくとも、中原にはそう見えたのである。中原が倒れた日から、毎晩、喧嘩を繰り返していた両親は、すっかりよりを戻し、奔放だった母は夜に男の元へ通うのをやめた。代わりに中原を新しい宿木として、騒がしく世話を焼き始めたのだ。もちろん、父は知る由もなかったが、夜深く母が買い出しにいくと出かけることを、中原はよしといていたし、社会の流れに疲れ切った顔の父親に比べて2歳も若く、女の趣を残す母にも、相応の吐口がなければいけないという風にちゃんと理解していた。両親は一見すると正反対の人に見えたが、本質的に部分はよく似ていた。時に先を追い越され、広くなった体に心を持て余して理想と乖離した人生を嘆いていたのだ。『重病を患った息子』の存在は、そんな足りないふたりによい影響を与えた。同情好きの隣人たちの話題の中心になった母と、家族を守るという明確な役割を与えられた父は、初めて親という居場所に満足を示した。銀のアクセサリーやバニラの香水の匂いが簡素な髪ゴムと健康的な石鹸の香りに切り替わるスピードは目覚ましく、1週間もたたないうちに母は朝を着こなす人になった。それから、母は中原のベッドの横で、「最近、あの人がね、家事まで手伝ってくれるようになったのよ」と、父の様子を中原にいきいきと話した。確かに毎日ではないにしろ、父も週末は中原の元で過ごして、帰り際には、いつもプレゼントをくれた。クリスマスにも帰ってこなかったせいか、中原に渡すのは決まって絶妙に興味のない本で、母の判断ですぐに引き出しに隠されたが、とにかく、父の方としては中原の手に渡った瞬間にほとんど目的を達成しているようだった。一瞬でも中原が喜ぶフリさえすれば、眉間に刻まれた深いしわを緩ませて、父は嬉しそうに笑った。 そんな風に著しい不幸の前で真っ当に矯正されていく周囲の様子から、中原は自分の使命を理解した。より本質的に人を一変させるのは、推敲を重ねた啓発本や親身な説得ではなく、圧倒的な不幸に触れることだ。飛行機がビルに突っ込んだ日、テレビの前の目撃から世界が息を吹き返したように、日常から逸脱した不幸は、いつでも新たな活力と表裏一体だ。当時、中原と仲の良かった友人の中に鈴木という男がいた。鈴木は両親が弁護士であることに胡座をかき、ろくに勉強もせず、周りの人間や教師を見下してばかりいるような、どうしようもない奴だった。別に中原とも馬が合うわけではなかったが、自慢話を嫌煙しないところを気に入ったのだろう。クラスが同じになってからは、よく一緒に遊びに行くこともあった。そんな鈴木が見舞いには少し派手すぎる赤い花束を片手に病室のドアの前で立ち尽くし、号泣しているのを見た時には、中原はひどく戸惑ったものだ。どうやら、鈴木はあまりに衰えた中原の姿に愕然として、泣いていたらしかった。人の号泣をみるのは、久しぶりだった。まして、自分が原因で泣かれるなんて、思いもしなかったわけである。帰り際に、お前の分まで頑張るからと、手を取った鈴木の声は心なしか低く、大人びたように聴こえた。病室で別れて以来、鈴木とはもう会うこともなかったが、春に東京の進学校へ進学したことだけを、年賀状で知った時にはなんとも言えない気持ちに襲われ、ついに自分が他人の不幸を羨むような人間におちたのかと、中原は少しだけ落ち込んだ。 不幸は、中原から当たり前の生活を奪った代わりに、新たな個性と有り余るほどの同情を与えた。母が始めた中原の闘病を書いたブログは瞬く間に大量の応援のコメントで溢れ、数字の取れそうな悲劇の匂いに飛びついたメディアの加勢により、本棚には知らない名前からの色紙が感謝状のように集まり、中原の功績のように誇らしく張り出された。 注目されることは嬉しかった。しかし、次の夏には中原は眠れなくなることが増えた。それは明日がこないかもしれないという未来の不安ではなく、むしろ、死後への猛烈な悲しみだった。具体的にいえば、自分の顔を誰がちゃんと覚えて、泣いてくれるかということだった。この時期になると、中原は自分と病人のイメージの強い癒着に苦しんだ。自分を構成した肩書きがいつしか人格を乗っ取り、マリオネットのように操つられているようだったのだ。もはや、鳥から、群衆に自分の世界の支配が交代しただけだった。目に映る全ての人が元気になってと、かける言葉の裏で、病人の自分を求めている事実が透けて見えた時、母や父や友人の姿はついに歪み始めた。分かったふりをしていた愛が、どれも掴もうとすれば沈んで、誰かといると思ったように息ができなかった。昔の何も持たない自分に戻り、人々が離れていく未来の想像に震え、中原は病が進むことを切に願っていた。本当の絶望とは、実は命の危機ではなく、2度目の夏の一連の顛末だった。しがらみに首を絞められた中原は身動きも取れず、深淵の中へ落ちた。いつかその穴を覗き込み、連れ出してくれる救世主を待ち詫びていることも徐々に無意味に思え、自分の手を引くものが死であろうとも構わないとさえ、思っていたのだ。サクと出会う、その時まで……。 共にいこうというサクの言葉が脳裏を熱く駆け巡る。患者というモノとして朽ちていくぐらいなら、サクとともにこの病室を抜け出す方がよっぽどマシなように思えた。おかしなことに、ここまで世界を歪めきった中でも、サクだけはこの目に真っ直ぐに映る。サクは、静かに言った。 「体を治す代わりに、俺と旅をしてくれないか。お前についてきてほしいんだ」その誘いに、布団の中で細くなった足が疼き始めた。これからの具体的なプランや目的や、他にも聞くべきことはたくさんあったはずなのに、旅へ、その言葉を反芻するたび、細々とした懸念は霞んで消えてしまった。 「連れていってくれ」中原はできうる限りの精一杯の声で叫んだ。残された時間を鑑みれば、その返事はサクと運命をともにするという決意そのものだった。こんな覚悟をもち、誰の顔色にも左右されず、人生の筋書きを書き換えようとする日が来たことを、中原自身信じられなくて、柄にもない話に少し照れ臭くなった。 意外な即答にめんくらった様子のサクに向かって、僕はいくよ、いきたいんだと、中原はさらに語尾を強めた。本当にいいのかと、速すぎる結論を前に、サクは中原へ再考を促していた。が、中原が迷う理由はなにもなかった。最低な状況において、いいことがあるとするなら、それは、その先の可能性に後ろ髪をひかれないことだけだった。中原は深く頷いて、君が誘ったんだろと、なぜか、さっきから人一倍、中原の身を案じているサクを笑い飛ばした。サクの表情に、中原はこの誘いがどれほどの覚悟を持ってなされていたのかを、初めて知ることになった。伏目がちに、羽を2枚ちぎって、サクはそれを中原に握らせた。どちらも細い羽ではなかった。形の揃った長い赤毛が扇状に並び、中心には骨に似た硬い軸があった。見れば、羽の付け根の白い柄の終わりには、サクの赤い血が滲んでいた。 「これを食べるんだ」と、それだけを告げ、サクは窓辺に立ち、次の瞬間、外へと飛んだ。すぐにでも追いかけていきたかったけれど、まだ、中原は起き上がることができなかった。中原は羽を見つめた。この部屋にあるのは、さっきの指示と羽だけだ。中原は、思い切って、羽を口に入れた。サクが訪れなければ、中原に残された余命は、ちょうど3年だった。そして、この時に彼は運良く、3度目の夏を迎えた。かろうじて動かせる腕で喉へ押し込むと、羽はふわりと溶け出し、2枚目になれば、飲み込む最中に体に力がみなぎるのがわかった。数分前、サクが食べさせられたものの正体は、まさにこの羽らしかった。舌で触れてみても、味はしなかった。 中原は裸足で磨かれた床に立っていた。羽には目覚ましい効果があった。起き上がれるだけではなく、つねに付き纏っていた気だるさや腹痛もすっかり、消えてしまった。なにより、窓との距離がグッと近くなった感じがした。ガラスに触れると、熱った体が冷えていった。長方形のフレームに囲われた世界の、その先に広がる景色は、どこから見ていけばいいのかわからないほど忙しく色を変えていた。行き来する情報の速さに驚くうちに、「飛び降りて」というサクの声が聞こえた。中原は慌てて身を乗り出したが、その下にサクの姿はいなかった。「さぁ、はやく」と、煽るように語尾を強めて「はやく、飛び降りんだ」と、立て続けにサクの声がなにもない場所から聞こえてくる。幸い、窓の安全ロックは緩く、幼児ほどの体重に痩せ細った中原ならなんとか通りぬけられるものの、下は硬い地面があるだけだ。四階といえ、その高さに足がすくんだ。けれど、旅は自分のこの一歩からしか始まらない。もたもたしてはいられない。中原は何年もかけて溜まった手紙の束を見て、頷いた。今しかないのだ。隙間から肩を傾けて抜き出し、最後は手で勢いをつけて、思い切り空中へ身を投げた。すると、浮遊感を感じないうちに、着地した。うつぶせになった場所はとてもやわらかかったので、衝撃もほとんどなかった。手で触れると、地面は温かった。 下を直視できずに、硬くつぶっていた目をようやく開けた時、そこが赤い羽毛の上だとわかった。そして、次に目に飛び込んだのは、一面の青だった。驚いたかい?と、サクの楽しげな声が足元から震えて響いた。驚くべきことに、中原はサクの背に乗り、空を飛行していた。少し後ろを振り向くと、先程の病院が小さく見える。中原は思わず、どこにいたの?と、尋ねると、ずっと、下にいたさと、サクは当たり前のように答えた。が、あの時、サクの姿はどこにもなかったはずだった。中原の疑問を遮るように、「見えるものが全てじゃない」と、サクは言った。それにさっきまでオウムほどだったサクの体長は、いまや中原一人を軽々乗せられるほどの大きさになっている。 「ねぇ、ずいぶん大きくなったじゃない?」 「不死鳥に形なんてものはないんだよ。ただ、心の赴くままの姿になるだけさ」そういう話があるなら、目に見えるものが全てじゃない、確かにサクの言ったことも曲がり通るのかもしれないと、中原は思った。「飛んでいる間に、昔話や諸々をしよう。どうせ、街を越えるまでは同じなんだ。別に急ぐこともないんだから」早口にサクは話を始めた。 「どこから言えばいいか。まず、公平政策のことや不死鳥狩りのことは知っているか?」なにもと、中原は風で舞う髪を押さえて答えた。ほんとうに?驚いて聞き返したサクに中原が同じ返事を繰り返すと、サクの大きな笑い声がかえり、踵が震えた。それから、サクの体がぐるりと30度ほど、厚い雲を避けて旋回したので、振り落とされまいと、中原は一層、毛を強く掴む。「あの病室に3年もいたんだ。外のことは、中学あたりで止まってる。だから、それ以降のことはなにもわからないんだ。それに、特段、興味なかった」じゃあ、はじめからだと、サクはその話を聞いても、中原に慰めの言葉1つかけずに続けた。サクと話す時の、その雰囲気が中原にはとても心地よかった。 「始まりは、世界中が公平政策を出したことだった」サクが何かを思い出すように、わずかに言葉を区切る。「公平政策っていうのは、略称で、確かもっと長い呼び方があったけれど、今は思い出せそうにない。まぁ、難しいことを省いて、とりあえず、概要だけでいいね。簡単にいえば、その政策は『死をもって』生物の平等を規定する運動だった。肌の色、人種、国籍、それら全ての差別をとりはらい、権利の平等を担保する。国際条約として世界会議で決められた、その大義の根拠は誰もが死んでいくということだった。確かに、ライラックを駆け巡る雄馬であれ、屠殺場に流される豚であれ、みんな行き着くところは同じ死なのかもしれない。自然は、ある主体の崩壊によって、次の命を作り出す。ただし、この理論はある1点の現実で破綻していた」不死鳥だと、中原は呟いたけれど、サクにはきっと、その声は聞こえなかったのだろう。夏の空は、とても風が強かった。「この世界で唯一、死なない不死鳥は公平政策にとって、目の上のたんこぶだった。人間というのはおそろしいね。定義や数字を持ち出すと、理想との根本的な矛盾については、全く、疑わなくなる」 「そもそも、平等を作り出そうとすること自体、馬鹿げてるよ」張り上げた中原の言葉に、今度はサクの首が縦に動いたのが見えた。「理想郷は、いつも排除から始まるんだ。不死鳥への弾圧は、徐々に激しさを増した。身を隠し、かろうじて平生を保っていられたのも、次の冬までだった。冬に行われた会談によって、連合国事業としての本格的な不死鳥狩りが始まった。周辺の山を崩し、水源を汚し、植物を躊躇なく踏みつけて、人間は血眼になって、不死鳥を探した。やがて、仲間が何体か捕まり、ついに、俺たちの住処を割り出すことに成功した。岩で隠していた地下への入口をドリルで開き、兵は下の通路に潜んでいた。それは殲滅のために、よく練られた作戦だった。奇襲が起こったのは、仲間が全員が眠っていた夜だ。元々、俺たちはみな、追われることに慣れていなくて、見張りも手薄だった。電気のない地下でも、俺たちの姿はよく目立つ。特に羽を使えない狭い空間なら捕まえるのは、そう難しいことじゃない。たとえ、そこから運良く逃げだせたとしても、5箇所あった出口には包囲網が巡らされていた。姿を消せない俺以外の仲間は、その夜、残らず捕らえられ、今は……」 今はと、中原はつぶやいた。一体、どこへ?と、尋ねざるをえないような、わずかな隙間が開く。サクはポツリと、この羽で永遠に登っても辿り着けない遠いところだと、言った。 ちょうど、狭い雲間になって、サクの姿がチラチラと消え始めたが、語りが中断されることはなかった——その後、多くの策がとられたが、誰も俺たちを殺めることはできなかった。なにを用い、器の肉体を壊しても、核の魂が壊れることはなく、何度も再生するからだ。収容塔でどんな実験が行われたかは公にされていないが、きっと、語ることも憚られる内容なんだろう。だが、結果的に、人間は不死鳥を殺せず、代替案を強いられた。仲間は、ロケットに詰め込まれ、飛ばされた。いわゆる、流刑だ。宇宙へと打ち上がったロケットに、到着の場所はなかった。帰れないように、地球の外まで運び出せば、それで目的はすでに完遂されるからだ。地球からの永久追放、それが死なないという異端に科した、人間からの罰だった。仲間達は故郷を失い、この藍色の宇宙を漂うことになったのだと、そこで街を抜けた。そして、サクはぴたりと口を閉じて、羽で風を切り進んだ。 2場面 中原が長い夢から醒めると、小屋の中にいた。目の前の子窓についた水滴をふくと、その先で熱い黒雲が張り出した空で青い稲妻が光り、中原の顔を照らした。見慣れた商社ビルや車もない、周りは鬱蒼とした山のようだった。耳を澄ませると、雨音に混ざって蛙の声が聞こえた。飛行中に眠ってしまったせいで、中原は自分の居場所について検討もつかなかった。大きなあくびをすると、起きたか?上からサクの声が響いて、中原の座っていた地面が動いた。赤のカーペットだと思っていたものは、サクの体だったのだ。先ほどよりも体は数倍大きくなったサクは首をかがめて、小屋の中になんとか収まっているようだった。満たされ羽がつなぎ目から入る隙間風を塞いでいたので、寒さを感じることはなかった。 こんがりと焼き目のついた魚を長い葉の上に乗せ、器用にクチバシで寄せて、中原の前へ差し出した。少しさめているけど、味は悪くないだろう、そうサクに言われ、丸葉の上に置かれた食べ物をみた瞬間、中原の腹は鳴っていた。グルグルというその振動は、胃液以外に空っぽの臓器の中でやや痛みを伴って響いた。チューブから流れる無機質な点滴が、中原の最近の常食だった。また、その前もほとんどは流動食だったので、口に固形物を入れるのは、実に半年ぶりのことだった。本来なら、白湯などで慣らさなければならなかったのだろう。食事受け入れる準備のなかった体は魚のほんの一口の身にさえ驚き、強い吐き気を催した。それでも、中原は口元まで出かけた咀嚼物を強引に飲み込んだ。その行為はエネルギーを補充するという以上に、これまでのことが幻ではないという世の実感を強く心に与えた。 ゆっくりでいい、どうせ、雨が止むまでは飛べないと、サクに笑いながら促されても、中原は手を止めなかった。積極的な生の行為が、腕の血管がけたたましく血を送り、応えているのがよくわかった。が、薄暗がりの中で、サクの瞳が反射して、チカチカと真紅の光を作るのを目にした時、中原はさっきの話を思い出した。自分も迫害した人間であるのに、なぜサクは自分を選んだのか?と、それがずっと、ひっかかっていたのだ。ふたりの間には、まだ、多くの超えるべき秘密が山積みだった。サクが不意に口を開く。 「この旅の目的は、自分自身を殺すことだった」 ふたりの視線があった後には、不揃いな雨音だけがのこった。草木がザワザワと乱暴な風に煽られ、サクは言葉を続けた。 「生きるのに耐えられず、俺は死を迎える方法を探していた。そして、ついにたったひとつの方法を見つけた。それは花を食べることだった。その花とはもちろん、普通の花じゃない、魂を溶かす毒を持つ花だ。花はこの世でもっとも高潔な魂を宿し、朽ちる時、この世界の悪を一斉に引き受け、体を毒そのものへ作り替える。時間はたくさんあったので、とにかくしらみつぶしに俺は世界を飛んだ。しかし、その放浪の最中に、噂を聞いた。それは、花が単に見つけられるのを待っているのではなく、意志を持ち、自身を受け渡す資格のある者を選別していて、中でも終わりの近い者を好んでいるのだという、奇妙なほど具体的な内容だった。もちろん、街角の眉唾といえば、その通りなんだが、俺にはどうしても、それが花からの啓示のように思えてならなかった。花が他の人間の精神に訴え、自分に近づくヒントを残したという風な気がした。実際、その噂がどこから流れてきたかを、誰も言えなかったし、たとえ追ったとしても3人目にはその噂の居所があやふやになった。でも、これっきり花に繋がることはなにもなかった。そうして、帰るべき場所もないまま、あてもなく飛び回っていると、不意に風がひときわ強い死の匂を運んできた。その時は、もう、わらにもすがるような思いだった。俺は夢中で匂いを追い、そして、その先で安らかな顔で眠るお前を見て、激しい嫉妬が湧き出した。中に潜んでいた悪魔が囁いたんだ。といっても、ごくつまらない悪事の提案さ、いつもなら無視していた。でも、実際、俺の心は傾いてしまったんだ。なにもかも、弱さからだった。こうやって、御託を並べ立てて、結論を引き伸ばしている今もそうだ。でも、もう、それもこれ以上は許されないだろう。白状するよ。俺はあの時、思ったんだ。この幸福な人間をそそのかして、自分の死の道連れにしてやろうとね」遠い目というものを、中原は初めてで見た気がした。雨音はますます強くなり、ギシギシと古びた壁が鈍い音を立てる。少しでいい、俺の過去の話を聞いてくれないか?というサクの問いに、中原は静かに頷いた。それから、サクは本当に過去へ戻っていくように瞼を閉じた。「俺は特殊な能力を元来、持って、生まれてきた。こんな目立つ容姿でも、街を自由に行き来することができたのも、そのおかげだ。俺は、全身を透明にすることができた。それはカメレオンの擬態なんかとは、まるで格が違うものさ。一度、姿を隠してしまえば、どんな高性能のカメラにも映らないし、まして、肉眼じゃ捉えられるわけがない。俺に触れている者以外には、その姿は見えなくなる」中原の顔が光り、立て続けにピシャリと、ほんのわずか近くで恐ろしげな雷鳴がとどろいた。中原は、病院の窓を飛び降りた時のことを思い出した。確かに、サクがどこにいるのか全く、わからなかった。 「みな、俺を羨ましがったが、優れた特性で俺はすっかり天涯孤独の身の上になった。ただ、身に起こったことの全てをそのせいにするわけじゃない。もっと奥の、俺自身の根底にある卑怯さが、ここまでの不幸に導いてしまったことは、重々わかっている。人間が投げた網の中で仲間が血を流し、ひきずられていった、あの夜、もしも、自分だけは助かりたいなんて、そんな馬鹿げたことを思わなければ、俺は仲間と共に行くことができたんだ。そしたら、今もこの上で煌めく星の果てで、ずっと一緒にいられた」 ——本当は誰よりも臆病なんだ。そう言い放った時の、張り裂けそうな表情を中原は見ていられなかった。それは、さらに深く、鋭利に磨き上げた、ほんの少し前の自分の絶望を露骨に突きつけていた。「公平政策の捕獲の最中、俺はひとり、2つの山を越え、川から遠く離れた、洞穴へ閉じこもった。皮肉なことに飲まず食わずでも、この体はビクともしない。この時のためにあったみたいに、なんの不自由も苦痛も感じなかった、単に身を隠すだけならだけど……。おそらく1年か2年、そこにいたんだろう。間違いなく、生涯で一番長い時間だった。外の景色にさえ、無頓着になり、ついに起き上がることさえしなくなった時には、このまま石にでも成り果てたいとさえ、願ったけれど、結局、奇跡なんて起こりはしない。俺を救うのは、他でもない死だけだった。仲間と離れてから、故郷である地球に魚が地上で上がってはねるみたいな、息の詰まる違和感が付き纏っていた。俺の前の世界だけがずっと苦かった。もちろん、こんなに悶えるくらいなら、いっそ、仲間の乗ったロケットを追いかけた方がいいって、なんども思ったのさ。でも、その度に適当な言い訳を作って、俺の足は震えていた。未知の宇宙へひとり、飛び立つ勇気なんて、どこを探したってまるでなかったんだ。つまりさ、こんなにことを並べ立てても、最後はやっぱり、自分自身の弱さが原因なんだ。何もかもをなくしたのは、自己責任なんだ。笑っちまうよな。これは、紛れもない確信なんだけど、多分、守れる強さがなければ、そこに命を懸ける信念がなければ、誰かの正義にやり込められて、俺達は当たり前の奴隷にされるんだよ。本当は、こんなことに気づきたくなかった。知らない方が幸せになれることなんて、ザラにあるだろう?本来の俺は、きっと、こんな悲痛な嘆きを戯言だと笑い飛ばすような、そんな生き方をする側だったんだろうなって、時々、思ったりする。でも、人間が、思想が、時代が、それを許さなかった」 サクは一息をついて、クチバシをカチリと鳴らした。芯のないひどく、虚しい音がした。 「寒い日だった。突如、最も恐れていた事態が起きた。夢も見れないほど浅い眠りから覚めると、仲間のロケットの消息がすっかり絶えていたんだ。そもそも、俺たちはみな、生まれた瞬間から魂を共鳴させ、遠くにいても互いの存在を感じ合えた、その夜までは……。俺は慌てて外に出たけれど、星の輝く空にいくら首を伸ばしても、やっぱり、鼓動のリズムはひとつだけ。ロケットが遠くへ行きすぎたのか、離別から時が立ちすぎたせいなのか、理由ははっきりわからない。とにかく、俺には選択肢を選ぶ余裕も失った。もう、俺の手に残るものはなにもなかった。こんな広い世界の中で、俺は本当の意味で孤独になった。そして、自分の魂をこんな風にダメにしてしまったんだ」サクはそういって突然、胸を開いた。無理矢理にこじ開けたわけではなかった。そうなりうるべきと感じるほど、とても自然な動きだった。見ると、羽の付け根から首までにドーム状の綺麗な切れ目が入り、いつのまにか小さな扉が出来ていた。ほら、覗いてと、促されるまま、中原はその戸に顔を近づけた。が、恐れていたほど、体内に生々しいものはなかった。真ん中にサクの心臓がかぎ針に絡むように吊るされて、ドクリドクリと規則的な収縮をしながら、機械的に動いているだけだった。内臓や血管や細かな神経も、まるで初めから存在していなかったようにだ。こんな大きな体を、どうして動かせるのだろうと思いながら、見えるものが全てじゃないと、サクのセリフがスヌーズのように響いた。心臓の曲線は信じられないほど技巧的かつ、奔放な生物を描き、混じり気のない灼熱の深紅をたたえ、神秘的な無を領有していた。中原は、こんなにも複雑な形を知らなかった。 中原は唖然としながら、それでも隅から隅までの隠された造形を丁寧におった。とにかく、自分の情景を焼き付けようと、思ったのだ。脈打つ度、放たれる金色の輝きによって、中原の顔はおろか、部屋中が光で満たされていた。けれど、その中にひとつだけ、わずかに調和を乱すものが混じっているものを見過ごすことは、中原にはとても耐えがたかった。真っ白のワンピースについた小さなシミように、完璧なものほど、小さな欠陥が致命的になり、幻想を冷めさせる。前屈みになり、目を細める。すると、問題の黒点というのが、簡単には拭えない、穴らしいということがわかった。ことに、幅は小さいが、袋小路の気配さえ感じなかった。中原が思わず、サクの方を振り向こうとすると、その疑念に答え合わせをすると言わんばかりに、息を止めて、よく見ていてと、サクが耳元まで首をもたげて、囁いた。そして、数秒、口を閉じると、穴の入り口からダンゴムシのような、小さな甲虫の頭部がニョキリと突然、現れたのである。中原は思わず声を上げてのけぞった。が、サクはそれを慣れた手つきでついばみ、素早く地面へ叩きつけた。床ではその小さな虫が、いかにも痛々しく、四肢をカチカチと悶えていた。しばらく虫は体勢を戻そうと試みていたが、触覚はすでに反対向きに曲がり、足の動きはひどく錯乱していた。嘴が食い込んだ腹からは黒い体液がどっと溢れ、次第にカチカチという不気味な顎の震えも止まり、背中側から溶けていく。そのまま、虫のいた場所には大きな黒ずみだけが残った。その光景は死が虫の自我を覆い尽くし、まるで生を強奪したかのようだった。死の知らない一面だった。中原は恐る恐るその場所を触ったものの、さっきの記憶の中以外に、この世界に虫がいた存在の証明はなにも残らなかった。「見たか。こうして外に追い払えば、瞬く間に死んでしまうような虫だ。でも、油断するな。こういうものほど、侮ったらいけない」ち、サクは声を荒げて、続けた。その虫は、俺の弱さを寝床に、魂を食っているのだ、と。サクは胸の扉を静かに閉じた。部屋は、急に肌を寄せなければ、凍えてしまう冷たい夜へと戻った。最後の光が部屋の角にあたり、消えていくと、中原はわずかに切ない気持ちになっていた。 「他人に愛されたいという欲望の黄昏は、時に闇の始まりになり、虫の介入を許す」 「愛されたいということが、悪いことなの?」中原の問いかけに、サクは難しい顔でうなずいた。「その衝動自体を否定はできない。なぜなら、創造主のみが、愛の価値を決められるからだ。でも、それならば、俺たちは俺たちなりのやり方で、愛と向き合わなければならない。この心の漂流者となり、愛に飲み込まれてはいけないのだ。愛されたいと思う以上に、誰かを愛さなくては……。自分から求め続ける愛では、到底、心は満たされない。書物が知恵を求めるものを拒むように、いつしか、己の孤独が穴を開け、魂を汚してしまうのだ。気をつけろ。誰の中にも虫は潜んでいる」サクは中原の胸を、嘴でそっと叩く。中原はふと、思う。シミになった場所で、消失した虫は、いったいどこへ行ってしまったのだろうか、と。そのまま、手でゆっくりと肌に触れれば、鼓動の正確な刻みの裏側で、カチカチと、不規則で小さな苦しみの音がわずかになった気がして、中原は腕を振る。「しかし、こんなことを説教じみて言うのは、俺が手遅れであるためなんだ。何度、やり直しても、無垢な魂には生まれ変われることは出来なかった。どれほど、願ったところで、許されはしないのだろう。話はこれで終わりだ」と、サクは、深く重い息を吐いた。 「傍にいてくれて、ありがとう。俺がすんでのところで立ち止まれたのは、お前を道連れにする勇気がなかったからだ。俺の弱さのために、この計画は破綻したんだ。俺は、お前と出会えて初めて、自分の臆病を誇らしく思えたんだ。ありがとう。雨がやめば、俺は行く。もちろん、お前が望むなら、どこでも送り届けよう」と、サクはあの引きつった笑みで溢れてやまない悲しみに蓋をしようと努めているのが、中原にはよくわかった。手を伸ばすと、サクは中原の思いを拒むように、さっと背を向けた。「お願いだ。一時の同情のために、ついていくなんて、そんな残酷なことを言わないでくれ。もう、決めたんだ、これだけは変えるつもりはない。悠一、お前は、俺と違う世界に生きているんだよ。お前には、帰りを待っている人がいる。泣いてくれる人がいる。わざわざ、こんな恥さらしをしたのも、やっぱり、お前にだけは、幸せなって欲しいって、本気で思ったからなんだ」 中原はじっと、黙っていた。ただ、それはかける言葉を失ったからではなく、いまや、どんな言葉をかけても、サクを救うことは出来ないとわかっていたからだ。目の前の友の肩は小刻みに震えていて、柔らかな羽は小さく縮み込んでいた。だから、中原は言葉の代わりにきつくサクを抱きしめた。確かな友情をつくるのに、時間は必ずしも必要ではない。ひと時の感傷が明日の光を生み出すように、ふたりの心にあった尽きない悩みの渦が、その熱で埋まっていった。「もう少し、ここで眠っていよう。雨が止むまでだ。別に、この旅を急ぐ理由なんてなにもない。僕はなにがあっても、ずっと、君のそばにいる」力なく崩れ落ちたサクに、中原は囁いた。出発の刻、外は薄く雲が広がり、辺りは暗いままだったが、サクの背に乗った中原は非常に快い気持ちだった。 「いいのか?」と、また不安げな顔をしたサクに、中原は「僕も君がくるまでひとりだった」と、強く応えた。そう、見えるものが全てではないのだ。何も生み出さず、時間だけを浪費し続けていた、中原の体を『ある』というだけで褒めた人々の輪の中で、襲った無性の寂しさの正体が孤独だったことに、中原は気づいたのだ。心は事実によって、生かされているわけではない。むしろ、白日に晒されていない透明の繋がりにこそ、歩き続ける理由があるのだ。あの病室で、中原は人間であることを忘却し、「病人」となった。サクが窓に止まるその日まで、中原は盲目的に、死に向かうこと以外の意思を放棄させられたモノに成り下がっていたのだ。 中原は腕をいっぱいに広げ、風の騒音にも負けない声で高らかに叫ぶ。 「さぁ、花を見つけにいこう」と。 ——雨は止み、中原はサクの背に乗り、どこまでも遠く旅をした。どうせ、死ぬのならば、もう一度、世界を見てからにしようと、提案したのは中原だった。三日三晩で、アラスカの新雪を踏み、夜は森の窪地に眠り、昼の間中ふたりは行動を共にしたが、あれから中原があの羽を食べるたびに、サクの胸はまばらに薄くなり、ついにサクの異変が現れたのは、朝方出発してからすぐのことだった。 「一体、花はどこにあるんだろう?」 「想像の世界の狭間だと言われているけど、詳しいことはわからないね。やっぱり、感じないかい?」なにもと、中原は申し訳なく答えた。中原には案内人という自分の役目を果たす自信はなかった。周りを見渡すと、緑の草原が永遠に続いていた。空から見下ろせば、ほとんどは色の塊のようにしか見えない。ただ、どこまでも続いている。「花は全ての生き物に見えない糸を繋いでいる。いつでも、見つかることを望んで、肯定しているんだ。まだ、お前は信じていないだけだよ。大丈夫、お前にはちゃんと素質がある。理論の外側にあるものを心の底から信じれば、きっと……」サクの言葉に熱が帯び始めた時、中原はサクの首のあたりから、ボタリと蝋燭の溶け出した蝋のようななにかが垂れたのを見た。目を擦ろうと手のひらをあげると、そこにはべたりと赤いゼリー上の塊がついていた。「ねぇ、これって……。大丈夫?」サクは答えなかった。状況を判断するにせよ、ここではとても風が強すぎた。中原は筋肉が落ちた足で背に生えた羽にしがみつきながら、手を伸ばし、サクの体を登った。頭の方へ上がっていくほど、ドロドロのキャンディのような液体が体全体に絡みつき、押しては戻されて、それだけで骨の折れることだった。しかし、そこにあるべきサクの顔はなかった。ツノが生え、クチバシは前に伸びる頭蓋骨の一部となり、鉤爪は足のような突起物に変化した何かがあった。心臓のあたりには、何十匹にもなるあの虫が黒い渦状の群れになり、ぐるぐる回りながら噛み付き、傷口から赤い粘液が地上へ振り落とされていくのが見えた。サクの意識すでにはないように思われたが、その瞬間、「あの場所で、待っている」と、紛れもないサクのか細い声が聞こえ、中原の足元が陥没した。最後の景色はサクの羽が消え、腕へと姿を変えたところだった。そのまま、中原は重力のまま落ちて、恐怖を感じる瞬間もなく、地上に叩きつけられた。どさり、音に遅れて、内臓が揺すぶられる鈍痛がした。数秒間、中原は息も出来なかったけれど、中原の体を守るようにゼリー上に溶けたサクの肉片が囲んでいたために細かい打撲を無視すれば、立ち上がることができた。元々、痛みに強かった中原はすぐさま、サクを探すことを試みた。が、周りの草木は十分な発育をしなかった155センチ程の中原の背丈より高く伸びて、空を覆っていた。 「サク」原野に響く精一杯の声を受け取る者はいなかった。さっきまで、中原を包んでいた肉片を掴むと、マグマのように熱を打ち、どこかにいる主人の鼓動に合わせて、脈を打ち続けていた。サクの魂はまだ、この世界にある。正確な居場所はわからないが、確かに生きているという1つの答えだけがあった。 目をつぶると、風がそよぎ、風の中にあの花の香りがする。懐かしい香りだ、かつて、嗅いだことのある、しかし、今まで忘れていた香りだ。その時、初めて中原は見えない希望を強く信じた。あの花をひとりで見つけにいく。サクが救ってくれた絶望を、こんどは自分が花束にして返すための別れだと、中原は想った。靴はどこかに飛んでいって、裸足の足で土を蹴り走った。森を抜ける。木の梢には、無数の鳥がいた。鳥達は中原を見つめて、ニタニタと笑っていた。それはサクの不器用な笑みとは違う、感情のない嘲笑だ。わかりきった風な批評を量産していく機械だ。その目からは、今もなにも伝わらない。さえずりでは、なにを話しているのかはわからない。ただ、いつも高いところから、標準から漏れた全てに憎悪の念を向ける郡は肥大化して、目的のままにおどろおどろしい容貌になりはてただけなのだ。どこまでいっても、それらは空騒ぎの傍観者に過ぎない。実際、この道を塞ぐ手はなかった。胸ポケットに入れた肉片をコンパスにして、中原はどこまでも進んだ。中原はもう、世界を歪めようとはしなかった。自分を自分として規定する全てのものから放たれ、中原は無限の荒野の道に足跡をつけていくのだ。 曇天から崩れ、雨がまた降り始めた。こんなに厳しい雨を、中原は今まで知らなかった。寝巻きは重く腕に絡みつき、ぬかるみは体力を奪った。そのうちに、足が速度を落とす。しかし、それは疲労ではなく、中原の命の終わりを示していた。サクの羽で増やされた辛うじて延長されていた時間が刻一刻と下へ落ちて、消えていくのがわかった。きっと、花がなくとも、中原はもうすぐ死ぬのだ。中原には振り向く時間もなかった。突き出た岩やアザミで、皮膚から血が流れ出しても、構わなかった。いつ死ぬのかでも、どこで死ぬのか、誰と死ぬのかを、もう、押し付けられたくはなかった。目の前の死を自力で掴むことこそ、中原の最期の自由だった。しがらみで汚れた死を雨ですすぐ。誰がなにを言おうと、今の中原にとって、死は意志であり、最大の尊厳であり、この世界を生きた証明だった。 「サク!」 「サク!」 「サク!」 中原は叫んだ。馴染まなかった声が、最後のパズルピースのように綺麗にはまっていく。背に叩きつけていた雨粒が、本当の色を取り戻す。矢のように落ちた雫は、次第に地面に穴を開けていく。穴は中原を導くように、下へ続いていた。覗き込めば、奥の見えない入り口だった。吸い込まれていく雫を見て、耳を澄ませても、地面につく音は聞こえない。決断に猶予はいらなかった。息を深く吸いきって、中原は飛び込んだ。下へ落ちる風圧で、伸び切った髪が後ろに靡いた。穴はまっすぐで、まるで地球の中心に向かって進んでいるようだった。深くまでいくと、光は届かず、視界を闇が覆った。強い衝撃と音がなる。下は雨水が溜まり、深い淀みになっていた。頭から水に浸かると、息を吸う度、肺へ水が入り、呼吸がうまくゆかなかった。波はとても、重い。はたして自分のこんな小さな手で、サクのもとへ辿り着けるだろうか、そんな余計な考えが浮かぶたびに、水はさらに冷えこんで、中原の熱を奪った。鼻はひどく痛み、足をバタバタと動かす音が、中原の心に溺れる想像を煽る。不安に押しつぶされになる度、誰かがふくらはぎのあたりを引き、自分を沈めてくる感覚にさえ襲われるようになると、これが一種の虚妄なのか、現実であるのかも曖昧になったが、中原は水をかくことをやめようとはしなかった。 死にに向かう、中原はこの瞬間、生きるために必死だった。私利私欲でも、誰かに強制されたわけでもなく、大切な友のために進んできたこの道が、中原は確実に強くしていた。中原は「サク」と、その名前をまた、叫んだ。この先に自分を待つと、契りを交わした友がいる。約束に報う為、中原は懸命に息を吸った。 この瞬間を生きなければならない。 それは初めて芽生えた、生きることへの使命感だった。そして、中原はついにもがくのをやめた。静かに水中に体を落とし、沈んだのだ。それは何もかもを諦めた結果ではなかった。むしろ、ひとえに光を、希望を、自分自身の内側に見いだすための最後の覚悟だった。求めていたものは、いつでも近くにある。中原の胸元に入った、サクの肉片が泡に変わり、溶けていく。水はサクそのものだったのだ。形を変え、中原とともにずっとあったのだ。それが、花のかした最後の試練だったの。中原の指先が、水底の光へと触れる。 「悠一、待っていたよ」 サクの姿があった。 「ずっと、一緒にいてくれたんだね」 その言葉に、サクは照れ臭そうに頷いた。沈黙はこの世界で思慕を語っていた。もう、水はどこにもなく、辺り一面は、白い砂の大地が見渡す限り、広がっていた。初めて訪れたはずなのに、そこはひどく懐かしく、暖かい場所だった。中原は頬に伝った涙を拭い、「さぁ、いこう。孤独の追いつかない所へ。今度は僕が君を救う番だ」といった。 目の前で花は凛と白く、輝いていた。しかし、摘むまでもなく、それは枯れた後のようだった。中原が掴んだ瞬間に茎やガクは塵となり、ふたりを祝福するように花びらが2枚、足元に残った。 懐から小さなワインを取りだし、サクはグラスに花びらを1つずつ浮かべて、中原に渡した。それから、ふたりはゆっくりと見つめ合い、震えた手で抱擁を交わした。サクの熱い体温が、ドッと中原の方へと流れ込んでいく。サクはありがとうと、中原の耳元で呟き、あの不器用な笑みをこぼして、泣いていた。杯を交わす音だけが響く。とても、静かな時間だった。これはあるがままの姿になるための、第二の出発だった。肉体の死をも超えた、それは疑いようのないふたりだけの幸せだった。 「この世界に祝福を」 同時に、口の中で、花が弾けた。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!