てんてん金魚

8/8
38人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
   夕陽で赤みがかる、美術室の工作台。  放課後に、ひとり佇んでいた背の高い女の子。長い前髪に隠れた彼女の瞳が、突然押しかけたあたしを認めて、驚いたように見開かれた。 「壊れた石膏像を見せてくれたのは、優貴さんだったんですね」 「僕を見つけてくれてありがとう。それから……欠けたヴィーナス像を見て、『これはこれでいい』って言ってくれたこと、ずっと覚えてたよ」  あまりにも優しく微笑むから、あたしは何だか気恥ずかしくなってしまった。 「優貴さんは、女の人が好きなんですか」 「そうだね」 「じゃあ、あたしのことも好きなんですか」 「それはどうだろう? 僕は少し、疲れてたのかな。相談所の検索システムで、千夏さんを指名したのは、ただ単に、懐かしい思い出に(すが)りたかっただけなのかも」  きっと、性別転換をしてからも、彼はたくさんの悪意に晒されてきたのだろう。  例えばお見合いの場で、お互いに意気投合したとして、そこで“秘密”を打ち明けてーー騙されたと、罵る女もいたかもしれない。  彼は今後、日常のちょっとしたことにさえ、傷付いて生きていく。  そう考えると切なくて、あたしはわざと明るい声を出した。 「ちょっと。その気がないなら、乙女を(もてあそ)ばないでくださいよ」 「乙女って、自分で言うかな」  喉の奥で笑いを噛み殺した優貴さんは、何の気なしに、自身の前髪を触った。 「その、前髪を触るのは癖ですか」 「え?」 「あたしに石膏像を見せてくれた時も、同じ仕草をしてましたよね」  こういう、どうでもいいことだけは覚えてるんだよなぁ。  あたしが指摘すると、優貴さんは弾かれたように、前髪から手を離した。そしてそのまま、腕時計に目をやる。 「そろそろ1時間経つね」 「あ、ほんとだ。あの、もしよかったら、帰りにセントラルパークの夏祭りに寄って行きませんか」 「ああ、夏祭り、今日だったんだね」  あたしたちは席を立つ。  すっかり水っぽくなったジュースの中で、小さな氷が涼しげな音を立てた。  あたしはこの時、気付かなかった。  あたしを前にすると、自分の前髪を触ってしまう優貴さん。  彼の前髪をいじる癖は、好意のある相手に対して、表れる仕草だってことに。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!