三、墳神唯一と白昼夢と天邪鬼

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三、墳神唯一と白昼夢と天邪鬼

『同じ高校に行くって言ったじゃない!』 『嘘つき! 大っ嫌い』  もう唯織なんて友達じゃない!  はっきりとそう拒絶されて、私は両手で両耳を塞ぐしか防御出来なかった。  私だって散々親に頼んだし、お願いしたし、沢山泣いたんだよ。  それでもここに来てしまったのは、子どもではどうすることもできなかった。自分の意思では無いけど、こうするしか出来なかった。  楽しんでなんかやらない。  ほら、転校して良かったじゃん。  そう親に言われたら、私は両親を憎んでしまいそう。大好きなおばあちゃんに心配をかけてしまいそう。  ただ親には何年かけてもいつか伝えたいと思ったんだ。転校って、子どもにとっては大きく道を左右して、そして時と場合によっては全て失って、そして地獄になるんだよって。  恨みがましく、言ってやる。  転校なんて死ぬほどしたくなかったんだと。  クスクスクス  柔らかく優しく笑う声。  登校中の通路ど真ん中で、私はそれを見た。 『唯織ってば、バスケで顔にボール当たったのに、そのままそのボール持って敵ゴール突っ込んだの』  クスクスクス  親友の美里が笑っていた。  そう。小さくて可愛い私の親友。  私が馬鹿みたいなことをするとずっと笑ってるの。偶に思い出してまた笑い出すの。  鈴の音が転がるように、その音が広がるように笑い出す。  美里が笑うと、周りが幸せな空気になって好きだった。  一緒に喫茶店を見つけて、同じく美術部に入りたいと夢を持った。  手を伸ばす。あの頃に戻りたくて手を伸ばす。  なのに手を伸ばしても伸ばしても、美里には触れられなかった。 「何してるの」  後ろから声をかけられて、ハッと振り返った。 「……墳神くん」  マスクを摘まんで、私に話しかけていた。  言霊を封印するためにしていたマスクを摘まんで話しかけることに違和感。  いや、本当の本当に言霊使いだってことをまだ完全に信じている訳ではないけどさ。 「いや、えっと」  正面に向き直ったら、当然ながら美里の姿は消えていた。 「ーー何か、見えたの?」  鋭い発言に、何も言えなくなって口を噤む。親友の幻が見えて手を伸ばしていました。  そんな馬鹿な話、誰が信じるの。  誰が信用できるの。  そんなわけ、ないのに。 「何も。知ってる? 背伸びすると身長が伸びるの。時間あれば隙を見て手を伸ばしてるのよ、私」  誤魔化したけれど、墳神くんはずっと学校に着くまで何度も背伸びを繰り返していた。  その日、私は何度も親友を目の前で見てしまった。  移動教室の廊下で、ふと授業中に眠たくなった瞼の裏で、お弁当を食べようと図書室へ移動したとき。  手を伸ばしたら逃げていくその姿。記憶の中の彼女を、映画のフィルムみたいに巻き戻して見ている。  まさか美里が死んで、あれは幽霊?  もし死んだとしても私は嫌われているから現れるわけないし、それに……そんなこと考えてしまう自分が大嫌い。大嫌い大嫌い。消えてしまえば良いのは、私の方なのに。 「白昼夢」 「うわっ」  誰も居ないと油断していた図書室の返却コーナーの奥。  パンをかじっていた墳神くんが、こちらを見ながらそう言った。 「白昼夢じゃない、それ」  白昼夢? 「見えない幻を追いかけてるよ、君」  パンを食べ終わったあと、彼は立ち上がって呆然としている私に近づいてきた。 「何をそんなに必死で手を伸ばして見てるの?」  私は目を大きく見開いた。  見透かされた。私が必死で手を伸ばしてること。  まるで昨日のように、親友との思い出を掴もうと手を伸ばしていること。  馬鹿みたいに必死に、まだ親友を探している。  あんなに暴言を吐かれたのに。  引っ越し当日、見送りにも来てくれなかった相手に。  散々で酷い別れ方をしたのに、それでも楽しい思い出の方が多かったから、だから手をのばしていたこと。  両親だってそうだ。転校したくないって私の本音を、聞いてくれなかった。家出しても喧嘩しても一言も話さなくなっても、私が頑固だって知っているくせに、頑なに譲らなかった。でも嫌いになれなかったのは、私が親を大好きだから。悲しいけど、辛いけど、傷ついたけど、それでも大好きな思い出の方が多いから、だから本当の本当には嫌いになれなくて、だから私は今、ただ一人辛い。苦しいんだ。 「唯織ちゃん」  見開いた目から、大粒の涙がこぼれた。  私は、どれも両手で掴んで放したくなかった。  祖母も両親も、そして親友も。  手放した親友を、白昼夢で見るほど大切だったんだ。  真実が目からポロポロと零れた。  目から鱗ってやつじゃんって、また馬鹿な発言しそうになったけど、それを笑う親友も友達ももういない。もういないんだ、どこにも。 「ごめんね。僕の言霊のせいで現実が見えてしまったのかも」  青ざめて心配げに見てくる彼は、私を馬鹿にしているわけではない。  でも、心が痛かった。悲しいの。辛いの、苦しいの。  それを何故か彼が見透かしているようで、苦しくて胸が痛んだ。 「……もう私に関わらないで」  お弁当を放り投げたまま私は走って、そのまま逃げかえる様に家へ戻った。  走って走って、途中、商店街のバス停前で親友を見た。  白昼夢だ。 そのあと、家の前できょろきょろと私を探しているような様子の親友を見た。  白昼夢だ。  学校から、電話が来た。これは白昼夢ではない。  母が心配そうに「昼休みで家に帰ってきたの?」と私に聞いてきた。  私が学校で上手くいってないことは薄々感じていて、それで聞けないでいた。  きっと自分たちのせいだと私に言われたくなくて、逃げて聞いていなかったんだと思う。  だから私はベッドで漫画を読みながら、普通に言う。 「うん。昼で終わりだと勘違いしちゃった」 「……そう。陸くんがカバン持って帰ってくれるそうだからお礼言っておきなよ」  母はそう言うと、何度も私をちらちらと見ながら、階段を下りて行った。  転校させるなら、私が学校でどうしようと干渉してこないでと伝えて、父と母と喧嘩になった。それを思い出しているんだと思う。  それぐらい私だって心が満身創痍なんだよと怒鳴りたくないから、ここはスルーしてもらった方が嬉しい。  ……泣きたくはなかったのに。  泣くと自分が弱い生き物だと分かってしまうから泣きたくはなかったのになあ。  けどこれ以上はもう何も言いたくないし聞きたくないし、心を壊したくないので漫画に集中した。  一つ思い出すには、悲しそうな顔をした墳神くん。少しだけ申しわけなかった。  彼の言葉のせいで逃げていた思いに気づかされたけど、彼のせいではない。  もし本当に彼が言霊を使えるとしても、あの時ちょっとだけマスクを触っていたとしても、彼の力ではない。私が弱かったから隠せなかっただけなんだから。 「うわっ」 「きゃっ」  家の前で何かが弾ける音がした。それと同時に、海士野と誰かの声。 二人が私の家の前で騒ぎだしたので、億劫になって布団を頭までかぶった。  海士野の馬鹿。きっとカバンを持ってくるのを、同じクラスの女子と一緒に来たに違いない。だって私と同じクラスの女子を何度も近づけようとしていたもの。  何か騒ぎだして、更に家の前がうるさくなった。 「あんたたち、そんなところで話すぐらいなら、入っておいでぇ」  おばあちゃん。  おばあちゃんが窓を開けて、二人を招き入れてしまった。  二階から覗くと、海士野がずかずかと庭に入ってきている。  そして二階を見上げて私に手を振った。 「おーい。お前、降りて来いよ」  馬鹿じゃないの。降りてくるわけない。  なのでカーテンを閉めて逃げようとした。 「待て、待てってば。友達来てるぞ、美里って子」  ――美里。  カーテンを握ったまま下を向くと、うちの庭に入れなくて慌てふためいている女の子を見つけた。  よく知っている制服だ。私がたった数か月だけ着ていた学校の制服。  そう。転校する前に着ていた学校の制服。  あたふたとちまちまと動き回っているその小さな女の子は見覚えがあった。  彼女も二階にいる私を見上げて、ぶわっと泣き出したのが見えた。 「い、唯織!」  私の名前を呼んで泣いている女の子は、私に罵詈雑言を吐き捨てた親友だった美里だ。  白昼夢で追いかけてしまうほど、大好きだった親友だった。カーテンを閉めて、私は布団にもぐった。だって彼女が私の名前を呼ぶはずがない。  きっとこれも白昼夢だ。過去ばかり見ていた私が、とうとう願望を夢に見てしまっていたんだ。  これは夢。夢だ。 「唯織、ごめんね、ごめんね」  都合のいい夢にしか思えない。だってあんなに私を罵っていたのに。  謝るなんて都合がいい夢に過ぎない。 「うわっ」 「きゃあっ」  また二人が小さく叫んだけど、私は布団から出て行けなかった。 「どうしたの。二人とも大丈夫かえ?」  おばあちゃんがおろおろした声を出す。それなのに私は布団の中で縮こまったままだった。 「大丈夫。野襖ってやつ。きっと俺と美里って子が唯織に意地悪してると思って通せんぼしてんだろ」  海士野はもう一度おばあちゃんに、大丈夫だよーっというと小さく空間を切り裂くような爆発音と共に走り出した。  海士野が何を言っているのかも何をしているのかもわからなかったけど、段々と足音が聞こえてきて、そのまま鍵をかけた私のドアの前で足音が止まった。 「あのさ、唯織。お前の親友がこんな田舎町に、何時間も迷いながらバスに揺られてやってきたんだとよ」 「知らない。会いたくない」 「なんか、今お前って天邪鬼がついているらしいからさ」  その言葉、信じないよと海士野は言うと、器用に隣のトイレのドアから私の部屋の窓までやってきた。 「うわ、靴下真黒になった。瓦の上って汚ねえな」 「何してんの!」  布団を振り払い起き上がると、窓を開けて中に入って来ようして躊躇している海士野の姿があった。 「いや、靴下脱いだら部屋入っていい?」 「脱いでも汚いからダメ」 「天邪鬼、天邪鬼」  うわあ。部活帰りで泥だらけの海士野なんて靴下脱いでも履いてても同じぐらい汚れてるっての。  私が呆然としていると、海士野がポケットにいれていた紙を取り出した。 「これ、なんて書いてるか分からないけど、お前にもやるわ」  受け取った紙は、手に乗ると一瞬で焼けるように消えて行った。 「なにこれ、手品?」 「分からないけど墳神がくれた言霊がこもった紙。野襖を追い払ってくれてたからお前の天邪鬼も追い払ってくれるかなって」  海士野の言っていることが何も分からないけど、手に少しだけチリチリした痛みが走った。その痛みが、胸に伝わってきて、同時に心も痛むのが分かる。  海士野には大量に渡してるし、おばあちゃんにも渡してた。  でも私にはこんなの渡してくれなかったのに、ずるいじゃない。 「おーい。唯織」  海士野が私の目の前で手をひらひらさせた。  顔を上げて海士野を見ると、困ったように笑っている。 「すごいビクビクしてた。次のバスが最終だから見つからないなら諦めるって泣きそうだったぞ」 「……だから」  だから何って言いたかったけど、代わりに涙が一粒流れ落ちた。  なんで涙は、素直に流れてしまうんだろう。 「行ってやれよ。で、文句も言えばいいじゃん。お前の事友達だって思ってないなら会いに来ないと思うぞ」  そう言われて苦しかった胸を掴んで、それと同時に足が震えた。  足が震えて動けなくなってしまった。 「動けない」 「お前ってば、強いのか弱いのか」  呆れたように溜息を吐くと、私の手を握った。 「分かったよ。行くぞ」  私の手を掴んで、強引に部屋の外へ連れ出してくれた。  力強い海士野の手。  昔、子どもの時に喧嘩しても私が勝っていたのにきっと今はもう、違う。私より力も強いし優しいのに、それなのに私を守ってくれている。  海士野は本当に良い奴だ。良い奴で、優しくて面倒見のいいやつなんだ。  連れ出された先は、少し荒れてしまった祖母の庭の前。  裸足の海士野と急いでスリッパを穿けた私は、ぬかるんだ地面の前で立った。 「唯織ちゃん。お客さんよ」 「……ん」  ぬかるんだ地面を見つめる。雨なんて降ったっけ。  それとも祖母が、窓から水やりをしたのかな。足か悪くなって全然庭を弄れないって落胆してたから、庭に手を伸ばして水をあげたのかな。  真実が分からないぬかるんだ地面は、悲しい想像ばかりしてしまった。 「唯織、私……」  久しぶりに聞く美里の声に、逃げ出したくなった。暴れたくなった。 「私、謝りたくて唯織にメッセージを送ったら、いつまで経っても既読が付かなくて」 「うん。ブロックした。もう罵詈雑言受けたくなくて。引っ越す前に、何回説明しても、酷い言葉しか、……い、言われなかったから」  涙が込み上げて俯いた。涙がぬかるみに染みて消えていく。 「うん。それでも既読いつか付くかなって付くかなって思ってたら名前が消えちゃったから。メッセージアプリ自体アンインストールしたんだなって気づいて」  美里の足元にも涙が落ちて、染みていく。 「私が、唯織を追い詰めたから誰とも交流したくなくなったんだなって。もしかして転校しても唯織は一人なのかなって。私のせいで唯織はずっとずっと……」  ぺしゃんと倒れ込んだ美里は、わんわんと泣きだした。 「ごめんね。さびしかったの。ずっとずっと寂しかった。どうして友達なのに離れなきゃいけないのって、さびしかったの」  そんなの、私だって一緒だ。一緒だった。それでも同じ気持ちの私を拒絶したのは、美里のほうじゃない。  唇をかみしめて、逃げ出したかった。それなのに海士野が私の腕を掴んだまま、離してくれなかった。 「ごめん。許してくれなくてもいいから。だから唯織は私みたいな嫌な奴じゃない人と友達になって。唯織なら面白いから、もっと友達できる。私みたいに独占欲の塊みたいな嫌なやつじゃない。もっといい子が友達できるよ」  美里は自分を許してと泣いているわけではない。  私が一人じゃないか心配になって駆け付けてくれていた。  自分が突き放したくせに、それって酷いじゃない。自分勝手じゃない。 「なんでよ。あんなに私だって引っ越したくないって美里と一緒に居たいって言ってた時は拒絶したくせに」 「ごめん。ごめんね」 「誰も私が引っ越したくないって、離れたくないって叫んでも聞いてくれなかったのに。私の言葉が消えて意味も無くなってたのに」 「うううう。ごめんね。一人で苦しめてごめんね」  わんわんと泣いている彼女が、どんどん視界から滲んでいく。 「美里の馬鹿! 今更点数稼ぎに来ないでよ」 「ごめんね、ごめんね」 「知らない。馬鹿、ばかばかばか! 知らない」  咳を切ったかのように泣きだすと、なぜか海士野まで鼻を啜り出した。  私は、美里に馬鹿って暴言を吐きながら泣き続け、美里はずっと謝りながら泣いていた。  こんな鼻を真っ赤にさせて、膝を泥だらけにして泣いている美里は見たくなかった。  白昼夢で見ていたのは、ずっと楽しそうに笑う美里だけだったんだよ。  わんわん二人で泣いていると、帰宅した父と家の中でおろおろしていた母が家の中に引きずり込んでいた。  そして泥だらけになった美里と私は、お風呂に入った。  真っ赤になった鼻の美里を笑うと、真っ赤になった私の目を美里は笑った。  お互い何度も何度も笑って、そして喧嘩した。  会わなくなった時期の恨みつらみを話すうちに、泣いたり笑ったり忙しかった。  久しぶりに誰かとこんな風に笑って、泣いて、怒った。  転校先で諦めていた私には、久しぶりに友達と沢山話せることができた。  お風呂から出ると、漬物とかおいなりさんとか田舎臭い茶色いメニューばかり。  学校帰りにジャンクフードとか食べていたから少し恥ずかしかったけど、美里は美味しそうに食べてくれた。 「沢山泣いたし、沢山さまよったから、超おいしい」  頬袋みたいに詰め込んで食べる美里は、ちまちました小さなハムスターみたい。  ご飯をたべたあと、お父さんが終電がまだある二個向こうの駅まで送ってくれた。  久しぶりに見る美里に、両親も喜んでいる。  まだ私たちはどこかぎこちなかったけど、昨日喧嘩して今日仲直りしたような気持だった。 「……唯織さ、またメッセージアプリ始めてよ」 「ん」 「連絡しようよ。転校しても、友達は止める必要はないし」  唯織は離れても私の友達だって気づいたんだって。  鼻水まで流しながら、美里は泣いていた。  私も泣きながら、今までの不満を全部吐き出したと思う。  険悪にならずにはっきりと伝えられて、清々しい気持ちになっていた。  思い返せば、美里と離れたくなくてこんなに荒れていたんだから。 「唯織」  歯磨きしてリビングへ戻ると、海士野が何故かお稲荷さんを食べていた。 「何してんの」 「いや、外で騒いだ罰でご飯残ってなかったんだわ。だからおばさんに泣きついたら、御馳走残ってるって」  いくら昔馴染みとはいえ、年頃の女の子の家にこんな遅くやってくるのは控えてほしいものだ。ただでさえ鼻まで真っ赤にして泣いている後で、誰とも会いたくないのに。 「あのさ、お前さっき、転校したくなかったってぎゃんぎゃん泣いたじゃん」  言い方よ。  良い奴なのに、本当にデリカシーが欠けている。 「菫ばあちゃんもあの場に居たし、ばあちゃんにはフォロー入れておいた方がいいと思う。自分のせいだって思い詰めちゃったら可哀そうだ」 「あっそうだよね。うん。おばあちゃんは関係ない」  私が子どもだったから。  ただそれだけのことだった。子どもじゃなければ起きなかった。私が自分だけで生きれない守ってもらう人間だからだ。 「それと墳神な」  墳神くん。  ちょっと浮世離れしてて、私みたいなやつでも放っておけないような優しい人なのかな。  いまいち不思議なことばかり起っていたので、彼の性格を掴めていない。  私はもう傷つきたくなくて、両手で耳を押えて聞こえないふりして生きてきたの。  だから彼が本当に親切なのか、一人でいる転校生にちょっかいかけている人なのか、私は知りたくもなかった。 「墳神は、唯織の痛みを分かってずっとそばて見守ってくれてたんだから。ちゃんとお礼伝えた方がいいよ」  デリカシーのないガキだと思っていたのに、海士野は墳神くんのことを話すときだけは真面目だった。  私はなんて返事したのか、はたまた返事しなかったのか覚えていない。  ただ気づいたらもうおばあちゃんの部屋に向かっていた。  おばあちゃんは窓を開けて月あかりの下で、のんびりとお手玉を縫っていた。 「目が悪くなるよ」  電気を付けると、おばあちゃんは優しく微笑んでくれた。  おばあちゃんが両足を怪我したせいじゃないよ。  それを伝えたかったけど、おばあちゃんは聞こえないふりをしてくれていた。  おばあちゃんの為に私が転校したのは本当だけど、私と美里を切り裂いたのはおばあちゃんじゃない。それだけは伝えたかった。 「お手玉できたら、二つ持ってっていいよ」 「わ。ありがとう」  どの柄がいいかなと、出来上がっていたお手玉が入っている、御煎餅の空き缶を覗き込んだ。もう十以上あるお手玉の柄は、昔私が着ていた浴衣の紫の紫陽花柄があった。 「ありがとう。おばあちゃん」 「まだよ。全部完成してからよ」 「うん。大好き」  会話になってるのかなっていないのか不思議な会話だったけれど、おばあちゃんはにこにこ笑っているだけだった。  たった一つ道が、変わっただけで私の人生はどん底に突き落とされた気分だった。  それなのに今は、前を向いて歩いてもいいんじゃないかって思ってる。  親友に拒絶されただけで、私の人生をつまらないものにする必要がどこにもないってこと、ようやく気付けた。  私が私で居られる場所を奪われたと思って不安だったんだけど、今解放されて楽になれたんだ。 「おばあちゃん、私ね、美里との仲が消えてしまうようで怖かっただけ。それは美里も同じだった」 「そうね」 「だから今はもう、ここに転校したことも受け入れてるよ。だからおばあちゃんも気にしないでね」  おばあちゃんが悪いことは何一つない。  そう伝えるだけでも、私には大きな一歩になる。 「おばあちゃんは、気にするわよ。孫が楽しいのか悲しいのか。でも明日から一つ、悩みが減るかもね」  布に刺した針がキラッと光る。私も祖母の言葉に微笑んだ。  明日から、少しだけ世界に優しくなれる。  私の叫んだ声は、誰にも聞こえていないわけじゃなかった。ただ耳を押えていた私は、何も見えていなかっただけだから。  携帯を手にもって眠る。白昼夢にはもう手を伸ばすことはない。  四、だから私も消えたい。  彼が私の痛みを分かるはずないと思っていた。  痛みを分かっていないのは私の方だったんだ。  今まで私のことを理解しようと、知ってくれようと、分かってくれようとしていた墳神くん。  少しだけ視野が広がった私は今、彼のことを少しだけ知りたいと思った。昨日の事とか 雨の事とか、小豆のこととか知りたいと思った。  そう思っていたのに事件は放課後に起こってしまった。いや、起りもしなかったかもしれない。  私は長い影が伸びる廊下を抜け、職員室へ向かった。  職員室は結構な人数の先生たちが集まっている。水曜日の放課後は、先生たちは会議があるようだ。職員室で普段は見かけない先生たちも職員会議に顔を出している。  私は再びおはぎを冷蔵庫に預けていたので取りに行って、そのまま何事もなく帰ろうと思っていた。  正確には、もし学校内で墳神くんに会えば自分から何か話しかけてみようと、変な緊張感をもって一日動いていたので疲れていたし帰るしかなかった。 「転校生の、えーっと」 「凜宮です」  相変わらず、パッと名前を出せないおじいちゃん先生は気まずそうに笑っていた。  もう慣れてしまっているから平気だけど。 「おはぎありがとうございました」 「おお。墳神神社にお供えしてくるんやって?」 「はい。まあ」  おばあちゃんが昨日の件も小豆の件も、墳神くんの力のおかげだとお礼がしたいって言うし。私が代わりにお参りして、お守りを購入してくる予定だ。  学校で会えなかったから、神社で会えるのかもしれない。 「あの、……あの」  配られた資料を、私から隠すように裏返しにしてから先生は私を見た。  いつも先生たちの質問からのらりくらりと逃げていた私が、自分から話しかけるのは珍しいと思ったんだと思う。  わざわざ椅子をくるりと回転させて私を見た。 「どうした?」 「美術部って廃部になってるって聞いたんですけど、私、前の学校の人が絵を一緒に展示会に展示させてくれるっていうんです」  先生は目をパチパチさせながら私を見ている。 「だから、その部を作ってみたいって思うのは、生意気でしょうか」  きょろきょろと目を彷徨わせ、手なんて意味もなく手遊びしてしまった。挙動が怪しい私を見て、先生は小さく微笑んだ。馬鹿にしてるわけではなく、見守ってくれている感じだ。 「職員会議で聞いてみましょう。美術の先生は臨時職員だから顧問引き受けなかったら、私がしてあげましょう」 「……えっ」 「こう見えても、美術4とか成績が良かったので」  微妙な自慢で胸を張られたので、愛想笑いで誤魔化した。 「失礼しまーす、先生、これやりなおしです」  勢いよく入ってきて、勢いよく出て行こうとした人物は海士野だった。  海士野はテニスラケットの入ったケースを鳴らしながら、そのまま駆け抜けていこうとしたが私に気づいてUターンしてきた。 「唯織」 「海士野。良かった、あのさ」  いつも話しかけられるとうざいと睨んでいた私が話しかけてきたので、海士野は少し面食らっていた。 「なに? 俺、十分で部活始まるんだ」 「あ、墳神くんて今日休みだった?」  その場で足踏みしていた海士野は首を傾げた。 「墳神?」 「そう。今日、見かけてないからさ。いつもなら嫌でも目に入るのに」 「えーっと、墳神?」  もう一度、海士野が首を傾げて、職員室の窓から指さした。 「墳神神社なら部活終わった後でいいなら案内するけど」 「いや、そうじゃなくて、学校に来てるかなって」 「神社の人が学校に来るわけないじゃん」  ん?  海士野と話がうまく交差していないように思えた。 「私が言ってるのは、墳神唯一っていう黒マスクの隣のクラスの」  しどろもどろに応えていると、傾げていた首の角度が更に大きくなった。 「墳神唯一ってだれ?」  ふんがみゆいいつってだれ?  海士野の声がスローモーションで脳内に浸透していく。 「墳神神社には子どもいないはずだぜ。お前、隣のクラスの名前どころかクラスメートの名前すら怪しいのに誰と間違えてんだよ」 「海士野こそ何を言ってるの。墳神くんだよ。うちの家にも来てたし、あんたも仲良さげだったでしょ」  冗談にしても面白くない。海士野は馬鹿だし単細胞だけど、人を悪く言う人ではない。 「ごめん。何言ってるかわかんねえ。じゃあ、行くから」  壁の時計を見上げた海士野は、先生たちに怒られる前に走って運動場へ向かってしまった。 「墳神唯一?」  勇気を出して下駄箱に立っていた優しそうな女子に聞いてみたけど、海士野と同じ反応だった。  靴箱には名前ではなく、出席番号が書かれている。隣のクラスの靴箱を確認していくと、22番だけ番号がなく、飛ばして23番からまた番号が書かれていた。  二十二番が彼の出席番号だったのかは分からないけど、まるでぽっかりと削り取られてしまったような不思議な感覚。 『僕は消えちゃうからさ』  そんなはずない。彼がいくら言霊を使えると自称したって、クラスメートの記憶を消しちゃうような力があるとは思えない。  うっかりしていて職員室のおはぎを取るのを忘れていたので、急いで給湯室にある冷蔵庫化へ戻っておはぎを取り出した。 「お、はやく出て行かないと職員会議始めるぞ」 「先生っ」  タイミングよく隣のクラスの担任である、小林先生に注意された。 「あの墳神神社の、唯一くんって人、今日学校休みですか」  私がそう尋ねた時、小林先生もまた海士野みたいに首を傾げたのだった。  墳神神社は商店街の一番奥にある。寂れた、どこか懐かしく感じるような商店街を通り抜け、何百年前から聳え立つ木々を潜る抜け、緩やかな坂を上っていくと神社がある。  千秋祭りと言って、秋の収穫をお祝いするお祭りでは、その緩やかな坂に出店が並び神社では巫女さんが収穫を祝う舞を踊る。  五歳まで私は、おばあちゃんの家からこの選手祭りに行くのが楽しみだったのを覚えている。水の中でたゆたう金魚、笛の音、太鼓の音、イカ焼きの甘い匂いと全てが好きだった。  その神社への緩やかな坂を、心臓バクバクさせて全力で駆け上がっていくとは思ってもみなかった。 「すみませんっ」  駆け上がって鳥居をくぐった瞬間に叫んでしまった。 「あの、すみません」  誰がいるかもわからなかったけど、叫ぶ。  すると目を真ん丸にした巫女さんが箒を握ったまま私を見た。 「どうされました?」 「あの! 墳神唯一くん、いますかっ」  走り過ぎてフラフラしながら近づくと、不気味だったのか後ずさりされてしまった。 「怪しいものじゃないんです、あの墳神くんにおはぎを」  私より少し年上らしい女性は、私に困惑しつつも微笑んでくれた。  それが肯定されたように思えて、安心して私も息を整えた。 「神主さまは今はご自宅へ戻られています」 「いえ、神主さんではなくて」 「奥様なら神札授与所に居ますが」 「じゃなくて、唯一くんです。冨浦高校普通科一年二組の二十二番、墳神唯一くん」  出席番号は勘だったけど、巫女さんは困ったように愛想笑いを浮かべた。 「私、ここでもう何年も奉職していますが、墳神ゆいいつくんと言う方は存じ上げません」 「――ええ?」 「奥様、奥様」  箒を放り投げて、逃げて行ってしまった。怖がらせてしまったことが分かる。  でもどういうことなの。なんで急に皆、墳神唯一くんのことを知らないって言うの。  昨日まで学校に来ていたし、ちょっと格好いいって騒がれてたじゃない。  黒マスクだってこんな田舎でしてるのか彼ぐらいだったのに。  どうして私以外は、彼の事忘れてるの。幽霊だったとでもいうの。 「凜宮唯織さんですね」  綺麗な女性がポニーテールを揺らしながら私の方へ駆けてきた。  さきほどの巫女さんもその女性の背中に隠れながら近づいてくる。  この人が、墳神くんの母親なのかなってすぐにピンときた。背筋が綺麗で、凜と咲いた桔梗みたいな人。  その人は、私を見ると少し悲し気に微笑んだ。 「ごめんなさいね。唯一はもう誰にも見えないの」  正し想像もしていなかった絶望を告げられ、私の思考は真っ白になった。  私が戸惑っていると、その女性は巫女さんを遠ざけて私の方へ更に近づいてくる。 「あの、なんで」 「貴方なら見えるのかもしれない。神社の奥の池辺りにいるわ」  もう一度悲しそうに微笑むと彼女は神社の奥を指さした。  神社の奥は、竹林の小道を進むと更に大きな屋敷があってその屋敷の壁の中で、鹿威しの音が聞こえてきた。  中に進むと学校のプールの半分ぐらいの池があって小さな橋が架かっていた。  その橋の柱に座って、池の鯉を眺めている墳神くんを発見した。  発見と共に安堵できた。学校の皆や巫女さんまで忘れていたので、戸惑っていたけど安心できた。  一体何だったんだろう。学校の人たちってば。 「墳神くん」  今更どんな顔して会えばいいか戸惑っていたけど、不思議なことが起こりすぎて緊張が全て飛んでしまった。緊張よりも安堵の方が高い。  色々と言いたいことが溢れて勢いよく名前を呼ぶと、彼はそのまま足を滑らせて池に落ちてしまった。 「墳神くん!」  急いで駆け寄るけど、その光景に途中で足を止めた。池の中に落ちた墳神くんが、服も体も濡れずに立ち上がって私の方へ歩いてくるから。 「なんで」 「なんで僕が見えてるの」  二人で同時に驚いていると、彼はくしゃくしゃに笑った。 「えー。なんで僕見えてるの」  もう一度笑うと、池の中に飛び込んでくるくる回った。水が撥ねないし鯉も、墳神くんを気にすることなく泳いでいる。そういえば橋から落ちた時も音も水しぶきもしなかった。 「どうなってるの?」  ひとしきり笑った後、墳神くんは微笑んだ。その悲しそうな笑みは、先ほどの墳神くんのお母さんとそっくりだった。 「僕、先祖返りって言ったじゃん。自分でコントロールできないんだ。神様がいないこの神無月は、駄目。自分では皆を言霊で騙せない」 「先祖返り?」 「墳神家は、この冨浦町を守る巫女の血を継いでいて、遥か昔に飢饉の時に神様に自分を生贄に捧げていた。で、生贄はいらないって町を救ってくれた神様に嫁いでて、その巫女の名前が千秋」 「おー。祭りの名前」  私が感心していると、彼は笑った。 「だから墳神家は神の血が混ざってるの。でももう何代も前の話しで、父も母もいとこ同士だけど、もう血は薄くてさ」 「でも神様の血が流れているからってなんで消えちゃうの」  学校の皆が墳神くんを忘れていたのが違和感を覚えた。 「だから神無月だから。神の加護がなくなっちゃって、人間でも神でもない僕は上手く存在できなくなっちゃうみたい」 「……そんな」 「加護が受けれない間、皆僕の事忘れちゃうから学校も行けないし、父も僕が見えないし母は見えないけど存在は忘れてないって感じ。だから、この一か月暇なんだよね。お腹も空かないし」  はあと小さくため息を吐いた後、もう一度橋の方へ向かった。 「いきなりさ、毎日過ごしてて笑い合ってる友達や家族から、僕は消えちゃうんだよ。どんな言霊使っても、紙に書いても存在が消えちゃうんだよね」  いきなり自分の存在が消えてしまう。  私は、その消えた世界を見てしまった。学校の先生も友達である海士野も、自分の家で働いている巫女さんも墳神くんのことを忘れていた。  その話が本当だとしたら、足が悪くて墳神神社へお詣りできなくなった祖母が、墳神くんを一瞬だけ忘れていたことが納得できる。 「だから、なんだろう。転校生の君が僕に重なっちゃったのかも。どこにいても存在を消して、一人で居ようとしている君の姿がさ、一人で池の水面を眺める僕に似ている気がするんだ」  海士野も言っていた。墳神くんは私の痛みを分かってくれようとしていたって。 「君は僕も拒絶してただろ。だから僕の言霊も効きにくいし、物の怪は寄せ付けてるし、なんだか放っておけなかったんだよね」 「その、そのことなんだけど、白昼夢から助けられたのは自覚してて、墳神くんにお礼言いたくて」  色々と伝えたいことが沢山あったのに全部ぶっ飛ばすほどの衝撃だった。 「お礼はいいからさ。君ももう少ししたらこの町の空気が馴染んで、僕を忘れちゃうから。だからもうここに来ないで」 「――え、なんで」 「覚えてくれていたことは嬉しかったけど、ある日突然、君も僕を忘れちゃうからね。喜んだ分、悲しいんだよ」  分かってよ、と苦笑されてしまった。  分かる。一人で寂しい気持ちも分かるよ。分かるけど、私は自分から消えたいと思っていたけど、墳神くんは違う。消えたいと思ってないのに消えるのに。 「墳神くん、私の字が綺麗って言ったの覚えてる?」 「そっちこそ、よく覚えてるね」  衝撃的な出会いだったから覚えている。いきなり知らない人が隣に現れたんだから。 「うん。あの時は目に見えるもの全て嫌いだったから言わなかったけど、おばあちゃんに教わってたから字が綺麗って言われるのは嬉しかったの。だから見なくてもいいから毎日ノート持ってくる。ノート持ってこなくなったら忘れちゃったと思うから、見なくて済むでしょ」 「まあ、そうかもだけど」 「でも私、自信あるんだよね。今まで散々色んなものから目を背けてきたから、本当に大切なものだけは見えなくならないって」 「何それ、へんなの」  クスクスと彼は笑った。  明日にも透き通って消えてしまいそうな彼の姿に、胸が痛んだ。  私は自分だけがずっと辛い日々を送っていると思っていたけど、それは違った。  誰にも忘れられたくないのに、ある日皆から存在を忘れてしまう彼。それでも消えたいと思っていた私を、その寂しさを一緒に感じてくれてたんだ。 「毎日、ノート書くよ。ノートは書けるの?」 「どうだろ。書けるのかな。だったら普段僕が使ってるノートの方が書けるかもね」  彼は私を手招きすると、自分の部屋へ案内してくれた。  縁側から覗くと、墳神くんの部屋はギターが部屋の隅っこに飾ってあったり脱いだままのパジャマが畳の上に落ちてたり、意外と生活感を感じられた。 「これならいいかも」  半分ぐらい使っている大学ノートを渡された。自主ノートだ。自習の時間に使うノートだから、確かに自由にできる。 「期待はしないよ。傷つくからね」  彼の言葉が胸を痛めた。言霊のような、本当の言葉だったから。  
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